閲覧注意!(むちゃくちゃ長文です)

「自分のタイムライン」って思ってる程「自分の」じゃないこと

先にタイムリミットを決める。
この件に関してはここから1時間です。14時時点で終了。延長無し。
というのも、一昨日来、延々この辺りのことに思考が引っ張られてしまって、他のことがうまく進まないのです。困ったものです。

おそらく皆さんのタイムラインもそうなんでしょうが僕の所にも、子供達の死体の写真とかが流れてくるわけです。目に付くと。見ちゃうと。
昨日から僕は小屋入りだったわけですが、もう朝から(というかその二つ前のよるからぐらいかな)頭を離れないわけです。そらそうですね。「もし娘が」って考えますから。どんな親御さんでもそうでしょうけど。
でもですね。小屋入りな訳です。そして芝居の方は、まぁ言うたらちょっと遅れ気味でしてですね(苦笑)今からテコを四方八方からいれて、アーしてこーやって…というような案をいろいろと練らんといかんのですが、もうどうにも脳みそがそっちで埋まっちって、回らんのです。
「参ったなぁ…」と。

で、昨日の朝に「悲惨な写真をSNSに平然とシェアする人間に戦争を語る資格はない」というような記事がまた回って来まして。
タイトルからして口調はちょっとあれですけれども、まぁ言うてはる事はわからんことはないなぁ、なんて思いながら。

ただやっぱり僕は「演劇」の人なので、台詞、口調が気になるわけです。「何を言ったか」よりも「どういったのか?」あるいは「何を言わなかったのか?」の方が、「決定的である」というような現場にいますもので。

だから、言うてはる事はわからんでもないが、ちょっとその物言いはどうだろうかと。
(ね。「ものいい」とか「口調」とか「態度」とか、わかんないでしょ、字面だけですから。会って話すと大体ええ人ですのにね。それがおっかないわけですが)

具体的な提案としては「シェアする相手に「見るか」「見ないか」の選択権を与えるべきで、だから写真がいきなりは出ないようにして、「閲覧注意」とかかけばいいんでないの?」というようなことだと僕は読んだのです。
で、それ自体は「まぁ良い線じゃないか」と。中とってという意味では。
ただそれが「マナー」だとか「他人に対する想像力」だとか「表現ってこうでしょ?」ということになると、もう引っかかりまくるんですね。ええ。おそらく書いたご本人もそれは重々認識してらっしゃると存じますが、「~~すべきだ」という「言葉遣い」は裏であれオモテであれ「正義」を語る語調なんです。

「正義だから、真実だから、これは万人が見るべきなんだ!」と言わんばかりに、陳列してくれるな。見たくない人だっているさそりゃ。見たくても見たら飯食えなくなったりだとか、下手したら会社休んじゃう人とかもいるかもよ?そう言う人ら含めてさ。いろんな人が、集まって、一度に一緒の方向向けなくても、全体的に見れば、前に進めるような、そんな方法ってほかにあるんじゃないかしら?たとえば「閲覧注意とか」」
ぐらいの口調なら。多分ぼくもシェアしたんじゃないだろうかと思うんですね。あ?どうだろう?わかんないけど。

「そりゃないぜ!ちょっと想像力を働かせろよ。免疫の無いヤツだっているんだからさ。その乱暴さや思慮の浅さって、戦争しちゃうのと同じ感じだぜ」
となると、もうコメント欄にですね「いえいえあなたはそうおっしゃいますがね」って、カラミにいくコメント書きにいってたかもです。※当該記事は上に書いた感じじゃないですよ。※

そのどっちでもないものに、どうにもモヤモヤしながら現場に入るとですね。
(これはホントどうなんでしょうね。)
忘れちゃってるんです。もう芝居のことだけです。竹ち代さんとシーン作ってその後の稽古でも、ガザのガの字も浮かびません。で、稽古終わって家帰って一服して、
「さぁ、明日の準備だぞ」と。
でもその前に芝居の宣伝もかねてちょっとsns見とくかと。いやこれがダメなんです。本当に。自業自得です。朝見た「閲覧注意っていうちょっとした手間を惜しまないでよ」というような意見へのカウンターの記事がですね、つまり
「そうって自主規制って進んでくんだよ。現に原爆記念館では…」というようなことだとかが、ずらずらずらっと。

そっからもう、また、芝居のことは脳から追い出されちゃってですね。

「まいったな…」

です。

<><><><><><><><><><><>

僕の話をします。
僕はおっかながりですし、「閲覧注意」ってかいてあるものは基本見ません。ごめんなさい。それでも10回に一回ぐらいはみるかもしれない。でもそれは、あるいは3,11だったり、すごく余裕のある時だったり。今回はといえば言えば小屋入り前夜、前々夜というようなタイミングですから、まぁ回避していたはずです。

ただ。まぁ見ました。
で、いろいろと考えました。週末の公演のことを考えられないくらいに(その程度ですが)
これは、どうなんでしょうね。正直参ってるし困ってるんですが、意味がないことだとは思いたくない(当たり前ですが)

