恋愛論11


疑問1「なぜ私は私なのか」が本質であるとして、では「恋してる状態」と「思春期の地獄」の様相の違いは一体なんなのか?恋は主にバラ色だし、開放的だし。思春期は閉塞感で一杯だ。少なくともうきうきするようなことはない。ドキドキもしなかった。「なぜ私が私なのか」が本当に共通の本質だとするならば、なんでこれほどまでにその様相がことなっているのか?

疑問2「恋」が「想像力の洪水」による飛び火だとするならば、「膨大に注ぎ込まれる想像力」が恋の前提ということになる。たしかに「思春期に恋愛を多くする」説明にはなっているが、逆に思春期を終えたものでも恋が起動しえるのはどう説明するのか?ええ大人になると、中学高校生の時ほどは想像してにやにやしたりはしない。実感として、また実際に想像の量は(比較して)激減している。「インフレ」「洪水」と比喩されるような、圧倒的量の想像力が恋の起動の前提であれば、これは「思春期以後」の恋愛は起こりえないことになる。「思春期以後」の「恋愛」の前提となる「圧倒的量の想像」は何によってもたらされているのか?あるいは「『圧倒的量の想像』が恋の前提である」テーゼに問題があるのか?

どちらも深刻な「不具合」です。疑問2の方は「卵が先か鶏が先か」という話ですので、これはかなり厄介です。物事には始まりがあるはずで、「どきどき」か「想像力」かどちらかが先行せねば、「インフレ」どころか何も起こらないだろう。という疑問。

思春期がどのようにして終わって行くかを見て行く事でほどいて行きましょう。

そうです。確かに私たちは思春期を終えてきます。
比較した場合、明らかに想像力の量が減っているというのも事実だと認定してかまわないと思われます。
 
「私の多重化」によって発見された「私という闇」
それは、本当に無限で底なしで、いくらでも想像力を吸い込んでいました。
けれども、いつからか私たちはそこに注ぐ想像の量を減らしました。実際生活していて「どうして私は私なんだろうかしら?」などと思う事はめっきりすくなくなりました。おそらくその問いは「仕事って何だろう?」とかいう問いに言い換えられているのですが、それにしても、「総量」として、『私という闇』に突っ込まれる想像力の量は減ってゆきます。その理由はなんででしょう?

1 いい加減、そこに想像力を注いでも何にも見つからないことを学習したから。

これはあるでしょう。極論をすれば、それは「徒労」なわけです。でも底なしなもんだからどんどん突っ込む。リターンは0。これは疲れます。そのことを学習したという事でしょう。

2 ほかに「観察する」べきものが沢山でて来たから。

学校を卒業して自分で食べてくとかなると、はっきりいって「自分は一体何者か?」などと、呑気に考えてるヒマはなくなるのです。そんな空想に使っているメモリーがあるなら、それを「観察」にまわして、「仕事を覚え」たり「上司の顔色」を伺ったり「給料の計算」をしたりせねばならない。そうしないと「生きてゆけない」のです。だから死活問題として、『想像力』よりも「観察」にメモリーを裂くべき時期というのが、思春期の次にはすぐにやってくる(来た)から。ということもまた一つの回答でしょう。大学生をするというのは思春期を4年延長するというのと同義です。結果ロクデモナイ人間ばかりが排出される(笑)いや、その限りではありません。この思春期の想像と観察の構造に、いち早く気づけた若者は、その4年を「死活問題」以外の分野での観察に使うことができるのです。これは本当に貴重な時間で、一度社会に出てしまうと、もう二度とこんな時間はありません。(何の話やら・・・?)

そのようにして確かに「私という闇」に向かっての想像は減少します。
しかし、それがまったくなくなるか?というと、これはそうは問屋がおろしません。まぁ一生自分につきまとわざるを得ない物でしょう。繰り返しですがそれは「言い方」を変えて登場します「仕事ってなんだろう?」とか「結婚って何だろう?」とか。
そのように「不意に思う」ようにして浮上する「なんで私は私なんだろう」。それはあたかも、一旦消えてしまった物がまた点灯するように見えます。が、おそらくこれはそうではない。消えてはいない。種火がかならず「私の中」にあるのだと。そう思うのです。なにしろ根源的ですからね。消え様がない。ではその種火はどこでくすぶっているか?

想像力というものは呼吸と同じで無意識でも動いている

という話をしました。まさにそこで常に私たちは「私という闇」に想像力を少しずつだけ、でも継続的に流しこんでいるだろう。「垂らす」というぐらいかもしれません。

→人間の「知覚する能力」「スキャンする方法」には2種類ある。
見えるもの、今←「観察」
見えないもの、今以外←「想像」
→それが働く場。(仮にパソコンに例えて「メモリー」とする)にも2種類有る。
バックグラウンド = 無意識
メイングラウンド = 意識

という話です。爆発的に想像力が増えると、「観察」はバックグラウンドに押しやられます。「うわのそら」「恋は盲目」ってのがそうですね。見てはいるし聞いてもいるんだけれども、それが意識の下に追いやられる。そのようなバックグラウンド。そこでは常に「観察」されたものに絶え間なく想像がされます。それに混じって、こそっと、少しずつだけ「私という闇、そのなしの穴」には想像力が注がれているのだと思います。
なぜか?

