恋愛論13


かくして「私たちはどうして私たちであるか」という問いに立て変わった「穴、闇」には、またもや膨大な量の想像力が注ぎ込まれます。
ただ、これは「私はどうして私であるか」の立て替えでなければいけない
同じであるから、「私たち」ってのも極めて不確定な物です。私たちは「不確定」な物に耐えられない。だから、「私」についてした事と同じ事をする。
アイデンティティーや、存在理由を求める。
つまり「恋愛アイデンティティー」「二人で居る理由」
そういうものを確かなものにしたい。だから「つき合ったり」「デートしたり」「キスをしたり」「セックスをしたり」「結婚して子供を作ったりします」

しかしながら、そのどれをとっても、「二人で居る理由」「恋愛実現」を十全に表現出来ているかというと、どうしても足りない。

セックスをするために二人は恋人なのか?
結婚して子供を作る為に恋をしたのか?
リラックスするために二人でいるのか?

このような問いが恋愛の場でごく頻繁に見受けられることからも、「どれ一つ取っても、うまく、『なぜ、私たちなのか』という問いに答えられない。不十分だという事がわかります。

そしてそれはごく当然なのです。理由をくどく3方向から(どれも同じ事なのですが)

1 確かなものにするとは「現実化」してくということです。
確かなものにするとは「外部化」するということです。
つまり「恋愛」の外部にしか「確かになった恋愛」は起き得ない。
なので、当然それは「恋愛」とは違ったものとして現実化せざるを得ない。

2 別のルートから辿ります。「どうして我々か?」というといは「どうして私か?」という問いと同一のものでなければいけない。
のだとすると、これにもやっぱり答えはでるものではないのです。でてはいけない
(結局は「わかっちゃうとそれでドキドキが終わってしまう」という事に帰結するのですが。)

3 もう一つとどめ。「恋の扉」とはどう言う問いであったか?
「どうして彼を好なんだろう?」です。
これは「他の誰でもなく、どうして彼なのだ」「どうして私は私なのだ」と同じ問いです。
そしてこれは
「彼といる事によって、何が快でそれがどれぐらいどのように快なのかわからない」
裏返って
「彼に取って、私の何がどれ位どのように得であるか不明である」
人間の活動自体が「快、得」を求めることは言うまでもありません。ましてや「しんどい思いをしよう」「苦行しよう」と思って恋をするようなことはまずありません。(端から見てて、「苦行しにいってる」としか思えないような人は、面白い事にママいるんですけどね)
恋の目的も当然「快、得」なはずです。
で、その「快、得」がわからない。
という事が、正しく「恋の問い」なのです。
つまり

「恋愛していく」
ということは
「『恋の目的。二人でいる理由』をわからないままで居続ける」

ということです。わかってしまうとそこでストップしてしまう。だから、

仮にうっかりわかってしまっても、それは「そんなんじゃない!!」と否定されねばならないのです。

それが恋である限り。



果たして恋愛とは、それ自体が「確かなものにしたい」という欲求であるから、常に「現実化」をし続け、そしてそれは必ず「恋愛」ではない形で現実化される。

「恋愛をする」というのは「消去法」に似ています。
「これでもない」「これでもない」と、(極論ですが)「はずれ」を現実化し続けていく。
そうやって一つ一つ可能性をつぶして行って、ついには想像を注ぎ込みえる可能性が限りなく0に近づき、そしてドキドキしなくなる。


「恋愛する」というのは、「恋愛を消して行く」「恋愛を終わって行く」という行為なのです。


これはですね。そして最後に何かが残るのかというと何も残らない。けれど確かに消去法によって可能性は少なくなって行く。
そうですよね。「これでもない」事がわかり「またこれでもない」事がわかって行くのですから。

