恋愛論14(おしまい)


最後にもう一度だけ、今度は「恋愛における私の多重化」という事の実像から恋愛全体についてみておきましょう。
「内的」であり「外的」である。というような「奇跡」のタネは、聞いてしまえば結構単純な事なのです。

恋愛の扉は「どうして好きなのかわからない」でした。
「実際好きで居る私」と「その原因が分からない私」に多重化する。
しかし、やっぱりこれはおかしな話なのです。そらそうですよね。私は一人なんですから。
「好き」とはカテゴライズでした。
私に取って「快、得」を持つ物を「好き」
逆は「嫌い」。快不快、得損、益害がさしあたってないものに付いては「無印」つまり「どうでもいいもの」「好きでも嫌いでもない物」認識されるということでした。

なにかを「好き」になる為には、かならず「私にとっての「快」」が必要なのです。
ぱっとはわからない位の、量の少ない快であるならば、「どうでもいい」エリアか、よくて「まぁ、どっちか問われれば好きかなあ?」ぐらいでしょう。
恋愛の起動時の「好き」は当然「まぁどっちかというと・・・」というもんじゃありません。そんなもんなら、その理由がわからなくても「まぁ、べつにいいか」とながれていきますから。

 彼(女)には必ず「私に取っての快」がある。
 しかし
 私には彼(女)がもつ「私に取っての快」がわからない。

ということ。あり得る答えは一つしかありませんね。それは

 彼(女)に「私に取っての快」を発見して好きになる。
 そして
「好き」というカテゴライズは保持したまま、「好きになった理由」だけを忘れる

嘘みたいな話ですが、でもそれ以外にはあり得ないのです。
私たちはよく、「有る物が好きな理由」を忘れます。僕は小学生の頃UFO焼きそばが大好きでした。が、今、その理由が全く思い出せません。なんであんなジャンキーな物を好きだったのかが全くわからない。では今私はUFO焼きそばが好きかというと、好きじゃないのです。別に嫌いではないのだと思いますが、まぁ「どうでもいい」ぐらいですかね。
私たちがよく忘れるのは「好きだった物の理由」です。理由が忘れられれば同時に「好き」「嫌い」というカテゴライズも初期化される。
忘れられる位に「どうでもいい」忘れてしまっても不具合がでないぐらい「死活問題とは遠く離れた」なのですから、これが普通のありかたです。

で「好き」というカテゴライズは保持したまま、その理由のほうだけ忘れる。
というのは、これはとてもとても高度な精神の振る舞いです。そんなことができるのです。

人は人を好きなる。
それから、うっかり、ちゃっかりその理由だけを忘れる。
そして、「自分が忘れたということ」も、忘れてしまう。
そうやってもって、振り返ってみて、見つけるのです。あたかも外部にあったかのように。
「あれ?どうして私この人の事が好きなんだろう?」って。

恋の扉というのは、何のことはない、やっぱり自分で作った物なのです。
しかし「自分で立てた」ということを、すっかりさっぱり忘れてしまえる。というのが、なんでしょう?恋のすごみと言うか、人間のすごみと言うか。まことにアクロバティックな精神活動なのです。


それでもどうしても疑問は残る気がしますね。

そんな複雑で面倒くさい事を、なんでその人に限ってやってしまえるのか?

いや、まぁその「なんでその人に?」というのが「わからない」というのが恋そのものなんですがね。
敢えて言うなら「笑顔が素敵だった」とか「音楽の趣味があった」とか「目が合った」とか、そういう些細な事ですよ。

そんなもの、他の誰にだってあった!彼(女)よりも素敵な笑顔をした人だっていたし、目が合った人全員恋してたら発狂してしまう。何で彼なんだ?

だーかーらー・・・。
でもそうなんですってば。例えば「優しくしてくれたから」その人を好きになったんです。で、この「好き」というのは、「ケンタッキーフライドチキンが好き」とか「友だち」「両親」とかと同じ好きなんです。でね。有る時思う訳です「どうして彼(女)のことが好きなんだろう?」って。

いや「優しくしてくれたから」でしょ?

そうなんだけどね。それをうっかりちゃっかり忘れるんですよ。
こう言い換えてもいい。本当言えばそれは「優しくしてくれたから」なんだけれども「それだけじゃない!私はそんな単純な人間ではない!『優しくされたから好きになった』だなんて、幼稚園児じゃないか?もっと深遠な理由があるはずだ!」と否定する訳です。で、そうした「問い」が立ち上がった時点で晴れて「恋愛」になるというわけなんです。

