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壁の花団のこと

今回はまとまる気がしないので、まとめる気を起こさずつらつらとダラダラと書こうと思う。

水沼さんに「『島の話は卒業…』って言ってたのにまた島に戻ってきたんすか?」って言うたら「お前こそ、いつだってラジカセだろ?」と返されたのが多分三、四年前か。

「壁の花団での俳優の演技は、どう言う演出つけて、ああなってるんすか?」って聞いたら「いや演技のカラーというか手法として演出から何か注文をつけていることはなくって、公演を重ねていくなかでなんか自然とこういう形になってきた」と答えてもらったのは、五、六年前か。

去年はリーディング形式の公演で、満を侍したのか機が熟したのか「ランナウェイ」@theatreE9kyoto

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いきなり核心から入る。
例えば今回のお芝居の登場人物の役名が「サンマルチノ」ではなくて「三田浩三」であればどうだったろう?ハラペーニョスは「原田さん」「コンスタンサ」は「紺野さん」、トルティーヤスが「富田さん」だったらどうだったろう。

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去年のリーディング公演では(「元ネタ」というと語弊があるんだろう)創作にあたって強くインスパイとされた小説を紹介していらっしゃった。南米だったか、アフリカだったか、なにしろ、海外の小説であって、それが起点になってこのランナウェイにも繋がっているからして、役名もそのような、つまり日本人ではない名前になっているのだろう。書いている本人(水沼さん)からすれば、それが特にどうということはないのだろうと想像する。普段から(これまで描かれてきたものの)役名についてことさら「日本人である」ことを印象付けよう、と思ってつけられていることはないだろうから。手元に水沼さんの台本を持ってはいないので詳しく調べることはできないけれど、「男」「女」とかが多いのではないかしら?わからない。「◯男」「○子」とかもありそう。なんせ、水沼さんにすれば「一郎」と「サンマルチノ」との違いはさほどないんじゃないかしらと想像する。「ハラペーニョスでもいいけど、まぁ、周りとのバランス考えれば、和夫でいいか」というぐらいのことなのかもしれない。

でも、これは違う。違った。見た私の印象は随分と違った。

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俳優の演技と関わりがあると思う。

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壁の花団で(多くの)俳優が(多くの時間)やっている演技は「コンテクストを削る」という方法だ。

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余談として、私が学生で芝居を始めた時には、もう楽しくて仕方がなくて無我夢中。の時期を過ぎて「演技ってなんだろう?ちゃんとしたいな」と、少しでも思った人から「コンテクスト」って目の前にバーンと。なんでした。はい。「コンテクストって何?」って聞こうものなら、「可哀想な人」みたいな目で演劇仲間からは見られた、そんな時代です。

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さておき。水沼さんのやや癖のある(この「癖」は純粋にナチュラルなものではなくて、水沼印というか、嫌な言い方をすれば「ノリピー語」みたいな(ああ、おそろしい。わからない人がどれほどいるだろう!杉ちゃんの「〇〇だぜぇ~」みたいなことではあるのだけれど。止むに止まれず滲み出る。「方言」というものではなくて、なんか気持ちの良い音の出かたといった感じではなかろうか。)テキストを<コンテキストを極力抜いて>発話する。
と、どうなるか?
「変な人」になる。「頭ちょっとおかしい人」「子供のまま大人になった人?」という具合。

「奇妙な人たち」がまずいる。奇妙な人たちはシリアスだったり悲惨なことをいなしたり、捌いたりしていく。いるように見える。しかしそれは「見えている」だけで、<そうではないかもしれない>

この<そうではないかもしれない>という保留によって水沼作品の深み重みは担保されている。

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俳優の、多くは間、そして顔の表情や、小道具などの扱い配置、そしてもちろん照明などによって<そうではないかもしれない>は劇中、幾度も提案される。その度に私たち観客は「あぁ、この人は単純で鈍感でバカなふりをしている。が、その実、全部をわかっていて、すごく悲しくて、だからこそ、こんな「バカ」な振る舞いをせざるをえないのではないか?」というような幸せな誤読(?)をするようになる。

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多く時間、俳優の演技のコンテクストを消去するによって、逆に「いや、裏があるよね」と期待させる、想像させる。というと、「能楽者の能面の扱い」に近く思えるけれど、程度の差はあれ原理としてはそのようにして「壁の花団の演出論理」はあると思っている。

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その時に役名が「サンマルチノ」であるか「三田浩三」であるかは随分と違う。距離感の問題だ。私にとって「サンマルチノ」よりも「三田浩三」の方が近い。気がする。

だから俳優が演じているものが「子供じみている」「頭悪そう」「変な人」だった場合の違和感が「三田浩三」の時の方が、「サンマルチノ」に比べて大きい。「サンマルチノ」なら「まぁ、そういうサンマルチのもいるかもね」という、つまり抵抗が減る。

しかしこの「普通そんなことはないよね」という抵抗こそが、俳優がちょっと作る0.2秒の間に対しての観客の想像力を流し込む動機だったりするのだ。

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「サンマルチノやハラペーニョスによる物語は、私(田中遊)の常識、想像をはるかに超えるであろう」という前提は、水沼さんが思っているよりも大きく観客の「想像力を流す原動力」を減退させるのだと、僕は考える。そこに「そんなわけないよね?普通」という違和感があるからこそ、「言葉ではそういっているけれど、その裏は?言葉にしないけど想いはあるだろうね」という想像力を流し込むわけだからして。

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ケの抜けた炭酸のような印象。
壁の花団はこうではなかったように思う。
でも多分その感じもあるからこそ、ラストシーンがある。その意味があるのだと思う。

そこで「アヒージョ!」(じゃないな。内田さんなんつってたっけ?)
と呼ぶハラペーニョスの極めて「ウェットな」セリフが、もろに刺さる。のは、多分それがないと、ちょっと芝居を終われなかったからだろうと邪推する。

ケの抜けた炭酸

役名が日本人に聞こえるものにしていれば、それで万事おさまるというようなことでないのはわかっているが、本質はそこにあるような気がしている。

水沼さんの描きたい戯曲、世界、と俳優の演技方法が、これまでの壁の花団では、うまく一致し高度に機能してきた。(だから好きなんだ)

が、仮に水沼さんが今後「世界作家」を目指すのであれば、とか「やっぱり島から出る」のであれば、とか、わからんが、その際に求められる「俳優の演技の質」は変わってくると思う。

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水沼さん自身俳優をされるわけで、壁の花団の俳優がやっている「リズム」というかが、随分気に入っているのだろうとおもう。むしろ、その「リズム、呼吸」が成立する台本を志向しているのかもしれない。
だとすれば今回の「ランナウェイ」は演技の質にはフィットしてなかったと思う。

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例えば姿を見せたサンマルチノとコンスタンサが話すシーン。あそこでコンスタンサの演技がもっと「ノイズ乗っかったリアリスティックなおっさん」であればどうだったろう?
また逆にあれが「今野さん」だったらそんな必要もなかったと思う。

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