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下鴨車窓を拝見しました。

下鴨車窓「散乱マリン」を拝見しました。

今回はキャスティングが本当に本当に良かったと感じました。各役者さんがすごくハマっていたというか、「適材適所」っていう言い方すると(組閣のこととか頭に浮かんで)「ありものの中から、よりいいバランス選んだ」みたいなニュアンスに聞こえるけれどそうじゃなくて、「ラグビー代表」みたいな。「各役をやらすならこの人っ!」って人が(結果そう見えたってことだけれど)集められてたように思う。てなことを言いながら出演者の皆さん全員のこれまでのお芝居を見ているわけじゃないんですが、何しろみんなハマり役に思えました。それぞれの良さがじっくりたっぷり伝わってきて、ま、それだけで僕は大満足でした。

 どうしても下鴨車窓は「点」ではなく「線」でみてしまうので、前回拝見した「微熱ガーデン(再演)」のことなども頭に浮かんだりします。「微熱…」の中村彩乃さんの(僕が感じる所の)ミスキャストと、実に対照的だと感じました。誤解の無いように申し加えますと中村さんは、本当に素敵な俳優さんです。舞台上の彼女を一度でもご覧の方にはいうまでも無いことだと思いますが。《ほんと彼女、素敵ですよね)ただ「微熱…」で彼女が演じた役は、彼女じゃなかったかなあと、私は感じたのでした。それもまた下鴨車窓を何度も拝見している「あや」といいますか、初演の「微熱…」時にその役をやってらっしゃった俳優さんが本当にハマっていたのです。それで「それとの比較で見るから」と言うことは大いにあるのです。だいぶ大雑把に書いてしまうと「論理的と言うよりは感覚的に行動する登場人物=役柄」に俳優としてどう近接して行くか?という実に難しい問題に、僕が拝見した時の中村さんは「当たって砕けてた」ように感じたのですね。「感覚的」というのは「本人にも、容易には言語化できないなんかのメカニズムでそうしてしまう。そんなことを言ってしまう」ような人物のことです。他人から見たら「なんか感覚だけで動いてるなぁ」と感じるけれど、当たり前の話人間ですから、その行動、発話を選択する何かのメカニズムはあるんはずなんです。「無意識」という言葉は便利すぎて使うのが嫌ですが例えばそういうこととか。で、そんな役がふられた時に、俳優がなすべきことは、どういう作業か?これほんまにめんどくさいんです。もちろん俳優が「感覚的に」やってしまうことも一つの手だとは思います。ただそうなるともう本当にギャンブルというか、やっぱり俳優は「その役がなぜそこでそういうのか?そうするのか?」を探って、自分の体にインストールしようと思うはずなんです。僕はそれは至極真っ当だと思っていて、中村さんは真っ当な、もっというと「珍しく真っ当な俳優さんだ」と認識して、だいすきなんです。またいつか共演できたら幸せだと思ってるんですが…。ただその真っ当さが、届かなかったというか、「理屈で動いてない対象を理屈で捉えようとして捕まえられなかった」ように感じたのです。簡単なことじゃないですが、そういう役を捉えようとすると俳優はもう一つ次数を上げて取り組まないといけなくって(まあ口で言うのは簡単ですが)そこまでには至らなかったのかなあ、と。
で、それと比べて(比べることに意味はないのでしょうが)今回は本当に各俳優さんが伸び伸びと輝いてたなあ。と感じたのです。
西村さんは、本当に「隙がない」なぁと。惚れ惚れするんですよね。もう嫉妬しかないのです。この人おらんかったらもうちょっと俺の仕事増えてるんちゃうやろか?とか(笑)なんせ良い。大別するとタイプとしては藤原大介さんと同じで、何かを内に秘めて、ググッとその密度を高めて、観客に目を切らさないというか、そういうタイプだと思います。これってすごいことなんです。僕とかはかまってちゃんのわかってちゃんですから、表に出来るだけ(というか全部)出そうとするタイプ。だからね。やっぱり敵わないなあと、悔しいけど思うんですね。「思わせぶり」なだけじゃなくそこにきちんと質量があるから見ちゃうんですよね…。Fさんは、若干「納品した」感がありましたが、まぁまずもって僕が付き合い長いから「一味違うFさん見たい」という欲望が強いのと、ああいう役を振られたらFさんとしてはそうするしかないよね。という部分もあり。ただ、オナニーにならない範囲でもう少し「戦えた」かもとは感じました。おもちゃのナイフが出てきて、それで刺したら斃れてしまったあとの(正確ではないが)「刺したらダメだよ」というあたりのセリフとか。の、説得力とかかな。普通に聴くと意味わからんのですけども、客が「ああ。そらあかんな」と納得してしまうような、なんか発話、体がそこにあったら、もう一つこの世界が重層化したんじゃないかとか。澤村さんも、とってもよかったですね。あのいやらしいセコい感じが。一度だけ共演させてもらってて、ほんとナイスガイなんです。ただ、なんかもう一枚、皮、脱げるんちゃうんか?とは思うんです。筋トレとかせんでもええんです彼は。そのまんまでうわーっていけば素敵なやつなんですけどね…あ、もちろん個人の感想です。僕の喜一郎さんのベストアクトは枚方ノート(ピラカタだったかも)の、知的障害を持つ子供の役。あれはもうほんまにか美しかった。なんか客からどう見られるかとかじゃなく、役と俳優ががっぷり四つに組んでる感じだったからだと思う。全員に言及してると朝になってしまうのでここらでやめますが何しろ俳優さんがとても素敵でした。
それが全て。で終わっものいいのですがあ、一点不満があるとすれば、ラスト前の小暗転。これは僕は田辺剛の息継ぎだ。と、もちろん後からかんがえてなんですが、そうおもったのです。
これも「点」でなく「線」で見てるからなのでしょうが、田辺作品に「寓話」が戻ってきたと思ったのです。正確には戻ってきたわけじゃなくて、たまたま僕が拝見したタイミングがそうなのですが。

