一年ぶり。懊悩。
オリンピック開催には反対です。
で、明日僕本番で舞台に立つんです。
そこの整合性が自分の中でどうしてもつきません。つかないのです。
つかないまま舞台には立ちます。昨日も立ちました。
(なんでもスパッとクリアになってるなんてことは小説や映画やお芝居の中でも最近めっきり見かけなりました。せめて我が舞台上にいるからには、と思うのですが、申し訳のないことです)
芸術文化は生きるために必要だ。
と
スポーツは生きるために必要だ。
は一人、一人の関係では完全な等価です。し、多分この二つで多数決を取れば(取る意味なんてないです)スポーツの方が生きるために必要な人が多いのかもしれません。もうずいぶん減ったかもしれませんが我が小学校ぐらいの頃は近所のオタクの半分ぐらいは夕方6半ごろからはテレビは野球のナイターで。
オリンピックを楽しみにしているアスリートがいて、舞台本番に意気込んでいる俳優がいて。どちらにもスタッフがいる。そしてどちらにもそれを見ることを楽しみにしている人たちがいる。
規模の問題を無視するわけにはいきません。そりゃtheatreE9kyotoの公演とオリンピックじゃ違います。人の流れが黄河と哲学の道の横のせせらぎぐらい?
「原理的な問題」という言葉は成立しません。それが「原理」なのだから問題はありえないのです。
問題があるとすれば。何か答えの出ることを、解を得ることのできるものを「問い(問題)」と呼ぶのであれば、それらは全て「程度問題」です。私は。私たちはあらゆる問題や困難に対して、「程度の問題」として解を出していかなくてはなりません。100:0はないのです。原理ですれ違うと100:100だからそれは永久に解決されないし、それは「問題」ではない。結局は「まぁ真ん中とって」しかない。本当にそれしかない。
ただそれはそうとして「theatreE9kyoto程度ならあり」「オリンピックは無し」のその有り無しの分水嶺はどこにあるのか?私の中で。少なくとも科学的、医学的根拠、エビデンスはない。私にはわからない。全くのバカではないから両者が圧倒的に違うことはわかるし、分水嶺は「theatreE9kyoto〜オリンピック会場」のグラデーションのどこかのポイントにあるのだろうとは思います。(床面積?それって科学的なの?適当じゃなくて?)
その上でまだやはり気持ち悪い。例えるなら
「プラスチックゴミの問題に対処する方法として『コンビニ袋をやめてみる』なんてのはナンセンスだ」
「個人でヴィーガンやったって構造は変わらんでしょ」
「選挙で俺が投票したところでなんもかわらんやん」
と同じ感じ。特に三番目の選挙のことに関しては、もうずっと私、思ってきてることだから。思ってきているというのはうえの反対のことをです。「そう言わずにいきましょう選挙に。何万票だってその一票の積み重ねなのだから」と。(実際発言もしてきたように思います。選挙行きましょうねって)「あまりに大きな多数の全体に対してそんな微々たるものは無意味だ」という声には乗れない。だから筋が通らんのです。「俺らはいいねん。規模が小さいから。オリンピックはやめとけ。規模がでかいから」。でも観客も投票も同じで一人一人が重なって大きな人数になるわけですから。私たちの公演がありお客さんに来ていただけるということで、少なくとも、選挙に例えるなら「一票」程度の人の流れはある。その一票自体はそれこそなんの力もない「たかだか一票、たかだか小劇場の公演」だけれど、結局その一票一票の積み重ねだよ。と私は考えてきたから。「俺一人選挙に行ってもなんも変わらん」という態度と「この小劇場で公演をするぐらいなんも変わらん」とは相似なんです。まいった。ここでも整合性がつかない。
ましてや
「オリンピックやるなら、俺らもやらせろ」
「俺らもやめたんやからオリンピックもやめろや」
ってのはスピード違反で捕まった親父がポリに「おい、今後ろから行ったポルシェの方がスピードでとったやないかい?!なんでワシだけつかまんねん!」って言ってるのと同じように感じる。むろんそこで「制限速度」が分かっているならば文句のつけようもあろうと思う。つまり「規模が200人までなら安全なんだ」「床面積が…」というような。
とはいえ昨日も出ましたし、明日も出ます。お待ちしてます。
なぜか?
