地点を見に行きました。

「ところで三浦さん」
という事だろうと思った。


「という事」って、どういうことか?
それがうまく説明出来ない。


「ところで三浦さん。あなたの今回作った奴は・・」
と、問われたい。
か、あるいは、問われたくないから、先に自分で問うてみたのか。


ここの所しばらく地点を見に行けなかったし、また、アルトーに関連する地点の作品も見落としてていたので、今回の作品がどう言う文脈の中で出て来た物なのか僕にはわからない。


久々の地点をみて、僕が感じたのは、「何かが腐っていく」ことと「何かが生まれてくる」ことが同時に起こっているような感覚だった。

昔、植木職人をしていたことは、よくここでも書いている。人間の体ではあんまりよくわからないけれど、植物を見ていると、そう言う事がごく頻繁にある。
一本の木の中で、枝が折れて、ウロになり、水が溜まって、腐れていく。その真横で新しい芽が吹いていく。
死んでいきながら、生まれ変わっていく。
よりダイナミックな新陳代謝というか。

地点のやり方の何かは、もう確実に限界を迎えていると思う。
それは「時間」との問題だ。

「使い古された」とか「飽きた」とかいう、「外の時間」との問題ではなくて、「地点の中の時間」との問題において限界を迎えている。のじゃないかと想像する。

なんかの文章に三浦さんが書いてた文章をぼんやりと思い出す。なにしろ、演劇の価値基準として「新しい、古い」ということを持ち出す事はナンセンスだよというようなこと。
それはまぁそうだ。
生まれた瞬間から、何十年後には確実に「それは古い」という理由で価値を否定されることが決定づけられている。「新しさ」に見いだされる価値とはそんなものですよ。というようなこと。

だから、地点の作品に、「私の目が慣れた。耳が慣れた」ということとの関係で、「限界だろうな」といってるんじゃない。
(と、「私」が言った所で、説得力も、何の保証もできないのだけれど。)


「表現」とは「表」に「現れた」ものだろう。
だから、全ての物は、すでに「表現」されてしまっている。

それをわざわざ、演劇人や歌手や画家や、まぁダレでもい善いけれど「(これが私の)表現です」と表明する時に、その「表現」という言葉が示している物は、つまりは、

「作り替えられた世界」
「新しく組み合わされた世界」

つまりは、取り合わせ、サンプリング。なのだろう。

世界には、様々な「物」があって、それがいろいろなパターンの組み合わせでもって表現されて来た。結局それは「とりあわせ」なのであるから、物が有限である限りそのパターンにも限りが在る。
パターン。サイコロの目と一緒だ。
サイコロをふって、「1」か「6」のどちらが先にでるかなんてのは、それこそ偶然によるものだし、かりに「1」が先に出ても「6」が先に出ても、そのどちらかの優劣がそれによって決定される訳でもない。

だから「新しいか」「古いか」ということによっては「価値」は決定されない。
しかし、のだとすると結構ヤヤッコしい事になってきはしないか?

それが「滅多に出ないような奇跡的な出目」だったとしても、それは「これまでに出た」か
「今出た」か「この先でる」かのいずれかなのであり、それがたまたま「今」だったからといって、そこに「価値」はない。のか?

「あたらしい」「ふるい」に価値はない。とする感じ方を押し進めていくと、最終的には完全な「不感症」になってしまう。
なぜなら、
ビッグバンと言うのがあったらしい。で、そのときから
「全ての物」

「一挙に在った」
の、らしい。
から。
取り合わせ、組み合わせは、それは(世界が無限に続くとして)「いつかは出るもの」なのだ。


世界は無限に続くかどうかは、さておき。
というか、続かないだろうけれども、では、なにをもって「世界の終わりであるのか?」だとか「世界と宇宙は=ってことで善いんでしょうか?」だとかそう言う事含めてよくわからない。
ダレが?
私が。

わかる事は「私」と今書いている「私」には時間が流れている。

で、「劇団」にも時間が流れているだろう。

俳優たちの年齢が上がると言う事もそうだ。
が、当然それだけではない。
ある演劇論への理解度。重ねられた議論。
俳優同士の相互の身体への理解。
技術。

などなど。

なにしろ、「変化」はするものです。
で、地点も京都に来て何年なんだろ?

そりゃ変化はするんです。してるんでしょう。端からはうかがいしれないけれどもね。

で、小学生の話し方と高校生の話し方と社会人の話し方が違うように、
話し方は「時間」によって変化する物だ。
とおもうのです。
「新しいという価値」のことではなくて。

「似合う似合わない」ということなんでしょう。
「フィットする」と、なぜか英語で言ってみると、言いたい事が言い当てられた気になるのは、「fit」のニュアンスがよくわからんもので、勝手に私の頭の中でふやけて面積を広げた[
fit」が(fitなのにね、ダルダルにゆるまってんのね)その「私の言いたい事」をその範囲内にいれたということです。「fit」が正確なのではなくて、わたしにとって「fit」が不確かで曖昧だから、範囲が広くなってその「言いたい事」も範囲に入ってしまうということ。
「コンプライアンス」とか「シナジー」とか「パースペクティブ」とか。
です。
(あぁ、どうでもいい)


地点のなにかがもう、地点にfitしてない。のじゃないかと思う。
そして、「fitするかしないか?」ということには(間接的にでも)「価値」を見つけて善いんじゃないだろうかと思う。