結局、ショッキングな写真なんかを、

「僕みたいな見たくない人からすれば」
→「右から左へ」シェアする様な人

は、「僕みたいな人にこそ届けようとしてそうしている」という想像も成り立つわけです。これは「閲覧注意って書こうよ」って立場の「いろんな受け手がいるっていう想像力」の逆のことですね。
「いろんな送り手がいるって言う想像力」です。

まさかコミュニケーションが「一方通行」だなんてわけはないですからね。それはSNSであれ、演劇の舞台であれ、実際の生活であれ同じだと、僕は思っています。

物や、情報は、それが移動する「方向」があるでしょう。言葉には「送り手」と「受け手」がいます。ただ、それを「コミュニケーション」と呼ぶのであれば、それは双方に「想像力」が働いた状態でのことです。

「言葉(物、情報)」が移動する。そのタイミングで「送り手は受取手のことを想像する」「受け手は送り手のことを想像する」

そう言うもんだと思うんです。

僕みたいに「今忙しいから見たくないんだ」というような人に、「違うって、ヤバいんやって、as soon asなんやってば」という意図で持って、どかっとですね。いきなり丸出しでシェアしてはるのかもしれんなぁと。

<><><><><><><

おし。30分。引き返す。もう無理矢理まとめる。まとまらなくても、しばらくこのことは頭から分離する。

手間がかかるが土台から。

1)
「ワンクッション入れようよ」って意見の人も
「真実をより多くの人が見るべきだ」って意見の人も
「そんな光景は見たくない」ということでは一致している。

2)
「見たくないもの」を、だから「見ないようにする」ことではなくて、この地上から「無くする」ことを欲している。
またその為には「見たくないもの」を見ること、目を背けないことが極めて重要だ。
とこの辺りまでも大丈夫だろう。

3)
でも、「耐性、免疫」はひとそれぞれだし、そう言う人への想像力や思いやりのようなもの。もう一つ言えば、そう言う人達に、(時間を書けて)その「見たくない事実」に向き合ってもらう為の、手間、一工夫はあったほうがいいんでないか?(それはもう戦略的なことだろうね)
→逆にそれがないと、意図しない結果、つまり「二度と向き合わない」ということになるかもしれないじゃないか?

4)
また、その一歩手前でそもそも、「見たくないから見ない」という主張する人が仮にいても、それで尊重されてしかるべきだ。友だちにはなれないかもしれないが、その人の「見ない自由」を他人(達)が剥奪して良い道理は無い。原則として。


ふー。

で。なんだったけ?
そう。この状況で何が言えるかということですね。

うん。何にも言えないですね。あーあ。

なぜかというと。「その発言する場所」が定かでないからです。「場所」です。
「何何すべき」でも「こうした方がみんな気持ちよくね?」でもいいです。
「正義」であれ「マナー」「ルール」「心構え」「暗黙の了解」「粋な計らい」なんでもいいです。
それらには「場所」が必要です。
イスラエルとパレスチナに共通の「正義」がないように、僕が住んでる「醍醐南団地7棟のマナー」と「西陣ファクトリーガーデンのマナー」は違います。

一昔前の「BBS」とか「2ちゃんねる」とかならまだその「場所性」はかろうじてあるんでしょうし、そこでの「掟」とかもまだ、作りやすいのかもしれません。(ゴメンナサイ全くの想像です。2チャンネルとか人生10回ぐらいしか足を踏み入れたことがありません。)でもその「掟」も、やはり砂上の楼閣であろうとは思います。地面が、土が無いから。もう少し時間が何年も立って「地面、土」に変わるような、なにか「インターネット上の、そういうもの」を僕たちの多くがうまく想起できるようになれば、また状況は変わってくるのかもしれませんね。サーバーってこと?
う、いかん。まとめる。

つまり僕はだいたい「僕のタイムライン」で考えるちゃうんです。
自分の、他人の、そこでの振舞いの適否をです。
これは本当に浅はかなんですね。まぁ慣れてないのでしょうがないのですが。

例えば僕はLINEは「家族」だけしか使ってません。京都の僕と、僕の父母。フィリピンと東京にいる妹二人と、僕の奥さん。
だから僕にとってLINEは「実家の食卓」です。

FACEBOOKはですね。やり始めた当初ちょっと勢いついちゃって多くの人と友だちになったんですが、落ち着きを取り戻したあとは「プライベートの付き合いがある人」と「プライベートは薄いけれど、遠方にいらっしゃって、その方の情報を知りたい方、またその方に連絡をしたくなる可能性が高い方」に限って「お友達」にならせてもらっています。これは感覚としては「外環状線の醍醐駅あたり」ぐらいですかね。うん。「団地の前の生活道路」じゃない。ウチから歩いて15分ぐらいの、アルプラザ(スーパー)やヤマダ電機の入ったビルが建ってて、バスターミナルが近くにあるような。

