このしたやみ「猫を探す」
このしたやみ「猫を探す」観劇。
なんだかすごく久々にじっくりとしっかりと「作品」を見たように思う。その「世界」を。「語り」地の文がふんだんに使われた戯曲なので小説を読んでいるのに近い(でも違うけれど)印象を受ける。つまりその「擬似小説の世界」をしっかりと見せつけられた。
山口さんの演出はいい意味で諦めているというか割り切っているなぁといつも思う。脚本の一番良いところを一番良い角度から見せること。それ以上の無茶をしない。「食材が良ければ蒸し焼きにして塩かけて食うのが一番うまいよね」っていうような。無論僕の印象と想像です。実際山口演出の作品に出演させてもらったのは多分一度きりですから。「蒸し焼きで塩かけて」って簡単なようでそんなわけはないのですよ。お分かりかと思いますけど。「色々演出で新奇なもの、特殊なことやりたくなるの」や「自分色を出したくなるの」を諦めることは、駆け出しであれば別にして、おちついて真摯に作品に向き合えるようになれば比較的簡単なことです。難しいのは、調理法がシンプルになればなるほどその「蒸し時間」や「塩加減」や「盛り付ける器」なんかが大きく味を=作品の成否を左右する所です。「最小限の加工で、最大限の成果を得る」その匙加減は並大抵じゃない。経験だけでもセンスだけでもできない「技」だろうとおもうのです。山口さんの「技あり」って感じがしました。
広田さん二口さんは、相変わらずと言ってはなんですが、この二人、台本が古典だろうが新作だろうがあんまり関係ないと思います。お二人ともお役者おバカなので(敬語。お二人とも先輩)真摯だなぁと。嬉しくなります。正座をし向かい合って互いの「聞いて欲しい事」を聞き合うシーン。まずゆうみさんの「拝聴します」の少し顎を上げた姿勢が美しくて可憐で。その後の二口さんの少し顎を引いた姿勢も勁くて大きくて。でも「とっておきの食材(広田二口)」って考えるなら、そろそろ違う料理方法でもいいのかも?…どうだろう。台本は変えられても俳優は変わらんしなぁ。それは別の座組に求めればいいのだろう。
で、山口クッキングでシンプルにストレートに美味しく届けられた(ように私には感じた)「猫を探す」の世界です。こふく劇場の永山さんの手によるもの。(こふく劇場はアトリエ劇研にきてくれた「水をめぐる」のみ拝見したことがあります。ホームページ確認したら2008年ですって。ほんとかよ…)「寓話」として受け取れるのがもっともコンフォータブルだったでしょう。ただ私にとってはこのお話を寓話だと受け取るには障害がいくつかありました。一つには近年、宮崎含む九州の方で水害が多く起こっていること。もう一つは地の文では「ケンゾーは」と三人称を使ってはいるものの、実質ケンゾー(二口大学演じる大学の事務局員)の「一人称」であるから。それが言い過ぎだとしてもすくなくとも書き手の男性-性が満ち満ちていて観劇しながら「これ女の人はどんな気持ちで見てるんだろう…」と意識が膨らんでいったから。
本当に奇しくも今日、読む本を家に忘れて職場にロッカーに放置していた桐野夏生の「I'm sorry,mama. 」という文庫本をカバンに突っ込んで劇場に向かいました。開演を待つ客席でそれを読んでいたわけです。でお芝居が始まって、あらそういえば「不倫中に子供が行方不明になった話、桐野夏生あったなぁ」って。タイトル思い出せなくて帰って調べたら「柔らかな頬」でした。「柔らかな頬」の主人公は不倫中に娘が失踪して長い間見つからない女性です。彼女は娘を探します。その「中身、思考、精神」のもうぐちゃぐちゃの超高密度の多種多様な、層の、エリアの、そのゆっくりだったり唐突だったりする移ろいを桐野夏生は(あやふやな記憶)表していたように思う。(本日見てきたばかりのお芝居のセリフなのにこちらもあやふやで本当に失礼な話。すいません)対して本作では「女は体の奥に空洞があって、その空洞はとてつもなく深くて広くて暗くて光を当てることすらできない。そこでは『さびしい風』が始終吹いている。」とケンゾーの友の幽霊→の姿を借りたケンゾーの意識は、そう認識し表明する。
