恋愛論2


1ケンタッキーフライドチキンが好き
2体を動かすの好き
3両親が好き
4お芝居好き
5-1出会った時からしばらくの間の私が彼女(今の奥さん)を好きだった状態
5-2今の僕が今の奥さんを好きな状態。
6子供も好き。


比較のしようがないといえばないのですよね。
どれも「好き」なので。
「どっちが好き?」と言われても、その好きの有様が違うので比較のしようがない。
当然、どれも全て「距離が近くて快なもの」ではあるわけです。ではその「有様」がどのように違うのだろうかしら?
対象が「人」か「物」か「行動、動作」という違いがありますね。
私たちは対象が人でなくても「恋」をすることはあるのでしょうか?
よく「仕事に恋をしている」だとかいう表現をしますよね。まぁ、「ハマっている」要な状態を恋をすると言うことがあります。
「私たちは、人に対してそうするように、物に対しても好きになるのか?恋するのか?」
たとえば、「好き」と「恋」の間の違いというのは、単純に「量的」なものであるのか?
あるいは、構造的に何かが違うのだろうか?

その「好き」が、ふくれあがれば。ものすごい大量の「好き」があれば、それは「恋」だといえるのだろうか?
ケンタッキーフライドチキンを好きなように、つまり「チキンへの好きさ」が増加していけばおのずとドキドキするのかしら?
私たちはチキンをあんまりにも好きなりすぎて「どきどきしてフライドチキンと恋に落ちること」はあるだろうか?(バカみたいだなぁ・・・笑)

どうも質が違う気がする。
「好き」と「恋愛」。
しかしそれは「構造的に違うというよりも」なにか1円か10円か?という話と1億円というような、「圧倒的な量的差によって感じる質的な違い」のようにも感じる。また、

「好き」→
の量が爆発的に増える事によって、有る臨界点を突破し、その事によって質的な変化をしてしまったもの
→「恋愛」

ぐらいの感じがする。
(直感①)。

・・・・・・・・

で、その「好きのK点越え」であるところの「恋愛」はどんなもんだろう?
仮に「人は人以外の物に恋をする」として、どう言う状態であれば

「私はケンタッキーフライドチキンに恋をしている」

言えるだろうか?

・ 「ドキドキする」というような様相を伴う。

まぁ、これでいいんじゃないかとおもうんですね。
ときめいたりとか、
はらはらしたり。
それがないといてもたってもいられなくなったり、それの為に身を捧げたい気になってみたり。
(今のところ「ケンタッキーフラドチキンに身を捧げたい」とは思っていないので、つまり私はケンタッキーフライドチキンには恋をしていないということが言えると思います。まぁ、相手は鳥の死骸に粉をつけて油で揚げた物ですからね。)

「どきどき」というファクターで1~6を見てみますと、対象が人である
3、5-1、5-2.6
の中にも違いが見られます。

5-1出会った時からしばらくの間の私が彼女(今の奥さん)を好きだった状態
6子供も好き。

は、ドキドキですね。
もう、子供に至っては本当にドキドキします。
「やっちゃ危ないからダメだよ」という事ばかりを、選択的にしますからね。
まあ、それこそ、やってみて、痛い目に有って、「これ、痛いから嫌いだ」とタグを貼ってカテゴライズしておいてもらわないとね。だめなんですが。まぁ何しろハラハラドキドキです。

しかし、「私は子供に恋をしているか?」というと、ちょっと違う。
どうも、「ドキドキ」の中にも違いはあるようです。

・ ・・・・

あまりにもサンプルが少ないのですが、今の私が「ああ、恋心であったなぁ」と思い出すような「好き」事象という物に関して言えば(まぁ、それも数は少ないですが)上記の二つは当てはまりますね。