で、TWITTERはですね。一時期本当にこりゃいかんと思って、そのタコツボ具合が、で通りで言えば「京都駅前」ぐらいまで行こうと思ってですね。橋下市長だとか、お隣の国が嫌いな人とか、原発を止めるなんて感情的なこと言ってる人達の目を覚まさなきゃって思ってる経済学者さんとかね。うん。フォローしたんです。
もう一週間もしたらtwitter見なくなりました(笑)
で、2ヶ月程放置して、こりゃいかんなぁと思って、ちょっと撤退して(自分と意見の違う人、自分の聞きたくもない情報を言う人、自分の嫌いな言葉づかいをする人たちをフォローから外した)来て今どれぐらいだろう?「三条京阪」?まぁいい。

なんせですね。
僕も、誰でも、それぞれのタイムライン(って呼び方が正しい?わからない)は、それぞれの仕様にカスタムされています。意図的にカスタムも出来ますし、自然にそうなってることもある。

だから僕としてはFacebookの発言は「醍醐の駅前」で発言してる気になってるし、そこで目にするものは「醍醐の駅前」で見るようなものとして受け取っているんですね。いつのまにか。しらずに。浅はかですいません。でもそう言う人もすくなくないのでは?と思うのです。

当然のことながら僕が「醍醐の駅前」で話したつもりの記事が、表示される「誰か」のタイムラインは「家のベランダ」かもしれない。あるいは「国会議事堂前」かもしれない。
Facebookの友だちが178人の僕のタイムラインと
同じく友だちが700人いる人のタイムライン、
また50人の人のタイムラインでは

「場所」が違う。

んです。
(いや178って多すぎるよ。そんなに友だちはいない僕にはきっと。うん。考えようちゃんと)
端的に言うと「僕のタイムライン」と「あなたのタイムライン」は全く別のものだってことですね。
私たちは「snsでのマナーとして」とか「sns上では」とか言い合って、あたかも「同じこと」について話しあってる気になっています(そのことが多いように思います。業界の人とかはまた違うんでしょうが。)でも、それぞれが「sns」という名前で呼んでいるものは、ちっとも「同じこと」じゃ無いんですね。
雨、飴、とか。


twitterでも何でもそうなんでしょうが、snsは自分で自分の好みに「場所」を設定手できる。
「醍醐の駅前」でしゃべってるつもりの僕の記事を
「ニューヨークのウォール街」で読んでるというような、
なんかそんな異次元なんです。

でそもそも、インターネットの利便性というのはその「土、土地」からはがれることができると言う「異次元」によるものです。遠くの人と交流できたりですよね。

ってことはつまり、そこは
「団地の前の道を10歩下ったら、竹下通りで、更に5メータ進むとカオサン通りで角っこの赤いネオンの角を曲がったら、ガザ」
と言うような、無理矢理例えるならそう言う空間なのでしょう。
そのような空間で
「マナー」「正義」とかを語ることが可能か?というと、ちょっと僕には想像がつきません。すくなくとも本番前の今ではない。


「異次元でのルール設定」自体が無理筋である上に、さらにその「異次元」も人によって違う。
僕には僕のそういう異次元空間(snsの設定。友だち申請)があり、
SNSに触れている誰しもが、その人独特の「異次元空間」を持っている。
それぞれは『自分の異次元空間」を前提に話してるが、そもそも「同じ場所で会話」を出来ていないのですねぇ。

厄介なのは原理として、「発信する側は、それがどういうシチュエーションで閲覧されるのか、わからない」ということです。そこに一定の制限を設けるという意味で「閲覧注意」は有効かもしれません。ただ「発言する方が醍醐の駅前で話してるつもりであろうが、それが幼稚園で閲覧される可能性もあるし、ガザで開かれる可能性だってある→場所がどんなとこであっても(というのが言い過ぎなら、なるべく沢山のケースを抑えられる形での)マナー、ルールを考えるべきなのか?」と言うとですね。
どうだろう?風呂屋の湯船の中でも、葬式でも通用するマナーとか。


まいりました。

えーと。一時間越えました。まとまりませんでした。でもさようなら。

なにしろ、そういう「慣れない場所」に、それでも「ある程度みんなが機嫌良くやってけるルール」を打ち立てようとすることに関しては、これは応援します。目眩がするよな作業でしょうが、もしもし、世界がもう少しケンケンせずに、戦争がなくなるというようなことがあるのであれば、きっとそれは、この「snsの世界の中に何となくのルールを作っていこうよ」というようなことからのような気がするからです。
それぐらい、違っていていろんな思惑のいろんな人がいる中で、どうしたら、なるべくみんな機嫌良く居られるか?

それを諦めずに探っていこうとする作業。
それは僕はとても崇高なことだと思うのです。
で、それは今回の「snsで、もうしんどくなるような写真をいきなりあげるのってどうでしょうね?」ということに、それぞれがどう考えてどう発進して、どう動いていくのか?ということも、一つの礎石になるはずだと。そう直感したものですから、長くなりました。

その礎石を作る作業は、僕には今出来ません。
日曜月曜本番なのです。
手を合わせます。
平和を。

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