うーん・・・

『恋の扉』も『私の闇』と同一の物なんでした。
「私はどうして私なのだ」という問いが立った時に初めて「この私」が生まれる。それと同じ事です。

私はどうして私なのか?
敢えて言うなら、田中浩(私の父)と田中久美子(私の母)がセックスをしたから。
私はこの答えには(完全には)納得ができません。私には妹が二人いますが、妹たちと私は違う。それは「田中遊」の理由ではあっても、「この私」の説明としては十全でないからです。
「この私」というのは「自我」「主観」「魂」というような言い換えかたをされる物です。私が「私はどうして私なのだ?」と問うている時の「私」とは「この私」であって、田中遊ではないのです。
「転校生」という映画は見た事ありますか?舞台は尾道。高校生の男女が石段をもつれ合って転げ落ちた所、その「魂」が入れ替わってしまうという奴です。女の子の体(器)に男の子にの主観がはいり、男の子の体(器)に女の子の自我がはいってしまう。
田中遊というのは、私です。そして「この私」の器です。
仮に田中遊の体から、私の魂が抜け出たとしたら、「田中遊はどうして田中遊なのだ?」という問いには「この私」はあまり興味がありません。
そのような「この私」「魂」。その起源はやはり、あの問いにあるのです。
有る地点(おそらくそれはやはり思春期なのでしょう)まで私=田中遊でした。
その有る地点でうっかり問いを立ててしまったのです。
「どうして私は私なんだろう?」
そこで行われた事がまさに「私の多重化」なのですね。
私=田中遊であったものが、田中遊の内側に更に一つ箱を作って、その箱の中身を「自我」「この私」と言う事にしたのです。箱とは問いです。
つまり何にもない所に「どうして私は私なのだ?」という問いが立つ事によって、「その内部」というものが誕生した。ということです。
「この私」というのは「どうして私は私なのだ?」という問いその物であるというのはそう言う事です。その箱は、中身があって、それを包む為に導入された物ではなく、ただ箱を置いてみた。ただ扉を置いてみた。という事なのです。中身は空っぽなのですが、「その内部」「その向こう」というエリア分けはされてしまった。その「エリア」が「自我」「主観」の正体なのです。だからその問い(箱)に答え(中身)がないのは当たり前なのです。


全く同じ構造が恋愛にもあります。というか全く同じでなければならないのです。
なんで彼を好きなったのか?
敢えて言うなら「優しくしてもらったから(仮)」です。しかしこの答えには納得がいきません。優しくしてくれた人なら他にもいたからです。なのにどうして他の誰でもなく彼(女)なのだ?
この問いが「好きの多重化」ということです。「好き」の内側に更に一つ箱を作ってその中身を「恋愛」と呼ぶ事にしたのです。その問い(箱)は、同じように何もなかった所に置かれた箱です。扉です。答えはなく、けれど箱ができた以上、そこに「むこう」「内側」「答え」というエリアが誕生する。そのエリアが「恋愛」の正体です。
だから「恋愛とは「どうして彼の事を好きなんだろう」という問いその物」なのです。
その問いがなされる前において、それが「恋愛」であることはありえないのです。だってそれはまだないのですから。
そういう「箱」が置かれる前の「好き」は思春期前の子供のように、無邪気で純粋でそれゆえ冷酷なそんな物でしょう。それがそのまま育っていけば「友情」「尊敬」といろいろな形で立派に成り立って行くでしょう。
友情、尊敬と、恋愛の分かれ道。
恋愛が始まる所とは、まさに「うっかりそう問いを立ててしまった地点」もうひとつ起源をさかのぼれば、うっかり好きになったくせに「その理由だけ忘れる」という時点じゃないでしょうか?

恋愛は忘却から始まるんです。



さてさて。おつかれさまでした。長々とおつきあいをありがとうございます。

待って!!

え?なんすか?

いや、いろいろわかったよ。あいや、わかっちゃいけないんだな、忘れて。うん。忘れる。忘れる事にする。

はい?あの、

忘れる事にするとしてもだよ!自分で忘れて、自分で発見して、それは結局私の事で、本当言えば「優しくしてもらったから」だとしよう。うん。ああもうそれでいいや。
それでいいとしてね。

なんですか?

それでなんであの人なのよ!!!???も~(頭をかきむしる)

あのですね。もう本当に疲れて来たので終わりますね。何であの人かずばり。
それは「たまたま」です。「どうしてあの人なのか?」は「どうして私なのか?」と同一でなくてはいけません。私はどうして私なのか?サイコロの目の話は前にしましたね。
私はたまたま私なのです。「ジャスト私」私その物としかいいようがない。
あの人もそう。たまたまあの人なのです。「ジャストあの人」

偶然?

そうですね。たまたまって偶然ですね。もういいですか。店閉めたいんですけども。

(号泣し始める)たまたま、あの人を好きになって、そして恋をしていくことで恋を消していくなんて・・・

(見かねて)二人で終わることができれば、最高じゃないですか。そういうのをハッピーエンドっていうんですよ。



だいたい偶然って、これすごい事ですよ。理由がないんですもん。理由もなければイカサマもない。そんな場でですよ。たまたま「あの人」だなんて。考えてご覧なさい。あなたはどうしてあなたなのか?あなたは犬に生まれなかった。ネコでもカエルでもカエルのしょんべんでもなく、あなたに生まれた。北朝鮮でも、惑星エックスでもなく、白亜紀でもない今。その確率はどのぐらいですか?分母は想像出来るだけ、分子はあなたただ一人。あなた/∞(無限大)ですよ。んでですね。「あの人」の方だって事情は同じ。その二人が出会って恋をするってのは、かけ算してみます?

何でかけ算?

まぁまぁ。つまりこういう事です。もうこれ、0でいいんじゃないかっていう位の確率ですよ。理由なくたまたまで。ほら。

私たち/無限大の二乗

これはもう別に「運命」ってことでいいんじゃないかと思いません?
私も別にそれで困まるようなことはないわけですから。

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