① 対象が人である
② 「ドキドキ」を伴う

2(体を動かす)も短時間で激しく動かすと、ドキドキするんですが、まぁ、置いときましょう。
それよりも、こうして見た時に大問題になるのは、

1ケンタッキーフライドチキンが好き
5-2今の僕が今の奥さんを好きな状態。

の違いが説明出来ないということです。
こっっっれは大大問題ですよ。現実的な、「(問題)トラブル」です(笑)
ボヤのうちに消し止めましょうね。
待ってください、ええっと・・

・・・・

ううん(せきばらい)

・ まず第一に、5-2は5-1を通過して到達した地点である。
・ 5-1を「恋愛」で有るとするならば、つまり、そういう「極めて重要な、大切な」二人の関係であった。
・ なもんで、「(過去に)恋愛していたぐらいに大切なもの」であったのだから、今となってはケンタッキーと同じなのかもしれないが、それは慈しんでいきましょう。というような・・・・






嗚呼!!!
だめです!!!
山火事になりました!!!クライシスです!!!(笑)

・ ・・・・

あのね。ここに私ははっきりと宣言しておきますよ。マイク持って壇上から。
いいえ。非常事態宣言では有りません。

ううん(咳払い、再び)

「ケンタッキーフライドチキンと、奥さんとは、違う!」

(ざわめく聴衆。失望、落胆の声)

待って!帰らないで!違うんだ!あの・・・皆さん!おちついてくださいっ!!
(うん。お前が落ち着け)
はい。えーと・・・





とりあえず。一次消火。(ふぃ~)

・・・・

たとえば、登山を考えましょう。
ある人はその裾野から5合目まで上って来た。
私はその頂上にのぼり、その後5合目まで降りて来た。
「ある人」と「私」の居る標高は確かに同じだ。
けれども、そこから見える景色というのは、「私」と「ある人」とでは随分違う。
景色の方も本当は違わないけれど、「私」と「ある人」との「受け取りかた」が違うのだ。
「私」の方が疲れてるから?
それもあるでしょ。ひょっとしたらもうふらふらで足下しかみてないかもしれない。
そうすると、上る時には気がつかなかった登山道脇に、小さな高山植物が、小さな花を咲かせている事に気がつく(かもしれない)。
「好き」の度合いを標高だとして。つまり、それ以外のこと。山の周りに広がる風景。山に付随するあれこれ。そういうものの「意味」が変わってくる。

ケンタッキーフライドチキンと、奥さんと。
その「好き」は同じだとして。
ケンタッキーフライドチキンに付いてくる紙ナプキンと、
奥さんが手渡してくれる紙ナプキンとは、
私に取って全く意味が違う物なのです。

歌の歌詞でもよくあるように、人を好きになる事は、その周りの事、世界の意味を変えることがよくあります。
「好き」そのものではなく、「好き」以外の全ての物の意味を変えるような。
そんなことを「恋愛」だと考えてみるのもおもしろいかもしれません。

・・・・

僕はケンタッキーフライドチキンも両親も好きですが、あんまりドキドキはしません。
「恋心」だとかを「ドキドキ」という切り口で考えてみようと、そうおもうわけです。
ときめき
だとか
胸が締め付けられる
だとか。

「胸が締め付けられている限りに於いてそれは恋だ!」

ということに一旦してみてですね。で、どうしてもフライドチキンを見ると胸が締め付けられるような事態になったらば、「対象が人である」ということに関してもまた検証をしていきましょう。
まずは、ドキドキの方から。

繰り返しですが、そうでないと行けない!という主張したい訳でなく、「ドキドキするような恋心」について考えてみたいという事なんでね。まぁ、さらっとスルーしてください。
「好きになる」という事について考える時に、やっぱりその起点、スタート地点に付いて考えてみたくて、
「好きである」ことよりも
「好きになる」ことを考えたい。
で、その恋の初期状態に多く見受けられる「どきどき」というものを「恋の条件」としてみようと思う訳です。
ときめきですよ。
心が
躍ったり





締め付けられたり





緊張と解放です。
心の。
「好き」の中の、そんなダイナミックな心の動きについて、しばらく考えてみようと思うのです。

コメントの投稿

非公開コメント

twitter
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
最新記事
リンク