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全国学生演劇祭

自身の出身である京都産業大学の劇団ACTが参加していた「学生演劇祭」を見に行ったのは何年前だろう?多分あれは「全国」ではなくて「京都学生演劇祭」であったのだろうかしら。あの時は木屋町の元立誠小学校で、今回はなんとロームシアター!!すごいなあ。沢さんも橋本さんも男前だなぁと思った。
私が大学の時に演劇部でお芝居を始めたのは四半世紀まえ。大学三回生ぐらいの時の周りの携帯電話(もちろんスマートフォンじゃないですよ。それが発明されるずっと前です)保有率が多分3〜5割程度じゃなかったかしら?ポケベル持ってる人も少なくなかった。私が携帯電話会社と契約したのは大学卒業して1、2年してからだと思う。SNSでもyoutubeでも見ようと思えば見られるし、露出し発信しようと思えばできる今、学生の皆さんはどういうメンタリティーでモチベーションで「舞台演劇」をやってらっしゃるのだろう?興味は尽きない。そうだ、確か前回見に行った時にはちょうと高校のクラス劇に指導に入ってた時期重なっていて、舞台上のお芝居や俳優さんたちを「過去の自分の姿」としてみるか「(指導してきた)高校生たちの未来」として捉えるかによって随分と評価がブレるよなぁ…なんて思っていました。「高校生たちの数年後の未来」として考えるなら「ああ、あんなこともできるようになった!視野が広くなって、表現も豊かになり、技術的にも達者になって…」と、まあ感動することしきりなのですが、「自分が大学生だった頃」と重ねて見てしまうと「だからダメなんだよ」とか「稽古せいや」とか、不満だらけになってしまう。これはもう仕方がないのです。僕みたいな人間は時間が流れると自動的に過去の思い出を美化していきますから、ありもしなかった「演劇にすごく打ち込んでいた自分」とかとの比較をしてしまうのですから手に負えません。でもそんな「うそっこのありもしなかった理想像としての大学生時代の私」と比較しても、「あぁ。かっこいいなぁ」と思えた三作品でした。他のも見れたらよかったんだけどなあ…。
第4回全国学生演劇祭

Aブロック
fooork(名古屋学芸大学)

今日拝見した三作品の中では一番エネルギッシュだったと思う。純粋なカロリー計算でそうなんじゃないかしら?大きく体を動かして声もとても大きかった。各大学、各団体での発表会や、各地方での大会でどんな会場でされているのかわかんないけれど、おそらく今回が一番「ちゃんとした」会場だったのではないかしら?(違うのかもしれない。)「学生演劇の魅力」ってなんだろうか?と考えた時に、まぁやっぱり「若さ」だろうと。それは「エネルギー」だし「声の大きさ」だし「野放図な体力消費」だったり。客席が全部桟敷とか、舞台と客席が近かったり、とにかく狭い会場ならばそれ(エネルギーがもうダイレクトに、いやむしろ増幅されて伝わってくる。ライブハウスでバンドみるみたく。で、その点を考えると「ロームでできた」のはすごいし、素敵だけども、(プロセじゃないにせよ)「学生劇団の良さ」を殺すしつらえではあるわけだ。「エネルギーの高さ」がそのまま「テンションの高さ」にイコールにならない。狭い会場だったら十分に「緊張感」のあるパフォーマンスも、今回のように舞台と客席に距離的、心理的余裕があるところでは必ずしもそうはならないこと。がわかってくれば、またもっと違うやり方が見えてくるかもしれない。いやまぁしかし、そこに持ってきてもうなんというか「知るか!」と。「自分らの今一番美味しいところを出すだけっす!」的なですね。「素材を大事にする板さん」みたいな。なんというかこの人たちは無謀なのではなくてものすご計算してここねらったんやろうなぁ…と思いました。
これは参加のどの団体もそうかもしれないのですが、45分という縛りはきっと「普段と違うルール」なのでしょう。普段の本公演では90〜110分とかやるんじゃないのかなぁ?(あ、これも本当に当てずっぽうだ。僕らの時はそうだったけど、どうなんだろう?最近45分ぐらいの二本立てとかなの?かしら?)
で、そうなったときに「どんなことしよっか?」ってなると思うんですよね。つまり「普段やってること、やりたいことのダイジェスト、濃縮版」にするのか?それとも「ちがう、45分にフィットするフォーマット」の模索にチャレンジするのか?fooorkはどっちだったのだろう?なにせ「学生劇団のお芝居見た!」ってなれた作品でした。「エネルギーの高さ」と、「いろんな景色を見せてやろう」という意気込みみたいなのものかしら。


stereotype(立命館大学)