なんか少し切ないきもします。でも実際そうなんです。
そうだからこそ、「いつまでもドキドキしていたい」というような悲痛な、欲求の表明には、一定の尊重をします。けれども、「いつまでもドキドキする事がしあわせなのだ」という言説には、これは「ちょっと違うだろう」と。
だいたい、あなたずっとドキドキしてご覧なさい。体に悪いですよ。「若さの秘訣は恋」だなんていいますけどね、そしてそれもある程度までは真実でしょう。適度の運動は体の老化を防ぐことがあるでしょう。しかしあんな恋愛が始まったようなドキドキがその後ずっと持続してご覧なさい。心臓がまず持たない。
そもそも「しあわせ」って語感をきちんと感じるべきなのです。
なんかベチャーってしてるでしょ?それは安定とか、まさに『私』「私たち」の求めてやまない「確かさ」だと思いませんか?
こういう基本的な語の語感は信用して間違う事は少ないです。(漢字の音読みは信用なりませんがね)
私たちの「しあわせ」とイギリス人の「ハッピー」が、同じ内容であると考える方が、僕には不自然です。
やつらのは「ハッピー」。弾んでますよね。はじけてるっていうか。口にして行ってみてください。ね?
あの人たちの「ハッピー」は神様からの贈り物なんです。神様はどこにいますか?なんか上見上げちゃいますよね。そうです。
「ハッピー」は上から降ってくるから、私の前で「弾んだ」り「はじけたり」するものなのです。おそらく僕らの「しあわせ」はイギリス人たちの「フォーチュン」に近い。
「しあわせ」が安定だとするならばですよ、「恋愛」なんてものはもう、不安定きわまりない訳です。ドキドキハラハラしてね。泣いたと思えば笑って。一体どこに「心の平穏」があります?

これははっきりと断言します。

「恋愛なんてしなくったって、人は幸せになれる」

当然です。どちらかというと「恋愛なんてしないほうが、しあわせになれる可能性は高かろう」と思います。「安定」と「不安定」。その極点同士ですから。

しかし、この「安定」を「安定化」と、少しずらして考えると、ようやく「恋愛」と「幸せ」の接点が作れるでしょう。
「安定化」とは「より安定すること」であり、それは「不安定なもの」が「安定する」という運動です。
安定という定点を考えると、より不安定な物、より激しい恋が、「しあわせ」「安定」にたどり着いたときの「安定化度」は、もちろんより高い物となるでしょう。その事によって、獲得した「安定」の意味合いが(「私たち」にとって)深まるという事は、理解のできる話です。
ただ確率として、(仮に不安定である度合いを不安定度として)「100不安定なもの」と「10不安定なもの」と、どっちが安定しやすいか?これは考えるまでもありません。
「あんなに燃え上がった二人が、どうしてこうもあっさり終わるのか?」
そんなのあったりまえじゃないか!
って思います。
ネズミ花火は暴れ回って、最後にパンで、おしまい。確率的にいってそれが極めて自然で妥当です。
ただ、そんな火の粉を当たりに振りまきながら大暴れするネズミ花火が、年月をかけてゆっくりとゆっくりと速度を遅めていって、ゆっくりとゆっくりと止まっていく。
そんな恋愛があったとすればですね。(それは実際にあるでしょうし)そう言う物に対しては、もう素直に「拍手!」でいいだろうと。「すげーなお前ら」と。「やったな」と。祝福すればいいと思います。
でも、そういうような
「「安定化の極大」の恋愛がデフォルトである」
とするような、テレビドラマとか、映画だとか、ましてや女性雑誌の特集やらにだまされて、ほいほいと激しい恋に落ち、やっぱりダメで。なんてのを繰り替えすのは、ばからしい。
お商売ですからね。恋に落ちたら男も女もお金を使うでしょ。おしゃれをしたり、デートに行ったり。だから、商売の為には沢山恋愛があった方がいいのです。人口には限りがありますから、それでも「恋愛数」を増やそうとしたら答えは一つ。回転数を上げるのですね。立ち食いうどんのように。「ぱっと付いて、すぐ消える」ような恋愛を世に広めることです。
だからメディアは「やたらと燃え上がる恋」がアナウンスするのです。


 ああ。余談が過ぎました。

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