で、感覚的な言葉になりますが、やっぱり、描き切って欲しい。すごくワクワクして見てたから。どうするねんと。どうなるねんと。寓話の世界に潜って潜って、最後、息が切れて息継ぎに水面に上がってしまった。そんな印象です。一言で言うと「描き切ってくれ、最後まで」と願うのです。その寓話、双方が地となり図となって出現している寓話に、田辺さんの筆でとどめを刺して欲しかった。ワクワクしながら読み進めた絵本の最後の2、3ページが抜け落ちていた。そんな感じです。ではどうすればいいかはわかりません。二人が湿地に足を踏み入れ「バシャーン」のあと、格闘シーンがあってお互いに差し合って倒れたらいいかって、そうじゃないとは思います。僕にはわかんないです。でもそこ落とし前つけてよ。と。描き切ってよ。と。

最後、二つの身体が斃れている。僕の記憶も確かじゃないですし、僕の見た会だけかもしれないですが、二つの体とも、頭が中央を向いていて、うつ伏せで、1メートル強の距離が離れてるんですね。例えば互いにあのナイフで差し合って果てたならもっと距離は近いだろうしあるいは重なるように、または抱き合うように斃れていたかもしれない。または片方が中央に倒れていてもう片方は段差に体をかける形で、つまり、やっつけたけど、そこから立ち去ろうとする時に息絶えたとか。になるかもしれない。
あのラストだと「二つの斃れた体がある」という記号に感じるのです。もちろんそういう終わり方はあっていい。この芝居全部が、深海に流れ着いた自転車の残骸や死体が、なんかの潮の流れで偶然にそういう配置になった結果(誰の脳裏になのかはわかんないけど)ふと立ち上った物語であった。というような。
でも、そうじゃないものを田辺剛には求めたい。僕は。
「お客の想像力を信じる。委ねる」というと反論できないけれど、大袈裟にいうとネグレクトじゃないかと。それこそ田辺剛の仕事じゃないかと。そして田辺さんにしかできない仕事じゃないかと。

なんか偉そうですね。でもまあ、見に行ける人は見に行ってください。

素敵な舞台ですから。

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