「その穴が、そこに確かにあること」をわかっておくため。

です。それを「わかる」ということは、(勿論その穴は目に見えませんから)想像力を流すということになり、そうなれば、そこから「思考のスパイラル」「わからないと想像力のインフレ」がおこるじゃないか?
そりゃそうですね。でも、そのインフレやスパイラルを「日常生活を送って行ける程度に押さえる」為にも、「そこにその穴がある事」を理解しておく事はとても重要なのです。そうしておけば、仮にその穴にはまり込んでも「ああ、ここには何もないのだった」と切り上げる事が可能です。又そうする為に「無意識で」「ごく微量ずつ」想像力を流す訳です。
「それが、その穴である」ということに気づかずにはまってしまうケースが、これが一番危険なのです。むちゃくちゃ忙しくなったりして、「観察」に膨大な量が必要とされ、ついに「バックグラウンドでの自分の闇への想像力」にその領域が裂けないような事体になったとします。そういうときに「仕事って何だろう?」とかいう「私はどうして私なのだ?私とは何者だ?」という問いの言い換えにはまってしまうケース。このとき「私」には、それが底なしであることがわかっていません。だから「どこかにきっと正解があるもんだ!」とどんどん想像力を突っ込みます。切り上げることができなくて、スパイラルを起こす。最悪の場合ノイローゼになったり鬱になったりする訳です。

なんだかくらい話になってきましたね(笑)

唐突に今更な話を2つ
※ ドキドキは自分の快不快に対してしかしない。
つまり「人は自分の事でしかドキドキ出来ない」ということです。
「いやいや、私は、他人の身の上に起こった事であっても我がごとのようにドキドキ出来るぜ」という反論は、もうその反論の中にそれへの回答が含まれています。
「我がごとのように」
そうですね。スポーツを見ているとき「私」はそれがひいきのチームの事であればドキドキ出来ます。しかし、どうでもいいチーム同士が接戦を繰り広げていようがちっともドキドキ出来ません。「我がごとのように」というのは、つまり「自己投影」「感情移入」がなし得たものの「快」「不快」に対してはどきどきできるということです。そこに「他」に対してドキドキしている私がいた場合、かならずそこには「自己投影」「感情移入」がある。

※「問い」というのはどういうものか?それは「扉」「ドア」「壁」「箱」のようなものだろう。「私」と「次」「中身」が在る場にあって、「私」と「次」「中身」を遮るもの。遮ってくれないと「見えちゃう、わかっちゃう」のでそこに想像は働かない。「隠す」という事が条件になるのです。その「扉」「ドア」を開けることは、それを「見る」「わかる」ということですよね。漢字というものは(別に英語と比較してというわけではないけれど)よくできています。「問い」は「もん」なんですね。「門」つまりゲートと極めて近似な存在なのです。

『私という闇』に突っ込まれる想像力の量は減ってゆくその理由もう一つ

3 それが「内的」な問いであるから。

「内的」とはどう言う事でしょうか?確かに「私はどうして私であるか?」なんて問いはもう、完全に内的ではありますが・・・
逆に「外的な問い」とはどんな物でしょう。

「面接」「くじ引き」

とかがそうですね。もちろん「問い」事体を立てているのは私です。想像してるのも私です。ただその問い「扉」が、「外部」の『確かなもの』との結合でできている。

「面接をして合格する私」「面接をして不合格になる私」
「くじ引きであたりを引く私」「くじ引きではずれを引く私」

対して内的な問いとはどんなものか?

(買ってもいない)宝くじがあたったらどうしよう?
人間、いつ交通事故にあって死ぬかもわからない。

ってなことですね。その「問い」「扉」は私の内部にあります。内部というのは本当に不確かで、必然その扉自体があやふやな物になります。
その扉が「外的」な物である場合。これには手触りがある。面接の日が近づいて来たりするとドキドキするのが増したり、なにしろ「確か」である。結果、ドキドキに関して言えば、持続性がある。
その扉が「内的」な物である場合、これは手触りがかなり少ない。自分の内部というのものは本当に不確かでよくわからない物だから。なもんで、ドキドキに関して言えば、持続性が低い。
どっかのビルの屋上で、ある一瞬「ああ、ここから飛び降りたら死ぬなぁ」と考えてどきどきしても、その問いが自分の中にある場合、これは持続しない。つまりこれは「そんな問いなどなかった」のに「自分で勝手にでっち上げた」ことにすぐ気づくので「シラケる」ということです。
が、実際に飛び降りたら死ぬような場所で、ナイフを持った男と退治している場合、これはより確かにドキドキするし、持続性がある。

では、内部にあるものの中でも、「私はどうして私であるか?」というような「私のど真ん中」に有る物でなければどうか?

「もし宇宙人が目の前に現れたらば?」

実際に宇宙人を見たわけではない。完全な空想である。これは「内的」な扉では有る。
けれど、このような問いで、小さい頃なら結構ドキドキ出来た。
自分の「心」だとか、まさに中心にあるものは、触り得ないが、自分の腕は掴むことができる。そのように、「自分の中心から離れた問い」に関しては、そのドキドキの持続力が(内的であっても)ますケースがあるということだろう。そしてそれは、すっかり忘れることができるし、そうして廃棄される事もできる。
が、「自分はどうして自分であるか?」というような、まさに「自分のどまんなか」にあるような物では、ドキドキはもうしない。ただ、しんどい。疲弊する。閉塞感。
それはそうだ。自分の中で、その中心にむかってるんだから。

しかしまて。その「自分の闇」というような「扉」は内的であるのだろう?
→yes。だって「私はどうして私なんだ?」ですよ。
ならば、とっくにシラけてるはずではないか?なんでそうならないの?
→それはその問いがあまりに自分のど真ん中にあるから。そしてむしろ

その「どうして私は私なのか?」という問い自体が「私」である。

から。なのですね。


うーん。随分と面倒くさく辛気くさい話になってきました。
ではでは、一気に話を巻き戻しまして・・・

恋の扉があるとするなら、それは「外的」なのか?「内的」なのか?

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