節分祭の吉田神社にサンタの格好で行ってみた(嘘)(なんじゃそら)(もういいか)(眠い)

吉田神社は大にぎわいでしたねー。
明日もいきます。仕事でね。
早朝7時納品と昼からの回収。

なんでかな。2月。
恵方巻きだとか、バレンタインのチョコだとか。
そういう涙ぐましい企業努力の賜物に対して、冷めた目で見るのはまだしも、鬼の首を取ったように「あんな特定企業のアナウンスに踊らされる奴の気が知れないね、ハハンっ!」というような言動を他人に聞こえるように言う人ってのは、どうも苦手だ。

けども、同じ位、「今年の恵方は・・・あ、そこの人!しゃべっちゃダメなんだよ!無言でね!」みたいに、ルールを押し付けてくる人もどうかと思う。

縁起物ってのは、つまりあれですよ。基本的にはこそっと一人でやるもんでしょうね。
「他人に見られると、ちょっとご利益が逃げる感がある」ようなものじゃないかしら?

「毎朝クツは左足から」と決めている人が居るとして、それはきっと声高に周りの人にいうもんでもなかろう。それはなんというか、他の人には黙って、自分に課した自分のルールとしてやる物であろう。

そして、そのルールを厳密に守った、その厳密さの分だけ「ご利益(?)」がある。
のと同時に、
「(その人が)そのルールをもって厳密に守っている」ということを他人に悟られないことによってもその「ご利益」が増す、ような気がする。

のは、なんでだろうか?その心理は?
あれ、僕だけか?

まぁいい。

宗教というものには、明確な根拠が無い。
明確な根拠が挙るものは、あらかた「科学」と呼ばれる。
その「根拠がない」ものを「信じることができている」「信じようとしている」ことに価値があるわけだ。だって、根拠がある物を信じる事なんて誰だって出来るのだから。

「根拠が無い事を信じる」ことによって、

「根拠が無いにも関わらず、信じている私」

「根拠が無いにも関わらず、信じられている対象」
とのバリューを同時にあげる。
というのが、宗教の入り口の基本スタイルなんだろうし、その意味において「ジングス」「ゲン担ぎ」というのは、実は「信心」というものの基本的なスタイルだと思える。

イワシの頭もバレンタインのチョコも、その根拠の無さによって価値を高めうるのだから、
「ロッテや明治の思うつぼじゃないか!」と冷やかしたりするのも野暮だし、コンパスで南南東を調べるのも野暮ですよね。


「それ」がわかんないけど、でも「それ」を信じても良さそうに思うのなら、一人で静かに信じるのがいい。
ぜひ。そうしましょう。
そうすると、きっと善いことがあります。


「それ」を大勢で声高に一斉に信じようとするのは、きっとその「根拠の無さ」に耐えきれずに、「周り人もこれだけ信じてんだから」という、(その信じる対象に対しての)新しい「根拠」を与える事になるのだから、実はその事によって「(私が)信じる事」の価値も「信じているもの」の価値も下げてしまう。だからそうするとそれは「信じる事」というよりも「信じてるよね?」「お前も信じてるかい?」という確認作業に重心を移すことになるだろう。宗教的不寛容。そしてそれによる悲惨なコトというのは、おおよそそなへんの事に起因しているのだろう。


だから。
一人で静かに。わかんない物を。
信じましょう。
その「わかんなさ」の分だけ、きっとあなたと「それ」は素敵なんです。
(いや、わかる物も信じてもいいですよ。善い事があるかは知りませんが)













































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