ちょっと、びっくりするぐらい振り切れて男性的です。
山口演出によって作品が極めてストレートにダイレクトに伝わった結果、怒って文句を言ってくる女性客もいるんじゃないだろうか?と少し危惧するぐらいに、それはそれはなんというか…
男性である僕は「なんとなく腑に落ちかけて」、それでゾッとしたんです。「これ女性はどんなふうに見てるんだろうか?」と。
そこで、この台本、女性演出家でやってみたらどうなるんだろう…。と。これはちょっと見ものじゃないかと思います。無言の食事を済ませた後、お風呂にはいる「フサコ(?でしたよね)」の立ち位置や向きは違って当然だろうと。むしろそっちが見たいですよね男性としては(いや、ゆうみさんの裸が見たいってことじゃないよ。まぁ見たいけどさ)
そうなんです。あそこで二口さんの「坂の途中で立ち止まっちゃって、苦し紛れかやけくそかで短歌をガナル」の見せても。って。私は男性だということもありこれでも腑に落ちたんですが、本当にみたいものは逆かもなと。「坂の途中で登るのも降るのもできずに立ち止まった男がみっともなく短歌をがなっている声を、すりガラス越しに聞いている全裸の年嵩の女性」が、その表情が見たい。…
言葉足らずの結論としては「寓話」では足りない。という程度です。多くの寓話には何かの教訓があります。でも「教訓がなければ寓話ではない」わけでありません。今回の「猫を探す」からも何かしら教訓を引き出そう見つけ出そうをすることはナンセンスでしょう。たださらに一歩すすんで「寓話というより神話なのだ」とした方が座りが良いと思うのです。思えば「水をめぐる」も寓話というより神話に近いような印象が(本当にうっすらです。どんな話だった?って聞かないでください。覚えてません)あります。かすかに。神話のあっけらかんとした残酷さ、極端さ。そのようなものとして「猫を探す」も演出されるべき作品だったのかもしれないと。
それがたとえ
<「六年前の不倫行為中に不幸にして起こった水害で家が流され、娘が行方不明になり(死体が見つからない←ここポイント)自らのうちなる「娘がまだ生きているかもしれない」という希望を持て余し、それに内部から焼かれ、あるいは腐食される(内部被曝って感じかも)女性」の中身>
を直接指しているのでなくても。あるいは
<「大学生。激しい雨の夜に、思いを寄せる自分より20歳ほども年上の男性の自宅に押しかけ、ずぶ濡れの衣服をその男の前で脱ぎ去り、男に体を晒す女性」の中身>
を直接指しているのでなくても。
「女ってものは…」という法外な一般化をしたうえで、その内部に「埋めきれぬ、光も当たらぬ空洞があり、そこには寂しい風が吹いている」と言い放つ。
これはやっぱりちょっと無茶苦茶なんです。空洞なわけがないんです。
「空洞としてしか捉えられない。」
むしろ
「多様多動多密すぎてどうにも捉えられないので、逆に『空洞』と表現した方がかろうじて収まりが良い」
というあまりに共感性も協調性もない、言い訳言い逃れをする気もない、清々しいまでに純粋な男性-性。これはもはや「寓話」というよりも「神話」だろうと。「天と大地が結ばれて大洋や農業が生まれた」というようなとてもあっけらかんとした世界。
神話としての「猫を探す」の上演において、ようやくこの作品に横溢する過剰な男性性も、「ゼウスって実際手のつけられないヤリチンやなぁ…」というような所に着地できるのではないだろうか。とするなら話はぐるっと頭に戻って実は今回、演出山口は「素材の特性を見誤ったのでは?」とか「そうか、美術全体が過剰なまでに白色だったのも、長い時間(歴史)を思わすような砂や、神殿の遺跡を思わすような家の床と柱の一部が舞台セットであったのも、神話性を求めてのことだったのか?とか。………
子供の頃アニメ「トムソーヤの冒険」が大好きでした。布団に入り寝る前に自作ストーリを脳内で上演して眠ると本当に夢に見られて、それが私の演劇原体験です。私にとって「良いお芝居」というのは泣いた笑ったでなくてそれを見て、その後どれだけ妄想がOver Driveしたかということなので、間違いなく「猫を探す」は良いお芝居でした。
