恋愛論12


恋の扉があるとするなら、それは「外的」なのか?「内的」なのか?

A その内実が「私の多重化」つまりは「私という闇」で有る以上、それは「内的」であるように見える。
が、また
B それが「彼(女)」と結合してできていることから、それは「外的」であるようにも見える。

これは一体どっちなんだろう?疑問1にもあるように、思春期に考えてたような「どうして自分は自分なんだ」という陰鬱な感じは「恋愛」にはない。(勿論そう言う側面もあるけれど)ドキドキもする。その躍動感からは「外的」であるように感じられる。
けれども、「好きになる」ということがそもそも「私のカテゴライズ」であること、また「自分の事にしかドキドキしないこと」からは「内的」に感じられる。うーん困った。

1 恋愛ではドキドキが持続する。
2 内実が「どうして私は私なんだ」である以上、それは「内的」にある。
3 しかし「内的」な扉に対してはドキドキは持続し得ない。シラケる。
4 シラケないで続けられる「内的」な問いとは、「どうして私は私なのだ?」という
  その問い自体が「私」で有るケースだけだ。
5 しかしその唯一のケース、つまり思春期であった場合。これは、「恋愛」とは様相
  を違えている。
6 恋の扉は「内的ではない」

典型的な矛盾ですね。「内的」であって「内的でない」
内的でないってのは「外的」ってことですから、つまり「内的であり、外的である」扉。「内的でもなく、外的でもない」箱。

肝心な事は、諦めない事。そして

「それでも確かに私たちは恋をするし、どきどきもする」

ということです。覚悟はいいですね。言い換えます。

「恋があるとするならば、その扉は「内的」かつ「外的」なものだ」

実際恋はあるわけですから

「恋の扉は、『内的』であり「外的」であるように、在る」

です。矛盾と考えるから出口がなくなる。確かに恋してドキドキしたんですから、それは矛盾ではなくて

奇跡

なんです。

ああ、皆の苦笑いする顔が目に浮かぶ・・・・
でもね。実はこれが結論です。そしてここ以外に結論はないのです。
そんな奇跡
「外的」で「内的」なものはどこにあるか?
そりゃ確かに、私の外に、触れたり確かめられるある種の確かさを持って「私はどうして私であるか?」という問いがあったなら、こんなに素晴らしい事はありません。
が、そんな物はどこにあるというのか?

はい。

あったでしょ?そうですね。

彼(女)の中にです。
人は誰でも(おそらく)かならず、「どうして自分は自分なのか?」という闇を抱えているのです。「私」がそれを抱えてるのとちょうど同じように、彼(女)の中心にもそれがある。彼女自身がその問いである訳です。

ちょっとまて!それはそうかもしれないが、「私はどうして私であるか?」と言いえるのは、問いを立てられるのは、私以外にないではないか?
いやそら勿論「他の人も、そういうふうになってるんだろうなぁ」という推測は十二分に出来る。けれども、そこで「私」いいえるのは、

「他の人は、どうして他の人なのか?」

で、これは「外部」ではあるが「私とはどうして私であるか?」という問いとは別のものではないか?

そうです。しかし奇しくも言い当ててしまっているのです。
「他の人」を二人称に変えてみます。

「あなたはどうしてあなたなのか?」

はい。聞いたことがありますね。あまりにも有名なロミオとジュリエットの名台詞です。

「おおロミオ。どうしてあなたはロミオなの」

つまり恋愛とはそのようにしてある訳です。

「私はどうして私であるか?」
という「内部」の問いを「外部」の
「あなたはどうしてあなたであるか?」
に立て替える。さらに
「我々はどうして我々なのか?」
と展開する。

問いの立て替えに「自己投影」「感情移入」があるのは言うまでもない。しかしだとするならば、その移入した先の「あなた」の方から先ほどの問いかけ「あなたはどうしてあなたなの」を見てみると、!!!そのまんま「私はどうして私なの?」である。


もう、すごいよね。なんというか、うまいことやるもんである。拍手!!
こうして「内的」かつ「外的」な「恋の扉」はあるのである。
いや逆だな。恋の扉は「内的」であり「外的」でなければならない。

こうして「外部」のある確かさを得た、「自分の(今や我々の)闇にむかう想像力」は一気に息を吹き返す。それまで、燃えるだけ燃えて酸欠状態になってくすぶっていた『種火』。そこに新鮮な空気が流れ込むようなもんだ。

恋のバックドラフト現象ですね。(笑)

もうそりゃ燃え上がらざるを得ない訳です。
だって本当のことを言えば「むっちゃ知りたい」わけですから。気になってしょうがない訳ですから。とかく人は「不確かな物」にめっぽう弱いんです。なにかしら「確かにしたい」「はっきりとしてほしい」じゃなきゃあ、「諸行無常」とかわざわざ言ってみたり、神様に登場願ったりしません。(その意味で「人間は弱い生き物だから」「すぐ不安になる生き物だから」という直感は確かに当たっているのですね)
そこにあなた、「確かなもの」が舞い込んでくる訳です。これは飛びつきますよね。

「外的」かつ「内的」という奇跡は、そのまま彼(女)の条件になります。
「内的」である為には、彼(女)は私と同一でなければならない

「外的」である為には、彼(女)は私とちがっていなければならない。

あなたの彼(女)は、あなたと似ていなければならない。でないと移入投影ができない。
しかしまた、あなたの彼(女)はあなたと違っていなければならない。でないと「外部」にならない。

結局「似ている所に惹かれる」「ないものに惹かれる」というのは両方とも真なのです。そして、そのどちらかではなくて、その二つが「等量」あることが条件となるのです。

でもそれほど心配する事はありません。溢れ出る想像力は、風が揺らす木の葉のこすれる音にも、「私の心の叫び」を聞くことができますし、川の流れにも「私の変化」を見ることができます。人じゃない自然現象にですら「私」を発見出来るんですから。ましてや人間同士、結局恋が始まってさえしまえば、違う所も似てる所も好きなだけ見つけることができるはずです。もちろん「相性」というのは確かにあるとは思います。しかしそれは個人の「表面に付着している特徴」というイメージではなく、むしろ「個人の見つける能力のセンス」「個人の、相手に見つけさすセンス」であろうと思う訳です。もちろんそれも「時期」によって変化するでしょう。出会いのタイミングってのは重要です。でもその「見つけられる、似てるポイント、似てないポイント」というのは、無限にあって、その無限の中で「どこをみつけるか?」「どこをみつけさすか?」という、結構流動的なファクターであるということは間違いないでしょう。人間同士というのは、こうして考えるととても重要である。確かに外部であるが、しかし内部であるというような様相は、なかなか鉛筆やスポーツカーには見つけにくいからだ。もちろん鉛筆を擬人化してみて「おいら鉛筆だけれども、どうしておいらは鉛筆なんだろうか?」と考えていると想定する事は可能ではあります。しかし「外部であり内部」というようなある種の倒錯、錯覚を起こす為に必要な「似ている量」がこれは随分と少ない。ので

「仕事や、ケンタッキーフライドチキンに恋をすることは、可能であるが、その可能性は極めて低かろう」

ということですね。

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