分裂する

この二日間はお芝居を沢山見ました。
高校二年生のクラス劇を7本と劇団衛星と地点と。

つらくない。ので、きっと僕はお芝居見るのは好きです。僕の場合それはなんというか「客席にいる自分がいくつもの違う自分に引き裂かれていく快感」のようなものなのかもしれません。

クラス劇であれば、もとより「指導」で入ってるわけですから「今のもっとああした方がよく見えるよなぁ」だとか言うことも考えますし、又同時に「うわぁー!むっちゃ稽古してるわこの人たち」と感動したり、「全員、やる気も多分センスもあるのに、なんか歯車あってないのね」と口惜しい思いをしたりしながらも、単純にその役のその台詞に心を打たれたりですね。

劇団衛星であれば、目の前のお芝居からゴリっとした『異物感』を感じながら、同時にその異物感に「なつかしさ」を感じもするわけです。在籍していたところですから、ええ。なんといえばいいのかしらその異物感というのは…。
口に入れていつまでも残っちゃう感じです。ただホルモン系の「噛み切れない」というものではなくて、どちらかというと「アサリ食べたらジャリっていった」というようなタイプの異物感なんですけど、もっとなんというか大きいのですね。砂利じゃなくて小石とか、そういう「けったいさ」「気持ち悪さ」なんですけども。初めて見る俳優さんの演技に興味を引かれている自分と、また「異物感」を堪能している自分と、懐かしがっている自分と。に客席で分裂していくんです。

地点の場合であれば、去年、初めてアンダースローに来てみたお芝居を見ている時の感覚を思い出している自分と、アートコンプレックスでのカモメを見た時の自分と、琵琶湖ホールでのカモメを見たときの自分と、カモメを本で読んだときの自分と、とかとか…。

文脈、コンテクストは、作品自体にもあり、見ている側の私にももちろんありまして、それは「体調がよい」とか「Tシャツが汗でぬれてて気持ち悪い」とかそう言うことも含めて。「チェーホフ」の「かもめ」ってなことになれば、僕は不真面目でちゃんと勉強(っていわないけれど)してないけど、僕なんかよりも、はるかに重層のコンテクストの上でこの作品を受けとれるお客さんもいらっしゃる。

文脈は例えばライトに例えることができる、かしら?無理かしら?
ある文脈(ライト、光源)からそのお芝居に光りを当てた時に見えるものと、又違う場所にある文脈から照射されたそのお芝居とは、そりゃずいぶん違う。同じ一つのお芝居を見ながら「嬉しくなったり」「悲しくなったり」同時にしている。「つまらんなぁ」と思いながらも同時に「なんか面白いね」と思っている。「拍手喝采を心の中で送っている自分」と「だまされないぜと思っている自分」に分裂してしまう。

それがきっとおっかなくってスリリングで癖になってるんだと思います。

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