なんだかすごく久々にじっくりとしっかりと「作品」を見たように思う。その「世界」を。「語り」地の文がふんだんに使われた戯曲なので小説を読んでいるのに近い(でも違うけれど)印象を受ける。つまりその「擬似小説の世界」をしっかりと見せつけられた。
山口さんの演出はいい意味で諦めているというか割り切っているなぁといつも思う。脚本の一番良いところを一番良い角度から見せること。それ以上の無茶をしない。「食材が良ければ蒸し焼きにして塩かけて食うのが一番うまいよね」っていうような。無論僕の印象と想像です。実際山口演出の作品に出演させてもらったのは多分一度きりですから。「蒸し焼きで塩かけて」って簡単なようでそんなわけはないのですよ。お分かりかと思いますけど。「色々演出で新奇なもの、特殊なことやりたくなるの」や「自分色を出したくなるの」を諦めることは、駆け出しであれば別にして、おちついて真摯に作品に向き合えるようになれば比較的簡単なことです。難しいのは、調理法がシンプルになればなるほどその「蒸し時間」や「塩加減」や「盛り付ける器」なんかが大きく味を=作品の成否を左右する所です。「最小限の加工で、最大限の成果を得る」その匙加減は並大抵じゃない。経験だけでもセンスだけでもできない「技」だろうとおもうのです。山口さんの「技あり」って感じがしました。
広田さん二口さんは、相変わらずと言ってはなんですが、この二人、台本が古典だろうが新作だろうがあんまり関係ないと思います。お二人ともお役者おバカなので(敬語。お二人とも先輩)真摯だなぁと。嬉しくなります。正座をし向かい合って互いの「聞いて欲しい事」を聞き合うシーン。まずゆうみさんの「拝聴します」の少し顎を上げた姿勢が美しくて可憐で。その後の二口さんの少し顎を引いた姿勢も勁くて大きくて。でも「とっておきの食材(広田二口)」って考えるなら、そろそろ違う料理方法でもいいのかも?…どうだろう。台本は変えられても俳優は変わらんしなぁ。それは別の座組に求めればいいのだろう。
で、山口クッキングでシンプルにストレートに美味しく届けられた(ように私には感じた)「猫を探す」の世界です。こふく劇場の永山さんの手によるもの。(こふく劇場はアトリエ劇研にきてくれた「水をめぐる」のみ拝見したことがあります。ホームページ確認したら2008年ですって。ほんとかよ…)「寓話」として受け取れるのがもっともコンフォータブルだったでしょう。ただ私にとってはこのお話を寓話だと受け取るには障害がいくつかありました。一つには近年、宮崎含む九州の方で水害が多く起こっていること。もう一つは地の文では「ケンゾーは」と三人称を使ってはいるものの、実質ケンゾー(二口大学演じる大学の事務局員)の「一人称」であるから。それが言い過ぎだとしてもすくなくとも書き手の男性-性が満ち満ちていて観劇しながら「これ女の人はどんな気持ちで見てるんだろう…」と意識が膨らんでいったから。
本当に奇しくも今日、読む本を家に忘れて職場にロッカーに放置していた桐野夏生の「I'm sorry,mama. 」という文庫本をカバンに突っ込んで劇場に向かいました。開演を待つ客席でそれを読んでいたわけです。でお芝居が始まって、あらそういえば「不倫中に子供が行方不明になった話、桐野夏生あったなぁ」って。タイトル思い出せなくて帰って調べたら「柔らかな頬」でした。「柔らかな頬」の主人公は不倫中に娘が失踪して長い間見つからない女性です。彼女は娘を探します。その「中身、思考、精神」のもうぐちゃぐちゃの超高密度の多種多様な、層の、エリアの、そのゆっくりだったり唐突だったりする移ろいを桐野夏生は(あやふやな記憶)表していたように思う。(本日見てきたばかりのお芝居のセリフなのにこちらもあやふやで本当に失礼な話。すいません)対して本作では「女は体の奥に空洞があって、その空洞はとてつもなく深くて広くて暗くて光を当てることすらできない。そこでは『さびしい風』が始終吹いている。」とケンゾーの友の幽霊→の姿を借りたケンゾーの意識は、そう認識し表明する。
