「ブラックホールのそこ」「新内山」(ヤンキー台本とメギツネ台本)

週末にコンブリ団の「ブラックホールのそこ」と、演劇計画Ⅱ-戯曲創作- 柳沼昭徳 作・演出『新・内山』を見てきました。

「ブラックホールのそこ」は、前回公演「ガイドブック」の「線」に相当する物が「ブラックホール」ということで、おおざっぱに言うと構造は変わっていなかったと感じました。なんていうかその「線」しかり「ブラックホール(というよりは事象の地平線とかですかね)」もう、本当にドストライクなんです。前回拝見したときも確か書いた気がするのですが。
「文系男子の羨望の対象=ロマンとしての理系」といったら良いんでしょうか。あ。これ僕の場合です。はしぐちさんは知りません。でもたぶんそーじゃないのかとか、またゆっくりお話しする機会があれば聞いてみたい所です。
僕は高校が文系の二類だったので、数学あんまり勉強できなかったのですが数列とか集合とか「やってみたいー」ってずっと思ってて、大学の一般教養でとろうとして、いきなりレベルが違って、そこでストップしちゃったのですよね…。今、ちょっとフォローしてるのは森田真生さん。一度京大のどっかに話を聞きに行きましたが、もうすごかったです。いやわかんないんですよ僕数学って。でも、なんかその凄さは、ぐっと来ちゃうんですね。なもんで数学できないくせに「数学関係」の本とか結構持ってたりします。「素数の音楽」ってタイトルの本とか。つまりそのわからなさ含めて「ロマン」なんですね。僕にとっては。なんだか適当な話ばかりで恐縮ですが、第三舞台、コウガミさんの「朝日のような…」か、そこら辺りの台本で
「人間も原子でできておるわけだから、有限の原子が、今後何度も何度も組み合わされるなか、今の僕。そして君の『原子の組み合わせ』が決して再現されないとは言い切れない。むしろ宇宙の中のそれが有限であるならば、無限に近くその「組み合わさり解体され」を繰り返される中で、再び「僕」「君」という物が出来上がり出会うことは、大いに考えられる。」というよな、あれ?なんだったけ?台本読んだだけなんですよね。(怒られるな)リ、インカネーションでしょ?違う?
(本当に怒られる)それで「わぁー!」って持ってかれちゃったんですよね、大学の芝居し始めの時に演劇部のボックスで台本読んでて。全くの当てずっぽうですけど橋口さんもその口じゃないかなぁと。いうたら演劇の台本という「the人文科学」がですね、自然科学に補強され得るというか。その出会いにしびれるというか…。
「ブラックホールのそこ」の話ですね、ええ。そのなんて言うのだろう?今回の「ブラックホール」「事象の地平線」。前回の「線(線分)」「次元」というようなもの。は、「モチーフ」?じゃないですよね。テーマじゃないし。メタファーでもない。
「引き合いに出してくるもの」
ってことですね。これが先行してしまうのはやっぱり良くないと、そう感じました。実際はどうかは勿論存じ上げません。それは「自然科学」でそうであるように、「発見される」ものか、あるいは「仮説」を立てて、それが正しいことが証明されて行くのが気持ちいいのだろうと思うのです。

「ブラックホールのそこ」を証明する為に「スーパーのレジうちの女性の葛藤」や「孤独死」や「母娘」を配するのでは順序が逆だと。繰り返しですが実際の所はわかりません。でもそう感じたぐらいに「母娘」「会社の先輩と後輩と、使えない後輩」「レジうちの女の子」が軽く薄く感じました。まるで「ブラックホールの存在」を証明する為に創作され配されたように。そうなるとこれは小保方さんみたいなことなのか…。
今回の「清掃員」のような「人間が生きる次元とは異なる次元に存在する、人間みたいなキャラクター」は前回もいましたが、そこが魅力的になるのかならんのか?というのは俳優の力だけじゃなくて、構造の部分がどうなってるかによる所が大きいだろうなぁと感じます。ちょっと今回の清掃員は割食ってるんじゃないかしら?つまり俳優にとったら「どう闘ったらいいのか」というのがものすごく悩ましい役だったろうと思います。
前回もでしたが、コンブリ団は
、その「引き合いに出してくるもの」がバッチリセンスのハマってわくわくする。けど「俳優さんの戦ってる具合」に肩透かし。というパターンです。端的に言うと俳優さんにもっと戦って欲しいし、戦わせて欲しい。清掃員はとりわけ難しいだろうけど。それを見たい。「戦っている俳優さん」を見るために劇場に足を運んでるのだな僕は。と改めてかんじました。「妖怪」とか「軟体動物」みたいな台本だろうなぁと。やったことないのでわかりませんが。とらえどころというか体重の掛け方、ツボみたいなものが、ありそでない、掴んだと思たら逃げてるような。また今回のことを言えば、一ヶ月近く前に三重で公演をし、間が空いての伊丹公演だったので、俳優さんそれぞれの「戦い方」が、変質していたのかもしれませんね。初見の客がわかるような「戦い」でなく、また違った次元でそれぞれ戦ってらっしゃったのかも・・・。これはわかりませんが。

