恋愛論5



「彼(女)」に対して開けた想像力と
「ケンタッキーフライドチキン」に対して開かれた想像力を考えると、また恋愛というもの特殊な事情が見えてきます。
「チキンに対しての想像で私が受け取るもの」と「実際にチキンを食べて受け取るもの」
これは、随分と違います。勿論想像しただけでよだれがでますが、おなかは膨れませんし。
では恋ではどうか?例えば「つき合う」ということについて。
「彼女とつき合ったら?という想像で私が受け取るもの」と「実際に彼女とつき合ったときに私が受け取るもの」
これはね。かなり似ている。「楽しい」「うれしい」とかそういうこと。想像しているのが「楽しい」ですもんね。うれしくなっちゃうし。
これは「つき合う」という事に関してだけれども、例えば「sex」ではどうか?これは確かにずいぶんと質が違う。肉体的な快楽というものは、(あんまり言いたかないが、男性で言えば射精であったりとかね)想像して、得られる物ではない。オナニーはちがいますからね。あれは「想像」プラスアルファです。想像すること。脳内に描く事のみによって得られる事を考えましょう。
でもよく考えると「恋愛」という場において、そういう「想像する事では得られない」快という物は、少ない。Sexで得られる「肉体的快楽」とかが特殊なんだとすぐに思い当たる。
(恋愛の本質とは何か?というといは、もっと先に取っておくが)その「肉体的快楽」であっても、(その「SEXを実際している場」に於いてであっても)私が受け取っているものの総体からすれば、どれほど限定的なことか。(比較のしようもないが)その何倍もの「うれしさ」や「この人で良かった」や「幸せな感じ」「嬉しい感じ」「わくわくする感じ」に包まれて、射精の快がある。
「肉体的快楽」は恋愛の場でなくても得られる。なにせ「風俗店で抜いて」もらったあとのむなしさの内容は「そこで使ったお金」の量だけじゃない。プラトニックがどうとか、ホモセクシャルがどうとかまで話を広げるつもりはないので、そこから「セックス」を引いてみる事はしないが、なにしろ「量」的に、とても少なかろうと思うのだ。
恋愛していても四六時中セックスしている訳ではないのだし。実際に二人が離れた場所にいたとしても、「恋愛中」で有ることはいえる。顔を合わせた時だけ「恋愛」で、家に帰ると「恋愛じゃない」というような、on,offはない。そのようにものすごく広くある「恋愛の時間」のなかで「セックスの快」を得る機会。事体がものすごく少ないのだ。金銭的安定だとかもそう。
恋愛初期においてはもう「顔をみてるだけでうれしい」ようなことがある。(だろう。想像です笑)つまりそんなときには、もう一秒一秒嬉しくなれているんですね。(「1うれしい」の持続時間とか気にしないように)何度も何度も嬉しくなれる。その人が実際目の前にいなくたってです。いわば無限に「たのしく」なれてしまう。セックスなんてアータ、がんばった所で、一晩、何回ですか?
いやもちろん質は違いますよ。「質」と考えると、これは「生殖」なので、まさに生き死にに関わる問題だ。恋愛の「うれしい」「たのしい」と「セックスの気持ちよさ」は、随分と「質」はちがう。
だから元々比較の仕様もない訳だけれども、だとするならば、その「機会回数」「可能回数」の圧倒的な差でもって論を進める事を了解願いたいわけです。
なにしろ「無限」対「せいぜい一晩に3」とかですからね。
それが蟻と巨象であっても、勝敗は明らかだろうと。無限ですからね。
ましてや「ふたりでいてなんかうれしい」と「セックスして気持ちいい」ですもん。
こう言い換えてもいい。
「セックスのない恋愛」

「楽しい、うれしい、がない恋愛」
と。
どっちがより恋愛か?

ね?

「セックス」ってのは一部でしかない。
「恋愛」というものの総体。それから受け取る快。の総体。に占める「セックスの気持ちよさ」の量的割合はとても少ない。
デートをして「うれしい」
キスをして「はずかしい」
会えないからこそ「いとおしい」
だとか。そういう

『「実際に受け取る事」を想像することによって、もう既に受け取ってしまえる事』

が、ものすごく多い。(たのしい。うれしい。きゅんってなる、ドキドキする、おかしくなる、幸せを感じる、等々)

「セックスや、金銭的安定や、子供を持つ事、のない恋愛」
と。
「楽しい、うれしい、きゅんってなる、どきどきする、のない恋愛」
と。
どっちがより恋愛か?

・ ・・

そうです。実に恋愛という物は多く「想像力」でもって成り立っており、それだけに「実際に恋愛をして得る快(得)」の中には、それと同種の物を「『得た時の私』を想像する事」で既に得られてしまうものがとても多いのです。

分かれ道を前にして、想像した二つの差の、中央部分位に擬似的に自分を引っ張りあげるわけですが、チキンとちがって「恋愛」は、実際に得ちゃってる分、「擬似的」というところが随分と怪しくなってくる。つまりは実際に「上がる」ってことなんです。

それが片思いであれなんであれ、恋をしてしまうと、それだけで「しあわせ」だというのは、その意味で本当なんですね。「つき合ったら楽しいだろうなぁ・・・」とかいろいろ想像してしまった半分近くは、得てしまう。(半分位から、セックスとかお金とかを引いた分は、実際に楽しくなってしまっている。)
だから、そこから「ゼロ」に戻るというのも、「擬似的に」ということよりも、もっと実際的に「損失」なんです。

『「彼女と一緒に居られたら楽しいだろうなぁ」と想像してるときの楽しさ』

「実際彼女と一緒に居る時の楽しさ」
は、極めて近く、ほぼ同一なんですね。で、想像ってのは、未来に向かって伸びていく。つまり「まだ決まってない」のだから、あるいみ「なんでもあり」「無限」なわけです。
私は想像の中では、中谷美紀とキスをする事もできます。
それだけに、「実際起こる前に先取られた楽しさ」の方が、「実際に得た楽しさ」よりも大きい事などざらにあります。
でもその二つの「楽しさ」のずれをもって「ああ空想してたのと違う。だからこそ、これは現実なのだ。夢見ていた物が現実に今なっているのだ」というようなポジティブな処理の仕方すらできてしまう。
いや、何とも便利なものですな。

・ ・・・

ああいかんいかん。止めどなくなってますね。
一旦話をもどして、
「ドキドキ」に付いて。次回

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