ちょっと、びっくりするぐらい振り切れて男性的です。
山口演出によって作品が極めてストレートにダイレクトに伝わった結果、怒って文句を言ってくる女性客もいるんじゃないだろうか?と少し危惧するぐらいに、それはそれはなんというか…
男性である僕は「なんとなく腑に落ちかけて」、それでゾッとしたんです。「これ女性はどんなふうに見てるんだろうか?」と。
そこで、この台本、女性演出家でやってみたらどうなるんだろう…。と。これはちょっと見ものじゃないかと思います。無言の食事を済ませた後、お風呂にはいる「フサコ(?でしたよね)」の立ち位置や向きは違って当然だろうと。むしろそっちが見たいですよね男性としては(いや、ゆうみさんの裸が見たいってことじゃないよ。まぁ見たいけどさ)
そうなんです。あそこで二口さんの「坂の途中で立ち止まっちゃって、苦し紛れかやけくそかで短歌をガナル」の見せても。って。私は男性だということもありこれでも腑に落ちたんですが、本当にみたいものは逆かもなと。「坂の途中で登るのも降るのもできずに立ち止まった男がみっともなく短歌をがなっている声を、すりガラス越しに聞いている全裸の年嵩の女性」が、その表情が見たい。…
言葉足らずの結論としては「寓話」では足りない。という程度です。多くの寓話には何かの教訓があります。でも「教訓がなければ寓話ではない」わけでありません。今回の「猫を探す」からも何かしら教訓を引き出そう見つけ出そうをすることはナンセンスでしょう。たださらに一歩すすんで「寓話というより神話なのだ」とした方が座りが良いと思うのです。思えば「水をめぐる」も寓話というより神話に近いような印象が(本当にうっすらです。どんな話だった?って聞かないでください。覚えてません)あります。かすかに。神話のあっけらかんとした残酷さ、極端さ。そのようなものとして「猫を探す」も演出されるべき作品だったのかもしれないと。
それがたとえ
<「六年前の不倫行為中に不幸にして起こった水害で家が流され、娘が行方不明になり(死体が見つからない←ここポイント)自らのうちなる「娘がまだ生きているかもしれない」という希望を持て余し、それに内部から焼かれ、あるいは腐食される(内部被曝って感じかも)女性」の中身>
を直接指しているのでなくても。あるいは
<「大学生。激しい雨の夜に、思いを寄せる自分より20歳ほども年上の男性の自宅に押しかけ、ずぶ濡れの衣服をその男の前で脱ぎ去り、男に体を晒す女性」の中身>
を直接指しているのでなくても。
「女ってものは…」という法外な一般化をしたうえで、その内部に「埋めきれぬ、光も当たらぬ空洞があり、そこには寂しい風が吹いている」と言い放つ。
これはやっぱりちょっと無茶苦茶なんです。空洞なわけがないんです。
「空洞としてしか捉えられない。」
むしろ
「多様多動多密すぎてどうにも捉えられないので、逆に『空洞』と表現した方がかろうじて収まりが良い」
というあまりに共感性も協調性もない、言い訳言い逃れをする気もない、清々しいまでに純粋な男性-性。これはもはや「寓話」というよりも「神話」だろうと。「天と大地が結ばれて大洋や農業が生まれた」というようなとてもあっけらかんとした世界。
神話としての「猫を探す」の上演において、ようやくこの作品に横溢する過剰な男性性も、「ゼウスって実際手のつけられないヤリチンやなぁ…」というような所に着地できるのではないだろうか。とするなら話はぐるっと頭に戻って実は今回、演出山口は「素材の特性を見誤ったのでは?」とか「そうか、美術全体が過剰なまでに白色だったのも、長い時間(歴史)を思わすような砂や、神殿の遺跡を思わすような家の床と柱の一部が舞台セットであったのも、神話性を求めてのことだったのか?とか。………
子供の頃アニメ「トムソーヤの冒険」が大好きでした。布団に入り寝る前に自作ストーリを脳内で上演して眠ると本当に夢に見られて、それが私の演劇原体験です。私にとって「良いお芝居」というのは泣いた笑ったでなくてそれを見て、その後どれだけ妄想がOver Driveしたかということなので、間違いなく「猫を探す」は良いお芝居でした。