二口+広田「この道は…」/劇団飛び道具「緑の花」

週末二つお芝居を見ました。どちらも縁の深い方達の舞台です。
金曜日に拝見したのが広田ゆうみさんと二口大学さんが出演してらっしゃった「この道はいつか来た道」作/別役実

お二人の演技が随分と「洋式的」というか「形式的」といいますか。そっちに振れて来ているなぁと感じました。
そのことに関して僕はいやな感じはしていなくて、むしろある意味で「正しい変化」のように思っている所があります。
一昨年劇団新感線を拝見した時に強く思ったことですけれど、私自身の「予定調和」と言うことに対しての感じ方が随分と変わって来ているということがあります。以前は舞台でなにかしら「予定調和」の匂いというか気配がするだけでうんざりしたし、裏切られたような気持ちになったものですが、「この歳になると」という自分の加齢のせいにしていいと思うんですけど、「予定が調和する」なんてことは、なんて貴重なことなんだろうかと。それが観客と舞台上とであるならなおさら。現実には予定が調和することなんて滅多には無いわけです。予測の立ちづらい現実をふらふらと頼りなく進んでいく日々です。一寸先は闇ですし、他人の心はわかりません。「予測は立たず、未来は不確定で、他者との調和なんて不可能にみえる」そのような複雑な現実を、演劇では更に時間的にも空間的にも限定するわけです。「二時間で」「劇場の中で」というように。舞台の演劇ってそう言う「限定された現実」です。そのなかで、わざわざ当然のことである「予測の立たなさ、未来の不確定さ、調和の不可能性」をことさら表現することって、意味があるんだろうか?というような感覚です。「世の中そんなにシンプルじゃないよ」というような当たり前のことを、「時間的空間的に限定した現実」のなかで表明することに、そんなに意味があると思え無くなって来ていると言うことだと思うんですが。

勧善懲悪のシンプルなストーリーとか「なんで舞台で見なきゃならんのだ?!」と昔は思ってましたけど。舞台以外のどこで見れるかって話です。
いうまでもありませんが「この道は…」は勧善懲悪のストーリではありません。えー。何が言いたいのかといいますと、
「演劇を見たい観客がいる」
「そこで演劇がなされる」
という根底の「予定調和」が演劇にはあるぞと。それはとっても大切なことだろうと思うのです。繰り返しになりますが現実には「予定が調和する」事自体、滅多に無いことだろうと思うから。「やる側」「見る側」が調和するんです。それこそが「劇的」ということの本質かもしれないと思うのです。

だから、そこで行われる「お芝居」自体は、観客に向かって表明(表現)されるものでなくても構わない。むしろ観客に面と向かっていくよりは別の方向へと向かうものを、「やる側」と「見る側」が一緒になって見送るというか、送り出すというか。「共有する」というようなことですかね。

奉納でいいと思うんです。
二口さんがどうかはわかりませんが、ゆうみさんは、本当に別役実先生のことを、そしてその作品を大切にしてらっしゃって、「尊ぶ」というようなつき合い方なのかなぁと想像もします。

「捧げる」という言葉だとどうにも感傷的、感情的になりますが、「方向」としてそれは(説明、紹介と言う意味でも、出来事としても)「観客に向かう」ものではなく、「作品へ」「別役さんへ」向かっているように見えたのです。なぜかというとお二人の演技が冒頭でかいたように「洋式的」「形式的」に振れて感じたものですから。感覚的に言うと「上」の方向ですね。
強調したいのは「それ(演劇が奉納的であること)自体がすばらしい」ということではなく、「そのような(奉納としての演劇)を受容し、楽しんでいる観客がそこにいた」ということ、これが同時にあったから、良かったと感じたのです。それこそが素晴らしいと思うんです。そのような「やる側」と「見る側」の予定調和の場所が。


