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デモで可視化されること

京阪中之島駅から地上に出るともう雨が降り始めていた。僕はリュックから真っ赤な折り畳み傘を出して歩き出した。「うつぼ公園」という字面はTwitterなどで大阪で行われるデモの情報で何度も見ていたけれど実際に足を運ぶのは初めてだ。「靭公演」Googleマップで検索するとなんだか難しい漢字が出てくる。本当にこれであってるんだろうか?と不安になりながら、小雨の中、現地へ向かった。
僕の想像よりも随分と大勢の人が集まっていた。元気のいい人たちは国会前に行ってるだろうし、しょんぼりしてんじゃないかなぁ…と想像をしていたのだが、いやいやなんの。でもすぐに「これは「京都」と「大阪」の比較でそう感じただけなのだ」と気づくことになった。たしかに「歩いている人たち」も多い。けれど「歩いていない人」も勿論京都の比にはならないぐらい大勢だ。京都よりも随分たくさんの人数の人間が歩いているのを、京都よりも随分たくさんの人数の人間が「関係なく」見送っていた。比率は多分変わらない。その行列の中、相変わらず僕は一人で、話しかける人もなく、連帯する気にもなれず、浮かない顔をして、でも共にミナミまで歩いたのだった。

私がデモにいく事にことによって、あなたが「頭数」になることによって可視化されることがある。というのは事実だと僕は思っている。「私たちは怒っている。困っている。」ということ。そう思っている人間がこの社会の中にある程度の数いるのだということが、不幸にも(苦笑)そのデモに出くわした人や、あるいは報道で知った人に見えるようになる。それは確かなのだろう。
ただ、その「社会への可視化」と同じかあるいはそれ以上に重要な「可視化」がデモにはあると感じている。
それは「自分への可視化」だ。その行列に加わって、その中からで無いと見えない景色がある。
その渦中でしか考えられないことがある。数メーターおきに拡声器を持った人や車がいてシュプレヒコールをする。ナイーブな僕はその都度選択を迫られる。
「アベはやめろ」は同意できても
「松井も維新も同罪だ!」というのには手続き無しには乗れない。
辺野古の話は全く不勉強なので、申し訳ないがペンディングさせて欲しい。
「アメリカはシリアへの攻撃をやめろ!」に関しては、ちょっと脊髄反射だろと。も少し考えない?と思う。
前後のシュプレヒコールの主導権争いみたいなのとかも、失笑してしまう。でもちらっと周りを見てみると僕と同じように浮かない顔して一人で黙って歩いている人は結構いるのだ。
自分が「社会の一員であること」とか「他人と意見がぴったり全て合うなんてことはないこと」とか「でもすり合わせてうまいことやっていきたいこと」とか「是々非々という声は常に白黒はっきりした声に負けること」や「大きな声を上げること、即ち旗色を鮮明にすること」なんだとか…。

デモの中にいて、シュプレヒコールを浴びながら、行列の外側からの目線を受けて、警察に守られながら歩いていく。その時にしか考えられないこと、感じられないことがあります。少なくとも僕には。

何かの正解が見えるということではありません。第一義的に「デモで可視化される」と言われるものと同じで「課題があるということ」が見えるということです。
自分の中に、自分の思想に、どう言う課題があるか、ということがデモに行くと可視化される。人もいる。という話です。

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