恋愛論9


思春期の様相

事は比較的シンプルなのです。
私たちは生まれてきます。そしていろいろな物に接してゆきます。
その度私たちはそれを「観察」し、そこから「想像」をします。
私たちは、成長して行く中で「観察」の手間を省いてゆきます。どのようにしてか?
カテゴライズするのです。「好き」「嫌い」のように。物事をジャンルで仕分けしておく事によって、次にそれが来た時に「隅から隅まで観察する」という事をしなくても済むようにする訳です。

昔見たNHKのテレビの実験でこのようなことがありました。
新生児(多分生後半年位だったかな?)の子供に猿の映像を見せます。
その映像は左右で分割されていて、左右それぞれに一匹ずつ違う猿がうつっています。つまり二匹の猿が映った映像が、何秒かうつって、また違う二匹の猿がうつる。その繰り返しという実験でした。サンプルの猿は勿論沢山いるのです。毎度違う猿が二匹でてくる訳ですが、ときどき「既に見せた猿」もその中に混ざります。

えー、ややこしいですか?

つまり猿が100匹いたとします。それぞれ1~100まで番号を振りましょう。それぞれ猿1、猿2、猿3といるわけです。
で、赤ちゃんに「右に猿1、左に猿2」の映像を見せます。しばらく見せて次は「右に猿3、左に猿4」の映像を見せます。次は「猿5、猿6」ですね。
そうやってチェンジして行く中で時折、「右に猿11、左に猿6」というように、既に見ている猿を混ぜて行くのです。
そうすると赤ん坊は、既に見た猿の方をじっと見つめるらしいのです。
どういうことかというと、つまり

「あかちゃんには、猿の顔が見分けられる」

ということです。
私たちはどうかというと、まぁ、自信がないですね(笑)動物園の職員さんならともかく。なぜか?私たちは「猿」というカテゴライズをする事で、猿を十把一絡げに見ている、ということです。勿論私たちだって、ちゃんと時間をかけてみれば猿の個体の識別はできるのです。ただ、既にカテゴライズしてしまっている物に関しては、それほど時間をかけて細かく見ない。だって、そのためにカテゴライズしたんですから。
「スキャン」という言葉で近くを捉えるとイメージしやすいですね。
物があって、きちんとカテゴライズがそれに対して済んでおれば、スキャンするポイントは少なくて済みますね。2、3点スキャンをかけて、その特徴がでておれば、「このカテゴリーの物である」ぐらいのことは同定出来る。
カテゴライズされていない領域のものは、ローラー作戦で全てのポイントをスキャンせねばなりません。
スキャンするってのは、「観察」「想像」ということですね。レーダーのイメージで良いと思います。「観察力」「想像力」をそこに当てる。跳ね返ってくる像を解析する。

成長して行く中でカテゴライズを進めて行く事で「スキャンしなければならないポイント」を減らして行く。そのことによって「観察」量を減らす。一つの物に使わねばならない観察量を減らす事によって、他の物にそれをまわす。
そのようにして、私たちは世界に接して、理解して行きます。

で、おおよそその思春期と呼ばれるような頃で、そのカテゴライズ作業は終了するのですね。「生きて行く上で必要なカテゴライズ作業」を終えるということでしょうか。
世の中の事、だいたいの事がわかってしまう。
わかったつもりになるということですが(笑)
社会が見えてしまう。そんな気になる。そう言う時期です。
そうするとにわかに、メモリーに空きができるのです。当然ですよね。「観察すべき」ことが少なくなってしまうのですから。
逆に(女性であればことさら)自分は急激に変化を続けている。

世の中、社会は、何にも変わらないし、見るべき所もない。
その中で「私」だけが変化し、うごめいている。

さあどうしましょ?当然の帰結として空いたメモリーでのスキャン能力は「私」に向けられる訳です。
見ますよね、鏡。(笑)しかし、そのときの「私」は常にこっちを凝視してますから、とても「限定的」「局所的」と言わざるを得ません。「こっちを見てない私」の方が大部分なわけで、それは「見えない」。見えない物をスキャンすることを「想像」というのです。
かくして「私」にむかって、ありったけの、怒濤の、未曾有の想像力がつぎ込まれます。「私」に注ぎ込まれた想像力が結合するのは当然「私」です。

「サッカーでゴールを決めた私」
「将来、アイドルになる私」
「もっとハンサムな私」
「ニキビのない私」
「英語ペラペラな私」
「誰からも好かれる私」
etc,etc・・・・

莫大な量の想像力は、莫大な「私の想像」という実を結びます。
※完全に余談ですが、私は中学一年生の頃「超能力者である私」という想像に取り憑かれ、授業中ずっと窓ガラスに「割れろ割れろ!」と念を送り続けていたことがあります(笑)結果は言わずもがなですね。あのとき窓ガラスが割れていれば多分今頃演劇はしてません。
そしてその当然の帰結として
「どうして、私は、(そのような想像とは違う)私なのだ?」
という問いが立てられる訳ですね。つまりこれが「私が多重化することによって立てられる問い」です。
晴れて人間の仲間入りです。
莫大な量の「私のイメージ」がそのまま分母となるわけですから

実際の私/「男前」「持てる」「スポーツができる」・・・・

というこの分数はつまり

私/∞(無限大)

であるといってもいい。

「誰でもいいはずなのに、他の誰でもなく、どうして私は私なのだ?」

という問いに行き着いてしまう。

どうして江戸時代ではなく現代の?
どうしてアフリカでなく日本の?
どうして太陽系の地球の?
このような私?

