「不断の努力」

不断の努力が無ければ組織票なんて維持できるわけないんです。挨拶、声かけ、気配り、盆暮れの付け届け…。支持者たち、ってのはつまり僕の隣に住んでるあのおばちゃんとか、何なら義理の妹とか。つまり「僕」と同じ立場の一市民のですね「不断の努力」があればこそ自民党や公明党の議員さんたちはあそこに沢山いるのです。政治って「正しさ」ではなくて「めんどくささを引き受けること」のような気がしています。少なくとも自民党党員や創価学会の人たちはそういう「不断の努力」をして来たんだろうと思うんですね。これ前にもブログで書いたかもしれないんですが、もう十年近く前ですが、実家の近くで火事がありました。その時に消防がくる前からキリキリ動いてたのは創価学会のおばちゃんたちでした。「あそこのアパートにはおじいちゃんが一人で寝てる!」とか、もう詳しいんです、近所のことに。日々から独居老人のところに「元気かい?」って見に行ってるんですもの。でね。選挙になればそのおじいとかのアパートにバンを寄せて投票所まで連れて行くわけです。でもそれはもう「有りやな」と僕は思たんです。だって僕できないもの、近所の独居老人に声かけとか。

おっきな問題が起こったときだけウワッと騒いでも、そして仮にそれが「正しくても」。「不断の努力」にはかなわない。

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。

というのはむしろ「憲法が国民に補償する自由も権利も、不断の努力にかかったら壊されちゃうぜ」という警句だったのだとおもうわけです。

めんどくささを引き受ける。その意味で僕はデモに出るのだと思います。
月一の団地の周りの掃除に出るように(出てないけど→奥さんが出てる)
毎朝、町内の小学生たちの集団登校を学校まで届けるように(してないけど→奥さんがしてる)
来月の組運動会でテントを立てるように(仕事で、できるかどうか微妙だけど)

うまく言えないけれど、そこで重要なのは「めんどくささ」のようなきがしています。いくら広まって拡散してもRetweetやシェアは「めんどくさくない」ので、うまくない気がしています。

とはいえ
「楽しさを共有した集団」よりも「苦しさを共有した集団」の方が団結力が高まるから、苦しんでこうぜ!というようなことはですね。ばからしい。(心理的には間違いない気もしますが)

だからせいぜいデモは楽しく有るべきだと思うんです。ただ「めんどくさいなぁー」と思いながら参加することにも、意味は有るんだろうと思うんです。

なにしろ「不断の努力」です。途切れないように。ちょっぴりずつ。できる範囲で、細く長く。

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