備忘。稽古場メモ

ホントいよいよ迫ってきました!

皆さん是非是非ご予約をー。

こちらから「スナップ\スコップ」公演のページ


今朝は普段より遅めに出勤で昼上がり。
家に帰って、考え事。をするうちに寝てしまう。
が、そんな事は想定内なので、きちんとタイマーをつけている。
って、その時点で寝る気まんまんではないか?
いや、あわよくば起きていたいというおもいはあるのだけれども、
こりゃ寝るな・・・とも思っていた。

昼寝。をするときに、なんだか、いかした思いつきをする事が多い。(これホント)
なんか、考え事をしながら、寝てしまう。
と、まさに今悩んでいる問題に、「ドリーミングな回答」が与えられる事がしばしばある。
が、「ドリーミング」で在るが故に、実際の創作には、まったく使えないことも多い。当たり前だ。

そして、今日の昼寝で、そんなドリーミングな収穫があったのかというと、そうじゃなかった。

そんなに甘い物ではない。


歯医者に行こう行こうと思ってもう一週間が過ぎる。痛くはないのだが、かけた歯がぐらついている。(多分、前に埋めた奴が浮いて来てる?)


・・・・

言葉が、線だとしてみる。輪郭線。
つねにそれらは、「その物」と「非ーその物」の二つをてらしている。
「ワンワン」という言葉は、「犬」と、それを見ている(?)「2歳児」をてらしている。



「線」には幅はない。が、幅がなければ私たちには知覚出来ない。
私たちが日頃「線」だと思っている物は、それがボールペンで書かれたものでも、筆で書かれた物でも、何しろ(ほんのすこしであっても)幅がある。
それは「面」だ。本当は。いやそんなに神経質になる必要はない。その必要が在ると言ってるのではない。
で、私たちが普段感じる「線」というものは、本当の(幅のない)「線」が、授肉したものだ。と考える。
線は、本来幅はないけれども、インクや絵の具や糸や、なにしろある「幅」を受肉する。ことによって、私たちに感知しうる。
インクや絵の具や糸は、一種の「器」で、その「器」に線が宿るときに、それが私たちが「線」だと認識出来る物になってる。

とする。
(「とする」って話ですよ。勝手に決めた事ですから)

では、「言葉」を『線」だと考えた時に、絵の具、インク。つまり言葉が受肉する、その「器」というのが何か?

それは、「文字」。そして「声」も。

私が声に出して離した時点で、それは実は厳密な意味での「言葉」ではなくなってるのではないか。
「(私たちにわかる)線」が本当はそれは「面」であるように。

ここでの「厳密な意味での言葉」と言う物に、僕はそれほど興味がない。
なんというか、それは、もう雲を掴むような話でわかんないので。

ではなくて、つまり、実際的な話としてですね。現場のね。稽古場でね。いや本番の舞台上でも善いですよ。
そこにある(つまり俳優によって話された)台詞」というものの、二重性をですね。どう料理するかと言う、本当に実際的な問題を考えているのです。

それは「声」である。
同時に、それは「言葉」である。(厳密には違うのだが)

その線がある画面を想起する。その画面に対して垂直的な二重性がこれだ。つまり「声」と「言葉」

また、画面での、つまり水平的な二重性。つまり言葉の『輪郭線」としての二重性。それが、「犬」と「非ー犬」。

どちらをどのように使って、デザインするのか。トリック(仕掛け)を仕込むのか。
そういうことなんです。

どうも、その「水平的な二重性」に、ものすごく僕は興味があって、そのために「主語」のあるなしだとか、「彼が」なのか「彼は」なのかだとか、「です」「だった」「でしょう」だとか。そういうことにハマってしまう。結果判断がつかない。これはもう本当に、研究をするしかない。言語学を勉強するしかない。日本語の文法だとか。

垂直的な二重性については、これはもう、「いかにやりすぎないか」というものすごいシビアな程度問題として位しか取り扱えないかもしれないなぁ、という(ここまでやってきた)手触りが在る。
・・・。あー。ちがうな。なんかうまく言えない。


いや、なんだろう。「息」に、少し着色されて「声」「音」になって。そこまではいいのだけれども、そこから「あ、い、う、え、お」になるのに、ものすごいジャンプがある。

何しろ赤ん坊は「ホビャー、ホビャー」なわけで。もちろんこの「ホビャー」というのは無理矢理文字化したわけだが、つまり、そんなに「躾」されていない声な訳だ。実際には、舌の長さや、口腔の体積、形など、十全に五十音(日本人であれば)を話せるようになるという、生物学的な制約があって。その上で、「躾」がなされる。教育。
それは極めて限定的なあるポジション。
「お箸のもちかた」だとか、
「お辞儀」だとか。
「バイバイと手を振る」だとか。
そういう『教育」「躾」られた、「あるポジション」の声。が「あ」であり「い」なんだな。
矯正された声。行儀のいい。
あるいはバレエの足の形(?)1番だとか2番だとか。そういうもの。