客席に向かって演者が直接話しかけてくるような箇所が何個かある作りでしたね。冒頭では「これはコントですから笑ってください」「意味とか考えちゃヤですよ」というようなキャプションのようなセリフがあり、最後では「コントなんやから笑えや!」ってなぜか怒られる。という。うーん理不尽(笑)なんかそういうところがいいなあと思いました。結局「コントをしたいのかどうか」も多分よくわからんのですよね。(ってわかったようなことを言うと怒られそうですが)僕は少なくともそうでした。「自分が何を台本に何を書こうとして、どんな舞台を作りたいのか」よくわかってなかった。程度の差はあれ今もまぁそうだとも言えると思います。稽古をして作品を作り上げていく中で「ああ、この作品は、こう言うことなんだ!」と言うことが見えてくる、気づかされる。そう行った視点でみると実に「素直な」というか「飾らない、等身大の」故に「切実な」演劇であったと言えるんじゃないかと思いました。俳優さんたちもみんな多分「芝居するの好きな」兄ちゃんたちなんだろうなと感じました。彼らの中で「笑われる」/「笑わす」ということが未分化であることと、そのことへの居心地の悪さみたいなものがよりなんと言うか【「無意味」だけど「無意味」って言われるとそれはなんか抵抗あるなぁ】という幼さみたいなものの芯を作り、それをどうセンス良い笑いでラッピングするか?というようなトライアルだったのかなあ。もったいないっていうか、いやほんと芝居すりゃいいのにと思った。多分みんな達者だから。「笑わそう」としなくったって、「笑われるような人物(対象)」を的確に演じればいい。いや無論お笑い芸人さんになりたいのなら話は全く違うのだろうけれど


劇団しろちゃん(北海道大学 他)

一番普通に見られて、一番よかった。「高校演劇」というものがイメージとして僕にはあって、それがまっすぐ直線上に延長された「大学演劇」という印象。(これも45分縛りの中で何を選択するか?って所でこれを選んだと言うことなのだろうけれど)配役のバランスがとてもよかった。関西弁の先輩役の方と、日光アレルギーの彼と、その他写真部(サークル?だよね?)のメンバーがなんかよかった。偶然なのかオーディションとかなのかわかんないけど。前の二つが、あまり会話や関係性、感情のやりとりに重きを置いた作品でなかったからよけいにだろうけれど「ああ、ちゃんとやりとりしている。何か(言葉、感情、意味、ステータス)が流通している」と言う光景が素敵に思えた。でもこれは実は本当にそうで、「人と話が通じてる」って奇跡なんですよね。ましてや「心が通いあう」とか。普通そうじゃない。多分彼らの大学でもそうじゃない。このお芝居のようには人間関係は成り立ってない。いやごく部分的にそう言う風に組成されているパートもあるかもしれないけれど、日常の多くの割合の時間を「無関係」だったり「機械的」だったりする関係の中で過ごしてる。
「自分がしゃべている内容を他者が理解してくれて、それに返答をしてくれる」というのは実は演劇のように何回も何回も稽古してようやくスムーズにできることなんじゃないだろうか。稽古場で、俳優同士で、あるいは演出家と、演技や作品について「あーだこーだ」と会話する中で磨かれる作品だなぁと思いました。それって素敵なことだなぁと思いました。アラを挙げるとすればもちょっと俳優の「登退場」に気を配れたら…もっともっと良くなる気がしました。あ、あと音照のきっかけのツメとか…。「アラ」が見えるのは完成度が高かったからでしょうね。


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