「戦っている俳優」と言う観点で言えば「新内山」の柳沼さんの台本は、俳優に戦いを求めます。というか「喧嘩腰」ですよね。このセリフを渡されてしまうと、もう俳優としては戦わざるをえない。と、これもやらせてもらってないので勝手な想像です。いわずもがな。
どちらがいいかわかりませんが、台本にも二種類あって、「お前、このセリフいえんのか?!あ!」って、喧嘩売ってくる柳沼さんの台本みたいなのもあれば、「あなた色に染めてくださいよ」って顔して、でもいざ発話したら、どうにも収まらず、腕からすり抜けてくよなはしぐちさんの台本みたいなのもある。ってことでしょうね。ヤンキー台本とメギツネ台本。

相手がヤンキーでもメギツネでも、いずれにせよ俳優は戦うべきだと思います。その意味で柳沼さんのに出演していた若い俳優さんとかは実に良い経験になったのではないだろうかと思います。戦う相手がはっきりと見えているのだから。昨今のコンテンポラリーダンスがしんどいのは敵であったはずのトラディショナルが、もう具体的でない人たちが多くなってきたからでしょうが、小劇場の俳優なんてとっくの昔からそういう状況にあるわけです。「敵」ってのは壁とか、到達点とか目標って言い換えてもいいのですが、それは、俳優個人が設定せんことには始まりません。俳優全員がその設定をして、出力する。その総和が芝居を動かす。「戦う相手がハナから台本に書かれてる」つまり、台本の中にすでに「ある人物が棲んでいる」。その人物に勝たなくてはならない。誰がやっても同じならわたしという俳優がいる意味がない。

(ヌルっと新内山の話に入っている)
最終、僕の中に一番残っているのが冒頭サワくんが言ってた(携帯の着信音なんだろね)「良かちんちん」である。というのは、やはり、あんまり良いことではない気がしています。冗談ではなくそうなんです。「どんな芝居やったっけ・・・?」て思いをはせると、毎回「良かチンチン」って頭に浮かぶ。
風呂敷広げ過ぎたんじゃないのかな。
というのが率直な感想です。「圧」はやっぱりあるんですね。柳沼さんの芝居って。テキストはもちろん生演奏も相当きてた。で、ありながら「よかちんちん」なのは「接着面積が広くなってその圧が分散された」ってこと意外に考えにくい。僕も見終わって「大きな何かを見落としている気」がしてならぬし、それが手(演出)によるものだとしても、果たしてこれが「成功」であったのか?
例え)
図書館である長編小説上下巻の上巻を借りてきて読みました。(長いお芝居で、途中で15分ほど休憩が入ったのです)その後、上巻を返却して下巻を借りた。下巻を読み始めると何カ所も落丁がある。50〜60ページが抜け落ちてる。130〜145ページも抜けている。そんな具合に10ページ単位で抜け落ちてるのを何カ所も何カ所も読み飛ばして最後まで読み切った。そんな印象です。テレビの連続ドラマのダイジェスト版をナレーション抜きで見てるような。頭の中でつなげようとするし、それは愉悦でもあるんだけれど、なんというか、お芝居の世界がドンドンと遠くへ離れて行くんですね。それが「不快か」といわれるとそうでもなく案外「気持ちよかった」りもするので、難しいんですが…。またその「落丁」が最後主人公内山を飲み込んでしまった。というか内山自体が消えてしまった。というのは、なんか腑に落ちる部分があり。こっちも「ブラックホールのそこ」ってタイトルで良かったんじゃないか。とか。あ、はしぐちさんのやってた役が内山って名前なら、コンブリ団が「新内山」でもよかったのか。

世界が落丁しぼろぼろと崩れてなくなって行き、遠ざかる。それ自体は気持ちよいものだったのだけれども、それで最後、手元に「良かチンチン」が残った。
釈然とはしないなぁ。やはり。



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