声のダンスという発想は、すぐにその「しつけられる前の声」。「あ」と「い」の間の声。「文字化出来ない声」を要請する。それはもう「声」でしかないのだし。それは確かに自由だ。
が、
やってみると本当に、もう、これは、「これはないな・・・」と思う。いや、ピンポイントで何かしら使えるとは思う。その意味で「息」もそうだ。けども、その「未ーあ」のようなものを、主戦力として戦おうとすると、もうほんとうに「ダメーなこと」になってしまうんだな・・・
自由さがしんどい。それはコンテンポラリーダンスの問題と同一の物なのだが、そのしんどさはダンスの非ではない。声でやってると本当に、なんというか「わざと感」満載でヤになる。
歌を歌おう。ハミングで良いや。とそう割り切れないなにか。
それぐらい、「声」は「文字に現せる音(「あ」「い」)」になりたがる。
いやちがうな、私たちは「声」を「あ」にしたがる。連続して「言葉」にしたがる。

・・・・・・・・・


呼んでやることかもしれない。
名付けるだとか。

自分の声。
が、ある対象を指す。

いいや。「私の声」は「私の声」であるから、それは「私の声」でしかなく、「ある対象」なわけがない(笑。え~・・・なんだこれ?)

で、だけれども、仮にそれが「私の声」でもあり「ある対象」でも在るならば、その時それは「言葉」にとても似ている。

指を指して、呼んでみる。かな・・・?


あー。本当に多分そう言う順番なんだろうな。

何かを指差して声を出してみる。
と、その時の「声」は、『私の声」で在りながら、同時に「何か」を指し示す物でもある。
この時、第一の二重化が起こってる。

で、でも実際「私の声」は「私の声」で100%その内容を占めている訳だから、「何か」は「私の声」がある次元とは違う次元にある。パラレルワールドを想起する。私の声の隣の世界で、「私の声」と同じポジションにある物が、「何か」である。
で、5次元人(※私たちは4次元(時空)人です。私たちよりも一次元、上のもの見え方する人。パラレルワールドとかが、なんかよくわからんけども、一挙に、重なって見えて、かつ、目眩とかしないひと(笑)それが普通な人)から見れば、そのとき「私の声」と「何か」は重なっている。

そう考えるしかなくなってしまう。から「言葉」って物ができたのか。・・・?


・・・・・・・・・


だめだ。

でも前進はしている。
ぞ。
うん。
とこ。
どっ。
こい。


とにかく、こういうことを考え始めると、「一体何が問題だったのか?」「何をどうしたくってこういうことを考え始めたのか?」がわからなくなる。
「ビッグピクチャー」「足場板」というのをまとめておいてよかった。
まだ、そこで踏みとどまれる。
そう、私はお芝居を作りたいのです。
どんなお芝居かと言うと、「4次元のお芝居」です。(笑)

四次元のお芝居ってどんなだ?ってのは、又いつかこのブログにも上げようと思ってますが、前述の「足場板」「ビッグピクチャー」に書いてます。それは「どうして僕がお芝居をしたいのか?」という初期衝動から論理的につながっているものです。

で、四次元というものを考える時に、「二重化、多重化」というのはキーワードなのです。
で、「垂直的な二重化」と「水平的な二重化」というものが違うもんだと見通せたことは一つの収穫、前進です。
つまり「水平的な二重化」を扱う時にはなるべく、それは「言葉」であるべきで、それの「声ー度」は押さえられるべきだ。それは(本当は面だけれども)「線」として認識されるべきで、だから、毛筆だとか、クレヨンだとかで描かない方が善い。

で、それはそれとしてだ。

何でこんなことを考えだしたのか?

つまりは今やっている、「二音ゲーム」を基本としたあり方に、なんというか、「不自然な限定」を感じ始めているということなのです。
「ダンス」だと考えるならば、もっといろんな形が在るのではないかと。(当たり前だ(苦笑)
で、そうなると、「未ーあ」とどうつき合うのかとか、そう言う事が吹き出してくる。
で、二重化の問題に話が飛んだと。うん。そういうことなんですね。はい。了解。

で、その不自然な限定とはなにか?
「お互いが、ある程度短いスパンで交互にしゃべる」
「同時に離す事が極めて少ない」
ということ。
で、言葉として考えると、同時にしゃべってしまうと、単純に「何を言ってるのかわからない」
ただ。「そこに二つの声が在る事」はわかる。わかってるのです。だからハモッタリと言う事も可能になる。視覚のように前にあるから後ろは隠れて見えないということはない。同時に聞こえる。ただ「言葉が指し示している物の内容」はとてもわかりづらい。

「ある程度の長い文章」というものをそれぞれもっておく必要が在る。かもしれない。
その意味で「円卓」は面白かったのだろうな。
もう、本をもっていたから。
どうしても、インプロで長い文章をしゃべるのは難しい。から対短くなってしまう。また短くしとけば、他者が拾ってくれたりなんだりと、つまり他と繋がれて楽しいというのもある。まぁ「一人じゃもたん」というのが一番大きいのだけれど。

・・・・

あかん。ねる。

とりあえず、「指差して、呼んでみる(?声を出してみる?)」
のと
「長い文章をもってみる」
ということをやってみよう。

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