「戯式」の重量 — なぜラジカセ一人芝居なのか?

戯式vol.2は、9/30大阪、10/4京都。です。が、震えるぐらいご予約が少ないのです。
もうぜひぜひいらして下さい。本当に。

http://bit.ly/gishiki
↑公演ページ↑

以下ちょっと今後のこともあるので「戯式」について、その根っこについてまとまった文章を書きました。
ので。

演劇人がある公演を評して「軽い」「重い」という言い方をすることがあります。もちろんこれはその芝居の内容が「重厚である」「軽妙である」というようなことをさしている場合もありますが、むしろそれよりもその演劇の「ポータビリティ」への言及であるケースが多くあります。「重い」とは「持ち運び」しづらいもの。「軽い」はその逆です。複数会場での公演や再演をするとなった場合、私たちはその都度「多くのモノ」と移動しなければなりません。沢山の出演者、スタッフ、舞台のセット、衣装小道具、音響照明の機材…。その意味において「一人芝居」が「軽い演目」であることは言うまでもありません。その気になれば俳優の身一つでそこに「劇世界」を立ち上げることも可能です。「劇世界を立ち上げる」ということに関しては、むしろ「そこにその人しかいない」ことが非常に有利に働きます。(俳優以外の)周りの一切の物事が観客のイマジネーションに委ねらるわけで、そして個人個人の想像力には際限というものがないからです。一人芝居では実に簡単にスピーディーに劇世界が立ち上がります。ですので、そういった「極力、余計なものを排したスタイル」が一人芝居の王道であると言えるのではないでしょうか。
しかしながら、その王道に敢えて「ラジカセ」を、しかも四台(ぐらい)も持ち込むということは一体何を意味するか?悪くするとこれは「一人芝居の良さ」を打ち消し、あまつさえ、持ち運ばなきゃならない荷物まで重たくなるという目も当てられない事態を招きかねません。しかしながらその危険を犯しても、手にしうる功。それは「一人芝居の最大の欠陥」を補うことができるかもしれないと考えています。
「一人芝居の欠陥」とは何か。(実に当たり前のことですが)それは「他者」が存在しないことです。演劇である限り常に観客が他者としてその場にいることは確かです。ただ舞台上で繰り広げられる「劇世界」に他者が存在することができない。もちろん概念やイメージ、空想としてはあり得ますし、多くの一人芝居がそういうフォーマットの演技(あたかもそこに相手がいるかのように話しかけ、その話を聞く)で構成されています。しかしそういった「イメージ」「概念」が、その劇空間内で唯一物理的な存在である「一人芝居をしている俳優」に拮抗できるか?というと、これは全く役に立たないと言わざるを得ません。劇空間内の俳優を、その内側で批評するものが欠落しているのです。舞台上の役者を疑い、異議を唱えるものが舞台上にありません。これは仕方のないことです。しかしその結果多くの一人芝居が、その舞台上で立ち現れる劇世界を「イージな」ものにし、厚み深みのない視野狭窄の、つまり内容の面でも「軽い芝居」になってしまいがちだということは確かに意識しなくてはなりません。
一人芝居におけるイマジネーションの軽やかな飛翔。それを担保し且つ重厚で複雑な世界を提示すること。
「戯式」で成し遂げたいことの土台がこれです。一人の俳優と同じ空間におかれたラジカセからは音声が流れます。決して音質が良いとは言えないその音声が再生されているのは「今、この場所」ですが、音声自体は違う時間空間で録音されたものです。具体的には「一ヶ月前の自宅の机の前」や「二週間前の交差点の真ん中」や…。戯式ではそれらの「過去の記録」と「今の俳優の身体、声」とそして「観客の想像力」。その三つが組み合わさり編まれて「戯式の世界」が出現します。それは実にいびつな手触り、立体感を持っています。実時間と劇世界の時間の混在、そのコラージュによって描かれる模様。騙し絵のような。あるいはまるでどこでもドアとタイムマシンがいくつもおかれた小さな空間のそれほど長くない(小一時間ぐらい)の時間…
正直者の会は「四次元演劇」というものを標榜しています。一人芝居である「戯式」も、複数人での「戯声(たわごえ)」も、その目指す所は同じ、つまるところは上記のような奇妙な世界を作り出すことです。時間的にも空間的にも離れたものがあらぬ所で繋がり癒着し接合される。とてもSFめいていますが、その「ワームホール」の一つとしてラジカセは舞台上に置かれます。俳優の「今ここ」とはまた違う、別の地平にも紐づけられている。だから、俳優の存在を相対化することができるのです。ラジカセたちは決してただの「音響装置」ではなく、それらは「他者」としても在り得るのです。
ラジカセの一人芝居を始めたのは二十歳台の半ば過ぎです。それから僕は、ラジカセ達のことを「彼ら」と言ったり、「赤いヒト」「大きいヒト」と呼んだり、本番前には「頑張ろうなぁ」と話しかけたりします。(不気味ですね)しかし、それは長年使ってきた道具に対する愛着だけではなく、僕を脅かし、励まし、裏切り、そして共に進んでくれる「他者」に対しての自然な振舞いだったのか。と、ここまで書いて来て納得がいった次第です。

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