昨日は飛び道具さんの「緑の花」を拝見してきました。こちらは僕はあまり気に食いませんでした。印象としては
「ワインドアップで大きく大きく振りかぶって、チェンジアップが来た」ような、肩すかしをくらったようでした。
舞台は日本ではないどこかの国、おそらくは発展途上のその国のその村の周りには地雷が埋まっているようです。その村に「拉致されてきた」日本人たち。そこからお話が始まりました。日本での日常という「文脈」がはぎ取られた彼らはその村で「地雷の撤去」作業に従事しながら、生活するうちに、村で一定の地位を認められていくようです。一番の芯となる縦糸は「人の命とはなんだろうか?」と言うことだったろうと思います。その為タイトルである「緑の花」が言葉を話すというような荒業までくりだされます。
「日本人」「日常生活」と言う文脈が削ぎ落とされる。webの世界に例えるならばCSSが取っ払われ、コードがむき出しになる。「会社員」とか「失業者」とか「生命保険」とか「選挙」とかから切り離されて、ただ、むき出しの「人間」として配置された登場人物が、更にこれでもかと、「植物(緑の花)」と対話させられる。花は「種を増やすことがすべてだ」という。では「人間が生きる」「生きた」ということは何なのか?
ことさら今自分に現前している「私の生」ではなくて、他者のしかも終わってしまった生は、なんなのか?(主人公の夫婦は過去に息子を病気で無くしている。息子は生まれつきの病気、健康の問題が快癒すること無く12歳(だったか?)で亡くなっている)

その意味は?いや、その彼の「12年間の生」を「意味」に還元する手続き自体に瑕疵はないか?彼は「意味の為」に生きたのか?意味が無ければ生きてはいけないのか?展開するなら「意味が無ければ死んではならぬのか?」

登場人物たちの尽力によって、「地雷撤去の手続きマニュアル」が翻訳され、村人たちも加わり地雷を撤去していく。しかし不幸にもそれに加わっていた現地の少年が地雷を踏んでしまい、片足を失くす。その少年と、過去に亡くした息子を重ね合わせるようにして、主人公夫婦の妻は、その少年を献身的に看病する。
その妻の台詞に以下のようなものがあった。正確ではありません。すいません。相当違うと思います。
「(その片足を無くして、寝込んでいる少年の目は)子犬のような目だ。あの目を人間の目にしなくてはならない」
病に苦しむ一人の人間の目を評して、「犬の目だ」と断じる不遜さや、それを(神ならぬ)自分自身の手によって「人にしなくてはならない、(できる)」という独善性。むき出しの「人間」のゴリッとしたものはここに確かにあった気はする。つまり妻は「元気の無くなった植物」を「正しい、あるべき姿に変容させる」ようにして、その少年を看病しているのだ。本人にその自覚は無いのかもしれない。そのことが恐ろしいのだけれど。松葉杖は朝顔の蔓を巻き付ける支柱のようなものかもしれない。当然のことながら人間には動物のように植物のように、子犬のように死ぬ権利もある。「足無しになったのなら、早く死んだ方がいい」という「生死観」に、真っ向から自分の「生死観」をぶつけてごり押しする、闘う姿は、「(むき出しの、文脈からはなれた)人間らしさ」ということだろうかとも感じた。

ただ、その先というか、幕切れの辺りがどうにも脱力してしまったのだ。その少年は結局命を落とす。地雷で片足を失う事故から一年後のことである。そのお葬式(?)かなにかで夫婦の夫の方が、その少年の家族と口論になったのだという。原因を聞かれた夫は答える。
その少年の家族が『足を無くした人間なのだから(役に立たないのだし)、早く死んでおけば良かったのに」という発言があったのだと。そして
「一人の人間が、それでも一年生きたんだから。それを無かったことにはできない(全く正確でない)」
と。

これはなんなのだろう?
いや実際、自分を顧みてそれ以上のことが言えるのかどうか怪しいものだ。これ以上どう言えばいいのだろうか?
ただし、この厚みのヒューマニズムなら、舞台は日本で良かろう。なぜ舞台を海外にしたのか?なぜ登場人物たちが誘拐されなければならなかったのか?緑の花がしゃべらなくても良かろうと感じる。海外の村に誘拐され、人間と言う存在がむき出しにされ、「(人間ではない原理で存在する)植物」との「生命とは何なのか?」という問答を通して、こぼれでて来るテーゼが「無かったことにはできない」程度のことなのかしら。むろん「台詞」以外の行間に、様々なものがあるわけです。だから台本がどうということだけではないと思います。その「行間」が(あるのだとして)僕には伝わらなかったなぁということを勿体なく思いました。

客演させてもらった時にも思ったけれど、大内さんが肌で感じてきた「外国」と、その他のメンバーの感覚が大分違うんじゃなかろうか。その意味(言葉が違うと言うこと、文化、文脈、前提が違うと言うこと。その中で生活する肌感覚など)では山口さんとかがもっと稽古場で仕事できたんじゃないかなぁとか(稽古場見てないので知らんと適当なことを書いてます。すいません)

海外まで出かけていって和食を食ったような感じでしょうか。いや、やっぱり「大きく振りかぶってチェンジアップ投げられた」感じ、の方が近かったです。






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