当事者

ピエールとリュース。稽古場での最後の通し稽古でした。ようやく体のギアと台詞とがかみ合い始める。けれど、その事が結果的に「届かない」ことを鮮明に、手触りのあるものにしてしまう。

戦場に身を置いたもの



今の私の距離

その絶望的な距離に、うっかり絶望している間に、案外間近に来てるんじゃないのか?戦争が。
というようなことが、劇場を後にするお客さんの肩口、後ろから、ぬっと顔を出すような。そんな公演になれば僕はいいなぁと思っていて、(これに関しては演出や企画主体がどう考えてるのか?すりあわせたわけではない。ただの僕の個人的な判断なわけだ)その為に僕の役が(可能性として)足しになることは少なくない。いやむしろ相当に僕にかかっている。というぐらいの過剰な意識が、なおのこと「戦争って、そら無茶ですよ。体に落とせるわけないですやん」と、腰砕けを助長する。

「戦争をするかしないか(加担するか、逃げ出すか)」
ではなくて
「戦場で如何にふるまうか」
なのです。僕が演じる役が抱えている問いは。(!!!)

前にも書きましたが、相当こえている台詞があります。
「熱狂もなく。…ただ、戦争を憎みながら、兵士として各人がなすべきことをする」
ナリでするっと読むと、「ただ」というのが「戦争を憎みながら」にかかっちゃって。つまり「ただ、戦争を憎みながら」ですね。台本の字面もそういう感じですが…
でもきっとそうじゃない。「ただ」がかかってるのは、それ以降の全て。つまり「ただ」「戦争を憎みながら、兵士として各人がなすべきことをする」ということだろうと思っています。


「戦争を憎みながら、兵士として各人がなすべきことをする」
戦争を憎み続けつつも、同時に兵士として適正な行動をして日々を過ごす。しなくちゃいけない。そりゃそうなんだろうなと思う。そしてそんなもの「人間のいる環境じゃない」と思う。

「国が戦争するのは権利として認めらる」という人がいる。そうだろうと思う。でもそういう人だとて「戦争をしたいっ」と思っているかと言うとそんなわけはない。誰だって(というのは言い過ぎだとしても、多くの人が)「大人数での殺し合い」なんてしたくはない。にもかかわらず、これまでも、今この時も「戦争」は起こっている。世界のあちらこちらが戦争状態にある。

だから「油断すると、戦争は起こる」のです。その程度の危機感は持っておかねばと、今回のお芝居に関わらせていただく中で思いました。

ほおっておいて、ぼーっとしてたら「戦争は起こるかもしれない」んですね。それはあるひどこかに邪悪で戦争好きで人々の煽動のうまい「誰か」が現れるからではない。それは
「私」と「私たち」との違いから、避けがたく生まれてくるのでしょう。
人間性は「個人」に帰属します。「ヒト」が集まり、「人々」に「共同体」に「国家」になったとき、それぞれに付帯するのは「人間性」ではありません。無理矢理言うなら「国性」です。「日本国性」とかですね。

僕たちが、自分自身の細胞の一つ一つに思いを馳せることの無いのと同じように、「国家」が「国民一人一人」の都合を勘案することはありません。
僕たちが、どこかに手をぶつけて、「あ、血が出た。(けどまぁ明日には治ってら)」というのと、同じシステムで国家は国民一人一人の気持ちや事情や「人間性」を扱います。

良い悪いではなくて、そらそうなんです。僕らがそうなんですから。伸びた爪を爪切りで切りますけれど、その切られた爪がどうなるかなんて考慮しませんもの。
主体の規模(大きさ、多さ)の問題なんです。いいかえると、主体の範囲をどう定めるかということですね。
「人間性」よりも「国民性」を重視する。という人がいたとして、僕はその人をうまく説得したりすることは出来ないように思います。それこそ、本当に個人の内面の自由だから。いいも悪いもない。
ましてや僕たちは一人では生きられない。絆だとか。家族だとか。地域の共同体だとか。町内会だとか。PTAだとか。

そう考えると個人に帰属する「人間性」なんてものが、そもそも空疎なんです。仙人だとかね、横井庄一さんだとかね。正味「一人で生きてる」人のみ「人間性」を語るべきで、われわれ、社会の中で活かされ生かされている市民の「人間性」なんて、お題目でしかないのかもしれません。

まとまりようのないことをブログに書き始めた自分を呪いつつ、寝ます。


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