恋愛論8



では、仮に想像量が0であるような場があるとすれば、それはどんなものでしょうか?
想像(力)とは・・・・

「危機を回避し、快を得るために未来(不確定なもの)をさきどる(近くする)」

そのような物、行動、能力のことでした。
したがって、どのようにしても「危機を回避」できない場合や、快や不快が「確定」している場合。一切の必要性を失います。というよりも「確定」している事に対しては「観察」がそのスキャンを担当する訳です。私たちは「確定」している事を想像はできません。
目の前にある100万円の札束は、ただ「見る」ことができるのです。想像出来うるのは、「誰が、何の為においたんだろう?」とか「これを手に入れたら何が買えるだろう?」というような未確定な事柄に付いてです。
想像は決して「確定した事」を捉える事、スキャンする事はできないのです。

想像量が0になるケース
例をあげると、交通事故の時です。
「もうどうしたって、ぶつかってしまう。」というようなとき。
この場合、もうそこの「不快」が確定してしまっています。

そのような場に「想像」は入り込めません。
結果、脳のメモリーに空きができます。その空きには「非想像」つまり「観察」が入り込みます。
スローモーションに感じるのはそのせいだと思います。一定時間あたりの情報量が増えるわけですから、時間が長く感じるのです。
1秒間に入ってくる情報が、「観察」が最大限になることによって、増えるということですね。
そんな風にして「観察」が大きくそのメモリーを食って、それでもまだ空きがあるようなときには、「過去の思い出」だとか「両親の顔」だとかの情報がそれを埋めます。
そんなのが「走馬灯」の正体じゃないかと。
※ どうして「脳内のメモリー」は埋まらなければならないのか?空きのままではいけないのか?→これに関してはわかりません。ただ、覚せい剤などで、感覚を鋭敏にした結果強制的にメモリーを拡大してしまった人たちが、幻覚を見てしまうというのも、つまり、「メモリーが空けとけない」という人間の性質からくるのではないか?という仮説が立てられます。『「脳内のメモリーは埋めとかなくてはいけない」という圧力が人間に備わっている』というのは、直感ですが、あまり、はずれてもいないのじゃないかなぁ・・・・
では、その逆、「観察」が0になって、その分「想像」が増加するようなケースとはどういうものか?
事故の場で考える。話をシンプルにする為にファクターを2つにわける。

「私」と「結果」

である。で、この時の「私」持つ可能性を100とする。

「私(1~100)」→「結果(常に1)」(事故)

私が今から同しようが、結果が変わらない。で、この逆を考えればいい。

「私(常に1)」→「結果(1~100)」(想像力が最大化する場)

結果が100である必要は当然ない。千でも一万でもいい。多ければ多いほど。
どう言う事かというと

「私は何にもせずに一切変化も、行動もしない。が、結果の方はもう無限に変わりえる」

ような場。に於いて想像力は最大化する。と。
しかしこれはなかなか想像しにくいですね。というか、実はこの世の多くがそのように「私の振る舞いとは関係なく」多様に展開して行っているのです。が、「関係がない」からそこに想像力を突っ込もうと思わないんですね。
この方法ではうまく行きません。
じゃ、逆に事故のケースであっても可能性が担保されるような「私」を想定してみましょう。つまり、

スローモーションになってダンプカーのヘッドライトがゆっくり近づいてくるような時に、どのような「私」であれば、それでも生き残れるか?

かなりのウルトラCですが、答えは1つしかありません。

「私じゃない」

という事です(笑)
わかりやすい例で言えば夢ですよね。夢の中で「事故でもう絶対に死ぬ」という状況に有る「私」は、夢の中の私である。というようなケース。これは助かります。
この場合は「観察」する必要がなくなる。だって見た所でそれは「私ではない」のだから。どちらかというとそれよりも「目覚まし時計の音」などを観察せねばならんのだし。
蛇足ですが算数で考えます。私がいて、くじがあり、そこにはあたりと外れの二種類があるような場合。

私(1) × 当たり外れ(2) = 2

の可能性がその場に開けています。この時に私が多重化して3人4人となれば、当然可能性は増えます。「私Aがあたりを引くケース」「私Aがはずれを引くケース」「私Bがあたりを引くケース」「私Bがはずれを引くケース」・・・・

これはまさに「私の多重化」です。
「私の多重化」によって、その場のもつ可能性は爆発的に増えることが可能です。
また、その事によって、想像力の量が爆発的に増えるであろう事も容易に想像がつきます。という事はドキドキの量も爆発的に増えるであろうという仮説が立てられます。

では、「私の多重化」とは、恋以外の実際の私たちの生活の場でどのようにみられるものでしょうか?
夢?多重人格者?
いいえ。もっと身近にそれはあります。

というか、あったのです。
私の多重化
つまり「私が、私であって、私でない」「私が沢山ある」ケースというのは、うらがえせば、「自己同定」が難しいケースということです。
「どうして私が私なのか?」「他の誰でもなくこの私である理由は何か?」そのような問いが立ちえる場所。
そう思春期です。

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