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劇団速度のこと

先週土曜日、劇団速度の公演を拝見してきました。感想を書きたいなぁと思っていたのですが、ちょっと時間も取れずにタイミング外した形ですが…。

いやとても「芯を食ってた」と感じたのです。何しろ美術がもう超絶かっこいい。あと呼吸の演出もすっげーエッジが立って届くのに奇をてらってる感も、「それだけに頼りすぎ(お腹いっぱい)」感もなく。これは本当にすごいなぁと。思ったんです。

で僕の一番の関心は、
なぜそんなにも芯食ってる(私がやられてる)作品にも関わらず、寝てしまったのか?ということなんです。
はい。正直申しまして途中で結構寝てたんです。それはなんでやろうか?と。

「ちょっと集中して声を(そして言葉を)聴きたいなぁ」とおもって目をつぶったのが悪かったのか。
いや「寝ること=悪いこと」でもないんだろうけれども。

明らかに「芯を食っていた」。が。その芯になんもなかった。
と、私は感じたということだろうと思うんです。アボガドの種がない感じ。コア、核。

開演前に舞台上でご挨拶されてその場でもおっしゃっていたし、また挟み込まれていたいわゆる「当日パンフレット」にも明記されているのだけれども、素材として扱った三好十郎の戯曲を
1)「読めばわかることは本作に一切登場しません」
(この「登場しない」とはいかなることかということも考え所。つまりそれが「登場する」とされている場はどこなのか?舞台上?観客の頭の中?両者は違うものなのか?違がわないけれど違うと仮定するべきものなのか?…)
2)「原作が三好十郎である必要もありません」
(必要というのは誰にとっての?また必要のある無しと別の問題として事実原作者は三好十郎である。その作品を体験したものにとって「三好である必要がない」というテーゼはどういう意味を持つのか?)
3)「目の前で瞬間においている出来事を見ること、それだけがこの作品の前提(中略)…それだけが重要です」

ふむ。上の番号は私が適当に振っただけで意味はない。またその文章に書かれていることがその三点に要約されるという意味でもなくって単に話を進めやすくするために振ったのです。ご容赦を。

3)に関しては腑に落ちるというか、私本当にその「目の前で起こってること」には打ちのめされたんです。かっこよかった。ちょっと話それますが美術館で映像インスタレーションで見てたらなんか何回もループしてみてたかもって想像します。うん。多分そこに僕とこの作品の問題(とあえて呼ぶならば)があるんだな。でも寝たんですね。結構キップ良くというか、潔くというか「うん。これは寝てもいい奴」と思った記憶がある。

…四日ほど寝かしたのにうまくまとまる気がしないのでもう「まとめる」気なく乱暴に進めますね。
乱暴に、すごく乱暴にいいますと

「俳優があと100回ずつ台本読んでもう一回やったら、バケモンみたいな作品になる」と僕は確信しているんです。
前提としてまず「バケモン」ってのは「田中遊にとって」ってことですねもちろん。私がムッチャクチャ見てみたい、感動するだろう作品ってことです。つまり今回の演出意図とは違ってるだろうと。また「確信」と言ったってこれは原作も読んでなければ俳優さんひとりひとりも知らないわけですから、あてにはなりません。それでもなんかそう確信してるんですね。なぜと言われてもうまく答えられませんが。

演出家が1)2)のようなことを言っている以上、俳優さんたちの作品への関わり方に難癖をつけようってことじゃないんです。「俳優かくあるべし」というのは僕なりにもちろんありますが、見ず知らずの他の俳優さんにそれを押し付けようとするほど面の皮厚くない。実際俳優さんも美しかったしね。声に色気と説得力がある人が多かったかなぁ。「声として商品になるセリフの言い方」ができる人が少なくなかった。

今時あるのかわからないけれど僕の年代の「脅迫状」の定番といえば新聞や雑誌の切り抜きをコラージュしてメッセージを作るって奴だったんです。(若い人はもう分かんないのか?今でもそういう犯罪サスペンスドラマでは使われてんのかしら?)その三好十郎さんの台本にハサミをジョキジョキと入れて、「さ」という文字と「よ」「う」「な」「ら」という文字を別の紙に貼り付けて「さようなら」という意味に読めるペーパーを作るという作業(これじゃ脅迫文じゃないけれど)まぁそういう作業をしたいのだよ。するのだよ。元の新聞が何日の新聞で、それぞれどんな記事から切り抜いてきたかってのは問題じゃないよ。というのが1)2)の言いたいことだと思うんですけれども。(多分ここまでは間違ってないと思う)そうして記号として抜き出された「セリフ」に対して俳優がどう向き合うのか?