舞台の上で答えたいと思います。
で、明日僕本番で舞台に立つんです。
そこの整合性が自分の中でどうしてもつきません。つかないのです。
つかないまま舞台には立ちます。昨日も立ちました。
(なんでもスパッとクリアになってるなんてことは小説や映画やお芝居の中でも最近めっきり見かけなりました。せめて我が舞台上にいるからには、と思うのですが、申し訳のないことです)
芸術文化は生きるために必要だ。
と
スポーツは生きるために必要だ。
は一人、一人の関係では完全な等価です。し、多分この二つで多数決を取れば(取る意味なんてないです)スポーツの方が生きるために必要な人が多いのかもしれません。もうずいぶん減ったかもしれませんが我が小学校ぐらいの頃は近所のオタクの半分ぐらいは夕方6半ごろからはテレビは野球のナイターで。
オリンピックを楽しみにしているアスリートがいて、舞台本番に意気込んでいる俳優がいて。どちらにもスタッフがいる。そしてどちらにもそれを見ることを楽しみにしている人たちがいる。
規模の問題を無視するわけにはいきません。そりゃtheatreE9kyotoの公演とオリンピックじゃ違います。人の流れが黄河と哲学の道の横のせせらぎぐらい?
「原理的な問題」という言葉は成立しません。それが「原理」なのだから問題はありえないのです。
問題があるとすれば。何か答えの出ることを、解を得ることのできるものを「問い(問題)」と呼ぶのであれば、それらは全て「程度問題」です。私は。私たちはあらゆる問題や困難に対して、「程度の問題」として解を出していかなくてはなりません。100:0はないのです。原理ですれ違うと100:100だからそれは永久に解決されないし、それは「問題」ではない。結局は「まぁ真ん中とって」しかない。本当にそれしかない。
ただそれはそうとして「theatreE9kyoto程度ならあり」「オリンピックは無し」のその有り無しの分水嶺はどこにあるのか?私の中で。少なくとも科学的、医学的根拠、エビデンスはない。私にはわからない。全くのバカではないから両者が圧倒的に違うことはわかるし、分水嶺は「theatreE9kyoto〜オリンピック会場」のグラデーションのどこかのポイントにあるのだろうとは思います。(床面積?それって科学的なの?適当じゃなくて?)
その上でまだやはり気持ち悪い。例えるなら
「プラスチックゴミの問題に対処する方法として『コンビニ袋をやめてみる』なんてのはナンセンスだ」
「個人でヴィーガンやったって構造は変わらんでしょ」
「選挙で俺が投票したところでなんもかわらんやん」
と同じ感じ。特に三番目の選挙のことに関しては、もうずっと私、思ってきてることだから。思ってきているというのはうえの反対のことをです。「そう言わずにいきましょう選挙に。何万票だってその一票の積み重ねなのだから」と。(実際発言もしてきたように思います。選挙行きましょうねって)「あまりに大きな多数の全体に対してそんな微々たるものは無意味だ」という声には乗れない。だから筋が通らんのです。「俺らはいいねん。規模が小さいから。オリンピックはやめとけ。規模がでかいから」。でも観客も投票も同じで一人一人が重なって大きな人数になるわけですから。私たちの公演がありお客さんに来ていただけるということで、少なくとも、選挙に例えるなら「一票」程度の人の流れはある。その一票自体はそれこそなんの力もない「たかだか一票、たかだか小劇場の公演」だけれど、結局その一票一票の積み重ねだよ。と私は考えてきたから。「俺一人選挙に行ってもなんも変わらん」という態度と「この小劇場で公演をするぐらいなんも変わらん」とは相似なんです。まいった。ここでも整合性がつかない。
ましてや
「オリンピックやるなら、俺らもやらせろ」
「俺らもやめたんやからオリンピックもやめろや」
ってのはスピード違反で捕まった親父がポリに「おい、今後ろから行ったポルシェの方がスピードでとったやないかい?!なんでワシだけつかまんねん!」って言ってるのと同じように感じる。むろんそこで「制限速度」が分かっているならば文句のつけようもあろうと思う。つまり「規模が200人までなら安全なんだ」「床面積が…」というような。
とはいえ昨日も出ましたし、明日も出ます。お待ちしてます。
なぜか?
舞台の上で答えたいと思います。