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3月7日8日「平和を求める朗読会~パレスチナの詩を聴いてみる・読んでみる~」大阪、京都

「平和を求める朗読会~パレスチナの詩を聴いてみる・読んでみる~」
3月7日(木)19:00~ 大阪_ウイングフィールド

最終9名の参加。三月で高校を卒業するという若い参加者が「模倣」を読んだ声が印象に残っている。

ファーディ・ジューダ Fady Joudah
模倣」(訳:山口勲)
参考 原文
蜘蛛に対してのひどい暴力は無自覚に行われる。
「相手も私たちと同じ人間」であるのに自分たちがしていること(あるいはしようとしていること)。
それに対して、自分が感じるおぞましさ、やましさ、恐怖、を麻痺させるために「ヒューマンアニマル」や「高い木」「鬼畜」「猿」「豚」という言葉を使って相手を呼称する…というようなことを私が考えたりしていると、その若い朗読者は<自分の傘を「家」にしていた蛙を、追い出した>という経験をはなし始めた。おそらくその人の家の傘立ては玄関の外にあって、カエルがいそうな前庭もあって、水を切るためにベルトで巻かずにふわっとした状態で置いておくか掛けておいた傘によく蛙が入り込むことがあったんだろうと私は想像した。以下私のうっすらの記憶で彼女が言ったこと
「この詩を読んで、私のしたことは、それは確かに、ひどいことをしたよなぁと思う。そしてそのようなことが実際にパレスチナの人にも起こっているというのは…」
とても瑞々しいと感じた。私とはある意味で逆の順番でこの詩を受け取られている。年齢によるところが多いのだろうけれどそれが全てではないとも思う。
「私たちもあの人たちも同じ人間である」というためには「人間とはなにか?」の定義がいる。
人間性とは。
「人間性とは何か?」と問われてスラスラと即答できる人は滅多にいないと思う。
それぐらいに「同じ人間だ」ということは薄弱なのだとおもう。薄弱だからこそ「ヒューマンアニマル」「テロリスト」という言葉を導入するぐらいで乗り越えられてしまう。
ただ同時に、薄弱であるにもかかわらず「同じ人間ではない」設定を導入したくなる心理が確かにある。

そもそも「同じ人間だから暴力を振るってはダメだ」ということも、またそれが「同じ人間」という枠組みである妥当性(「同じ哺乳類」「同じ<高い知能を持った>哺乳類」「同じ生き物(植物も含む)」などのフレームではなくて「人間」くくりである妥当性)も相当に薄弱だと感じる。

私は問題を希釈したいのではない。
ただ、問題を突き詰めていくためにたくさんの言葉を用いて費やすことが、あるいはより問題を遠ざけるのではないか?と思い始めている。(という文章をわかりにくく多くの言葉を使って書いている)

つまり「ヒューマンアニマル」と言いたくなるのも、日本にいる私がしんどくなって悲しくなって何かをしようとおもうのも、理屈ではない。人間性が「高度に発達した言語」によって特徴付けられるなら(あるいは言語そのものなのだとしたら)、前人間性の部分が拒否反応を起こしている。

「殺すな」「嫌だ」「やめてくれ」
それ以上に言葉を続けることで、ひょっとしたら、むしろ前人間性の部分の拒否反応を希釈することになっていないだろうか。

「とにかく嫌だ」と感じている人は少なくないはずだと思いたい。でも「とにかく嫌だ」とだけ言ったところで書いたところで伝わらない。「それはどういう理屈でなのか?」の説明を添えないと他の人に相手にしてもらえない。しかしその「説明」はとにかく困難だ。なにせそれは「理屈の前に」嫌なのだから、その説明はいつも後付けのアリバイになる。
戦争、虐殺、迫害弾圧、そういったものは極めて人間的な行為だろう。そしてそれら忌諱する感情も「同じ人間なのに」という。
このような捻れている<理屈の回路>に、言葉を費やすことで、いつも巻き込まれてしまう。そして多くの人は言葉を話すことを諦めて黙ってしまう。

若い朗読者の「(この詩を読んで)私のしたことは、それは確かに、ひどいことをしたよなぁと思う。そしてそのようなことが実際にパレスチナの人にも起こっているというのは…」が伝わる、共有、共鳴できる。その距離はとてもとても私にとって貴重だと、振り返って思っている。時間と空間を共有して朗読の声を聞いて、それぐらいの近距離でしか流通できないなにか。でも大切ななにか。言葉をさほど重ねなくても済む機会。
ブログに書くとここまで長くなることが「ありがとうございます」で伝わる空間。
直接会うということは本当に大切。誰かと会って、話せたら話す。ぐらいで。


8日(金)19:00~ 京都_KAIKA
こちらも同じく最終的に9人の参加者
前回の京都での会と同じ会場KAIKAだが、前回の昼とはまた全然空気感が違う。窓の外が暗い。予想通りというかなんというか沈黙がその大部分を占めた2時間となった。とはいえ以前書いたようにこれはけっして残念がることではないと思う。この夜の参加者もそれぞれの沈黙を共有できたように思う。ガザモノローグについても関心を持ってくださって参加した方もいらっしゃる。またガザ・モノローグの一編を参加者の一人が朗読した。
「停戦のためのパレスチナ朗読プロジェクト」(パレスチナの詩人(など)の詩を朗読し、その動画、録音を #停戦のためのパレスチナ朗読 をつけて拡散することを提案しているプロジェクト)に上がっている詩とは、また違う手触りがある。その違いについて意見を交換し合う。

ここのところガザ・モノローグ京都theatreE9kyotoでの上演にむけてのさまざまなことの方に手を取られいる。しばらくはこっち、「平和を求める朗読会~パレスチナの詩を聴いてみる・読んでみる~」はできないかもしれない。

本当に、詩じゃなくてもなんでもいいので、会ってみる。話せたら話す。という会が、いろんなところでいろんな人々によってなされたらいいなぁと思っている。

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