「現状維持」は上り坂にいるか下り坂にいるかで意味が違う。

今朝のこと。
「建設的」という言葉は、ぼくもよく使うし好きな言葉だったんだけども、この歳になってようやくその内に「兎にも角にも今のこのボロ家は潰して新しいもの作ろうぜ」という乱暴さが潜んでいることに気がついた。「現状、在るもの」について「建設的な話をしよう」と言ってくる人はそこを更地にすることを前提としている。
若者は時間の流れと共にほっといても前進上昇する。中年になり「峠を越え」たらば、今度は反対に刻々と沈んでいく。
上り坂にいるものと、下り坂にいるもので「現状維持」という言葉の意味は当然違う。
ほっといても進歩する若者にとって現状維持は「停滞」で「怠惰」で「損失」であるし、
滅んで行くものにとってそれは「延長」で「努力」で「保全、保護」だろう。
現状維持は上り行くものに取っては「退廃的」だが、沈み行くものにとっては「建設的」なのだ。(方向としては)
憲法のことを私たちが考える時には、本来きっとそれに先立って、
【日本と言う国が「若者」なのか、「中年以降」なのか】
ということについて、議論しコンセンサスを造設しなくてはならないのだと思う。
またそれは「41歳の田中遊の中に、昨日生まれた細胞が、田中遊の寿命について考える」ことと同じで、とてもとても難しい仕事だともおもう。僕が生まれるずっと前から日本と言う国はあり、そこにぽっと生まれ出て来た僕が日本の寿命について「はて?」と考えてみても、なかなかおぼつかない。しかし地球にも寿命がある。日本にも寿命がある。憲法にも寿命がある。それだけは確かだ。

日本について、憲法のことも、原発のことも、経済のことも、「成長だ」「取り戻すのだ」「変化が必要だ!」という人たちは、「上り坂」にいるつもりでおるのだろうし、「若者思考」「進歩主義」なのだろう。
でもそういいながら、その人たちのなかに混じっている「老人」のことが気になる。ほんの少し「座して死を待つぐらいなら…」という、いうたら老人のやけっぱちの心情が混じっているのを感じる。

また逆に「現状維持」を求め「進歩」「成長」よりも、「ほどほどに朽ちて行く」という「老境思考」の人たちの中にも
「老いの美学」だとか「田舎暮らしの素敵さ」のような、ルサンチマンを感じる。(田舎暮らしがルサンチマンだと言うことではない。ごめんなさい)

いずれにせよ生命体は「新陳代謝」が止まった時に死ぬ。だから日本と言う国がこれからも存続して行くのであれば、それは「若者思想」によって「老境思想」が追い出されるということだ。
「我々は変われる!」「我々は成長、進歩できる!」と信じる人々によって動かされる運動体のみ「生命」を維持できる。当たり前のことですね。

末期がん患者の最期を思うように「日本と言う国のQuality of Life」を考えている。もっとそうはっきりと言うべきなんだと思う。いいかえると

「日本と言うレジーム」から脱却について

同時に目を向けて、言葉をつぶやいて行かないと、「触らないでくれ、このままがいいんだよ」っていうのはただの老人のわがままなのかもしれない。

うん。勉強しよう。

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