「私の多重化」によって、無限の可能性が開け、そこに想像力が怒濤のように動員される。
そして言わずもがな、この問いには答えがない。
「私」は「私」である。
「私」は「私」から一ミリもはみ出る事なく、一ミリも足りない所なく、ぴったりそのまま「私」なのだから。そこには「原因」「理由」の入り込む余地がない。
「私」を規定しえるとしたら

「私」とは、「私はどうして私なのか?」という問いを立てられる唯一の物である。

ということだろう。

サイコロを想起する。
普通のサイコロは6面体だが、このサイコロは特殊で1000億面体(数学的にそんな正多面体はないだろうが(苦笑)である。それぞれの面には1~1000億までの数字が入れられている。
そのサイコロが振られる。
「1」の目が出る。
その「1」の目が、問いかけているのだ。
「どうして1なんだ?、2でも3でも49087でもよかったはずだ!1000億の可能性があったなかで、どうして1なんだ!?」
この叫びは悲痛な物であるが、さりとて、どうしてやる事もできない。
サイコロが振られた以上、そこに何か一つの目が出なければならないのである。
そしてそれは確かに1なくてもよかった、2でも3でも597290でも。ただ「結果として1がでた」のだ。「1という結果がでた」そこに理由原因はない。
いうなれば「たまたま」そうだったのだ。

しかしながらこれは「サイコロの目」の方からすれば「たまたま」では済ましにくい。
まして確率は1/1000億分ではすまない。1/∞なのだ。

なんとか、そこに納得するべく、サイコロの目は「サイコロを振った者」を設定してみたりする。神様ですね。
サイコロを振ったものがあるならば、そいつの手癖だとか、そいつがサイコロをどうつまんでどれ位の力加減で投げたのか?というような、「原因」「理由」が存在しえるからだ。それはあくまで「存在しえる」ということで、「判明することができる」ということではないのだが、「原因」「理由」がない。という絶望に比べるとずいぶんと心の平穏は保たれる(のだろう。わからんが)

あるいは、あとづけでその「理由」「原因」を作ろうとする。自分が生きて行く中で。

アイデンティティー
自己実現
存在理由
生きている意味

言い方を変えても、内実は全く同じだ。そこで求められているのは

「私が私である」理由、原因。

である。
繰り返しになるが、残念ながらそれに「正解」はない。わからない。
わからないからこそ、そこに更に想像力がつぎ込まれる訳である。

かくして地獄の思春期は幕を開ける。
勿論自分の思春期を振り返って「そんな事は考えてなかったなぁ。」「地獄でもなかったよ」というケースは大いにあると思う。僕だってそうだ。「地獄のような思春期」というようなものに憧れていたのはおぼえているが、そんなことよりもラグビー部の練習がしんどかったり、映画を見るのが楽しかったりしたもんだ。

観察するものが、他に多くでてくれば、それだけメモリーが裂かれるので空想力はその分減る。
また、大人達も「ほっとくと地獄を見る」子供達が不憫なので(また、自分達のほうでもその問いに対する正解をもってないので)スポーツを推奨してなるべく疲れさす。中高でスポーツが推奨されるのは、もっぱら「自分ってなんだろう?とか考えこまないように、体力的に疲れさす。」である(これは断言出来ます!)もう、へとへとでそんな事考えようとも思わないですからね。そんな暇があったら寝ます。か、アイス食います(笑)

ただ「どうして自分はこのような自分なのか?」というというを、経由せずに思春期をやり過ごす事は不可能だと思われます。量の過多はあれども、誰しもが必ずその「問い」に向かって、どうしようもなく想像力を注ぎこむ。注ぎ込んでもその「私」という穴は底なしで、只只その想像力を飲み込んではいきますが、けっしてその「全貌」が明らかになる事はありません。スキャンしても跳ね返ってこない、暗黒。

「私という闇」です。

さっぱりわからない。まぁ考えてみればそうです。
この世の中の「知っている」もので、一番わからないものが「私」です。
知らないものは、知らないのでいいのです。わからなくても。
しかし、これだけ四六時中、私の体のど真ん中にあって、なおかつ、私にわかるのは「こっちを見ているとき」という極めて限定的な「私」でしかない。「聞く」でも「触る」でも「想像」でもそうですよね。
私が「私」を感知するとき。
その時は常に「自分を感知しようとしている私」の状態なのですから。
そういう「自分をスキャンしている」私以外の私。
ぼーっとしてたり、彼女のことを考えていたり、寝ていたりする「私」
については、まったく感知出来ないのです。

コメントの投稿

非公開コメント

twitter
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
最新記事
リンク