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Fジャパン論

初めて出会ったのはおそらく17、8年前なのだと思う。当時僕が所属していた劇団衛星の公演に彼が出演することになったのだ。それを機に彼は劇団衛星に入団することになる。僕は彼のことが嫌いだった。すぐに彼のような人間を引っ張ってくる蓮行さんも嫌いだった。何よりも、舞台演劇に出たこともないし勉強したこともないし、そもそも芝居に興味もなさそうなこの小デブのぶきっちょさんが舞台上で1番輝いてお客さんにうけて、受け入れられていることが許せなかった。僕の稽古場と舞台上での努力は、彼の先天性の間の悪さと、おもしろハプニングをなぜか惹きつける磁力によって打ち砕かれ、踏みにじられた。僕の人生の中であれほど激しく嫉妬した事は無いと思う。「炊飯器を竹刀で叩く」というパフォーマンスは、最初期から今に至るまで彼が折々行なっている、いわば彼のトレードマークだ。それに顕著なように彼は「奇をてらっている」だけだ。と、当初、僕はそう思っていた。しかし付き合いが長くなるとそうではないことがわかってくる。彼は「奇を〈てらってる〉」のではなかった。「奇」だったのだ。彼の存在自体がトリッキーなのだ。〈てらう〉必要がない。
そう気がつくと、彼への憎悪は薄らいでいった。やがて仲良くなりその関係は今でも続いている。僕は彼を信用する。彼には哲学があるから。演出家も、作家も、照明家も、作曲家も、美術家も、俳優も。哲学が無いとダメだ。話にならない。哲学とは「なんで?」と問うことに他ならない。「なんでこのセリフなんだろう?」「なんでこの音なんだろう?」それが集まったところ。あるいは逆にその源泉に「なんで私はここに立つのか?なぜここでで声を発するのか?」「なぜ照明家なぞしておるのか?」という問いが存在し、さらに彼方の「なぜ私は私なのか」「世界とは何か」「存在するとはどういうことか」とつながっている。
哲学は「自分に対しての居心地の悪さ」に端を発する。自分は自分であるのに、自分でしかあり得ぬのに、拭い去れず感じる「座りの悪さ」。彼こそ本当にその「自分に対して違和感、収まりの悪さ」に取り憑かれた者ではないかと感じる。だから彼の芝居には哲学がある。だから僕は信用している。
誤解がないように付け加えると、僕は「なぜFジャパンが、Fジャパンなのか?」ということに関して寸毫の興味もない。原理的にいって「本人が本人である意味」に、他人はどんな形であれアクセスしようがない。だからどんだけ悩もうが問おうがそれ自体が美しいわけではない。それどころか大体うっとおしい。こっちはどうでもいいのに勝手に苦しんでるのを見せつけられるのは、一義的に迷惑な話だ。
哲学は美しくない。どころか往往にして迷惑だ。しかしそれがないと話にならない。どういうことか?それはきっと椎茸の原木のようなものじゃないだろうか?芸術が生まれるタネとなるような、素敵なアイデア、神託のようなひらめき、センス。でもそれだけだと「美しく」はならない。
自分の在り方を問い続け、悩み続ける身体が「原木」としてそこにあり、神託=菌が着床して初めて、そこに椎茸みたいな信じられない形の「美しさ」が生えてくるのではないだろうか。

今日から始まる彼と合田さんの二人芝居には期待をしている。もう一度、僕は彼のことを嫌いになるかもしれない。それほどの「美しさ」が現象しえる、その可能性がある舞台だ、ということは断言しておく。

なんでこういう文章を芝居の本番の当日にアップしているのか?タイミング遅いじゃないか。これも嫉妬のなせる技か。(ごめん)

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