一番似合っている服。

一番、効果が上げられる方法。

つまり、例えば今回のアルトーのテキストをつかったパフォーマンスを、

今の彼らが一番効果が上げられる方法

でもって、調理することによって、当然その作品の価値は、より上がるだろうからだ。




ちょっとショックだったこと。

谷のあとに出て来た女の人。が手紙を読み始める。
その後、両手に一枚ずつもった紙で手旗信号のようなムーブが起こって、声が合わさるような感じのパートだったんだけれども、その一番最初で。
その女の人(河野早紀さんとおっしゃる)。

ごく普通に。テキストを読まれた。
手紙なんですけどもね。

でね。

聞こえるんですよね。

いや、そりゃ聞こえるんですけどね(笑)

「普通に読む」ってことが、どういうことか?は、もう、うっとうしいな!いいや。
とにかく普通なんですよってば。
で、そういう「普通によむ」ことなんてせんでしょうが、あの人達は。

そんな中で普通に読み出したもんだからびっくりしちゃって。
だから「聞こえた」ということはあるかもしれません。

でも、それだけじゃなくて、普通に「聞こえ」たのです。


なぁんだって。

普通によんでも「聞こえるん」だ。って。


というか、アルトーさんは、話が難し過ぎてわからないのです。申し訳ない。
実際、僕、アルトーさんの本は一冊だけもってって、その一冊は、思い出しては2年に一度位開いて読み始めるんですけども、その度に、はじき返されるんです。とてもじゃないが、最後まで読み切れないのです。で、また2年ほど本棚での眠りにつかれるんですね。

で、活字で読んでそんな物をですよ。あの調子(=「普通に読む」でない調子)で音声化されるとね。

これは「わからない」に「わからない」がかけ合わさって、マイナスマイナスでプラスになるかって言うとそんな事もなく、「さらによくわからない」のです。あ、普通。


で、アルトーをサンプリングするということも地点という劇団の「時間」の必然なのだろうし、そう言う意味でも、なにかしら「fit」してないのではないか。

それは、見た目ではなくて、本当にパフォーマーの体のなんと言うか、微妙なぶれというか、(あるいは、ブレをなくそうという、「ブレをなくすこと」だけを目的とした体の力みと言うか。

うーん。なんだろうなぁ・・・・。

左足を怪我すると、それをかばって右の脇腹が痛くなるみたいな。
なんか、そういう「きしみ」のようなもの。だろうか?

わかんない。適当だけれどもね。
なんか。
そんなこと。
を。感じた。のだろうか?と今、文章を書こうと振り返って思う。

・・・・・・

アルトーさんが入れられていたという病院には、ああいう池があったのかしら?
プールとか。

水際で「ところで」って言われると、どうしようかしらね。
「ところで」というのはつまり、そこまではなされていた事とは「違う空間」への移動の要請。

「最近、体が疲れててさー」
「あそー。ところで、日本シリーズってどうなってる?」

その「直前に離されていた事。直前の空間」への否定、あるいは肯定を意味する物じゃなくて、その空間からの移動。その次元からの移動を意味する。
その「直前の空間」は否定も肯定もされないまま放置される。
否定されないと言う意味では、ある「保全」をされるわけで、「ところで」は善意でもあるが、もちろん、「隔離」という側面からみれば「悪意」だととれない事もない。

が、やっぱり基本的には善意だろうと思う。
そもそも「ところで、アンタのやってる事にどんな価値があるのかねぇ?」と問うてくれる人というは、もうこれは『善意の人」だと認定してよい。
普通の人はよくわからない物には近づかない。し、それについて言及しない。
「なかった事にする」「見なかったように振る舞う」
それが、その「よくわからないもの」を抹殺する、一番の方法だから。
多分「ところで三浦さん」と言ってくれるような人は、おそらく、スポンサーとか、そういうものだろう。で、スポンサーというのは、先に金をだしてるのだから、やはり「善意」の人なんだ。

「ところで」と、善意で移動させられた空間で、その問いに答えているうちに、また、「ところで」と問われる。
つまり「ところで」といわれて、それに答える事で移動したはずの空間から、いつの間にか、また元の空間に戻って来てしまっている。
エッシャーの無限に上る(あるいは下りる)階段のような感じ。

「ところで」
「ところで」

無限の上昇。あるいは下降。

電波、電気、感電。
プールサイドから「ところで」と移動した先。池(プール)の中の世界。水中の。かもしくは、水面に映った中の世界。

だとかね・・・・
劇中、そんな風に、もっともっといろいろと空想していたかったのだけれど。
なんだかうまく行かなかった。
一つに僕の体調のせいがある。とにかく眠かった。
が、それだけじゃなくて、なんだかそういう「fit」しない何かを身につけてる事によって発生する俳優の体のノイズ、シグナルが、あったのじゃないかしら?

と、思う。

「ノイズ、シグナル」なんて感覚的なことを言っていいのか?
いいのです。それ以外に受け取る物はなかったのです。
いや本当に、アルトーさんの話ね。いや今回のテキストですけども、ぼく9割5分わかってないですから。だから、その情報はぼくにはいってきてないわけで、だから残る入って来てる情報は、つまり「声」の震えとか「体」のゆがみだとか、そう言う事なのです。


ワイン飲み過ぎです。
明日も午前中しごとです。
休みなしです。


おやすみなさ。

あ、
谷さんがすごく面白かったな。うん。

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