俳優が「記号」を記号として出力することを引き受けることは、すなわち俳優の否定だと僕は感じて、そしてコンセントを引き抜くように寝たんだろう。
ああ、だからやっぱり「俳優かくあるべし」なんだな。はずかしい…。でもそれはまぁいいじゃないですか。僕が思って僕が客席で寝る分には。ね。

記号を記号として出力するのなら、パソコンに音声喋らせてもいいし、字幕で出してもいい。音響出しでもいいよ。
俳優の作業は(牧歌的に単純化していうと)「記号」として台本に書かれている文字列(僕らの場合大概日本語、ひらがな、漢字、カタカナの列)から「声」を生み出すこと。「生み出す」というのが大層すぎると思われるなら、きっとその人は俳優の仕事について舐めてる。と僕は思う。

言葉には「それが生み出される過程、運動」がある。その言葉がどれほどみすぼらしくても、話者の真意を全く表現できていなくても「言葉を語った(あるいは沈黙した)」という運動がそこにはある。俳優の仕事は「記号」からその運動を復元することだ。それは端的にでっち上げかもしれないし、それでいい。ただの曲がった白い棒キレにしか見えない「恐竜の爪の化石」からフルカラーの恐竜をでっち上げること。例えば。

脅迫状に貼られた一文字一文字は、記号的に機能するように文脈から切断されている。「みのしろきんをよういしろ」そのメッセージに観客は震撼するかもしれない。でもそれは切り取る人=演出家構成の仕事だ。じゃ、俳優の仕事は?「み」の字が政治面から切り抜いた「み」なのか?ラテ欄から切り抜いたのか?「景気は足踏み」から切り取った「み」なのか、「みんなでゴミ拾い」の「み」なのか?そこに強度があってこそ「コラージュ」たり得る。そこに強度がなければ「コラージュに見せかけて、実は上から書いてます」ってことだ。と感じる。

俳優が原作をそれこそそれだけで成立するような精度密度で練習し(いや、すごい理想論ですけどね)、それが完成した上で、その中からセリフを抜粋して、構成し直したならコラージュでしょうよ。でもそうじゃないのが伝わったので僕には。
いやこれもただ僕の感じ方です。大概、良い作品は鏡に感じるものですから、当日の僕がスカスカだったからスカスカに見えた、というのが真相である可能性は大いにあります。

「コラージュする手つき」だけが眼前に提示された。その「手つき」は実に実に実に!(三回書いたった)センスがいい?違うな。「芯食ってる」僕にとって。だった。んだけど。その手つきだけがあって実際にはコラージュじゃない。そういう時間だったんだと思います僕にとっては。

京都の人にだけわかる例えをしますと新京極の四条通りから入ってすぐにロンドン焼きの店舗があるじゃないですか?ガチャンガチャン言いながら回ってる奴。あそこのシステムはすごい格好良くて見入っちゃったんですけど、良く見ると、何も焼いてない。空回りしてる感じ。そんなことだったように思うのです。
繰り返しですが、俳優さんたちのアプローチが間違ってる!と文句言いたいわけではなく。というのも多分そういう風に演出されたんだろうと思うからですが…。私自身が三好十郎をまったく知らないのにいうのもどうかと思いますが

2)「原作が三好十郎である必要もありません」

が成立するためには三好さんがその言葉を戯曲に記したという「運動」について、またその戯曲の中の登場人物たちの「声」について、相当突き詰めないといけない。「三好十郎とはなんであるか?」ということが未確定ではそのテーゼは成り立たない。
「スポーツマンである必要はない」という言明は「スポーツマンの定義」が必要です。「こういう人がスポーツマンなのだ」ということですね。それがないと底が抜けちゃうでしょ。何言ってるかわからない。
もちろん演出家の野村さんは相当読み込まれているでしょう。まさか山勘でテキスト抜いてきてるとも思えない(いやそうかもしれないけれど、やってできないことないかもしれないけれど、ちょっと心細すぎて、想像できない)ただ、舞台上に彼はいなかった。

最後にもう一度書くけれど、俳優それぞれがあと100回台本読んでやったらバケモンみたいな作品になると思う。


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