台詞を覚える作業は「穿かれる」という感覚に近い。それには実に勇気がいるということ。

今日は「私の化石」というシーンの稽古でした。

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俳優が台詞を覚えるという作業は「穿かれる」ということに似ていると思っている。
このことを考える時にはいつも唐十郎さんを思い出すのだけれど、彼がこういうことをどこかで書いていたのか、あるいは彼の何かの作品を僕が勝手にこのことと結びつけちゃったのか良く思い出せない。

例えるならストッキングだ。僕はあまり穿く機会が無いけれど…、でも大丈夫。俳優は「穿く方」ではなくて、「穿かれる」ストッキングの方だから。
ストッキングをぐいっとのばしながら足がその中へ入っていくようにして、台詞は俳優の体の中に入ってくる。台詞は「他者の言葉」です。言葉は「思想」であり「感性」ですね。「精神」と言ってもいい。他人の精神が、自分の身体の中にぐいぐいと入って来る。それはちょうどストッキングに足が突っ込まれるようして、私を体を押し広げ、形を矯正する。皮膚ははち切れそうになり、背骨は押されてぐにゃりと曲げられる。

「他人の思想、感性」が、目から耳から私の体の中に入り込んで、私という在り方、組成を変えてしまう。それは激しい痛みを伴います。また同時にそれは快感でもあります。まずもって「恐い」ことであるには違いない。だって他人の精神が体に入って自分を変えちゃうわけですから。ホラーです。変身しちゃうんです。何かに。何かはわからないんですまだ。だから台詞を覚えるには勇気がいるんです。

どこまで自分の身体や精神をオープンにできるのか?他者の精神を、自分の中に受け入れることができるのか?どうでしょうね。でも結局それは「他者を肯定すること、受け入れること」なんです。これってあれですね。インプロ(即興劇)の基本のマインドです。
「台詞を覚える作業」と、(台詞が決まっていない)即興劇の基礎とは、同じことなんです。おもしろいですね。インプロと少し違うのは、「自分の身体を器として解放する」ぐらいのオープンさが求められるということでしょうか。もちろんそれとて程度問題ですが。
例えばパスカード(通行証)を想起します。
「インプロ」での他者に渡されるパス(通行証)は「そこ」までなんですね。「そこ」っていうのは「私の周り」。中央に「私エリア」があってその周りに「そこ」エリアがある。インプロのパスでは、他者は「私」の周りにいることは許されている。体を触ってもok。けれど「私の中」には入れない。「台詞のあるお芝居」で他者に配られるパスは「私の中」も通行可なんです。筋書きがないはずのインプロを見ていて、なのに感じることの多い「予定調和」はここに起因していると僕は考えています。つまりインプロの現場では「身体の内側から自分の細胞の組み合わせが変えられてしまう」ということはまず志向されていないんですね。まぁあたりまえなんです。「他人に穿かれる」なんて本当に恐怖体験ですし、なによりインプロには「ありのままの自分でいい」というのがまずあるわけですし。逆に言うとそこ(「私」というエリア)だけは死守する空気があったり・・・

ただそうは言いながら、
「他者を受け入れる。他者から影響を受け、自らが変化していくことを(恐れず,むしろ)楽しむ」ということもインプロの本質だったりします。そしてそれは台詞のあるお芝居もそうですね。その事によってのみ「体が生き生き」とし「精神が瑞々しく」あれる。他者が影響を受け合い、互いに変化していくこと。フレッシュな輝かしい時間です。舞台上にある体がイキていなければ、いくら演技がうまい俳優がいてもちっとも素敵じゃない。と僕は感じます。
ここでの「他者」というのは人に限りません。「今、ここ」ってことです。今ここにある、物や、雰囲気や、小道具も、お客さんも全部です。今ここにある自分以外のもの全てが他者ですね。で、それを出来るならなるべく細かく見てやる。そうすると、どっかから何かを借りてこなくったって、「今ここにあるものだけで十分に楽しめる。遊べる。愉快になれる」
以前ここでも書いたインプロの質(たち)の良さはこれ↑だと僕は感じているわけですが、だいじなのは「細かく見る」ということだと思います。
「台詞が決まっているから」「台本があるから」フレッシュでいられないというのは間違いです。インプロにおける「自分以外のプレイヤ」のように。「その人がそこにいること」と同じように「自明なもの」に、台詞をしていないだけです。
台詞がそういう「自明なもの」「確かな存在」として自分の手のうちに、あるようになったらば、あとはインプロも台詞の芝居もやることは同じです。
台詞(他者の思想、慣性、精神)というつかみ所の無い、ふわっとした「気体」をそのようなそれを、「はっきりと手触りのあるもの」に、「固体」に変化さす。そうしたらその時ようやく台詞が「武器」あるいは「おもちゃ」「遊び道具」になります。けん玉とかですね。そうしたら、それを使って「今この瞬間」にどう遊ぶかっていう、やっとこさ本質の作業になってくるんですね。
台詞を固体化する。→インプロにおける「そこにある椅子」「相手役」と同じようなファクターにする。
固体化することによって細かく見ることができるし、細かく見ることによって台詞は固体化していきます。固まれば固まる程、新しい発見が次々と生まれ、それが「私(俳優)」を変容させていきます。


台詞を覚えるってことは「他者の精神」を自分の身体に迎え入れるということで、それは激しい苦痛と、その反転としての快感を伴う。
台詞を覚えるってことは「他者の考え方、感じ方」を自分の身体にインストールするってことで、それはとてもとてもおっかないことだ。
だから台詞を覚えるってことは、記憶力だけが問題なのじゃない。それもさることながら「自分が変わってしまうかも知れないこと」への興味。とそれを乗り越えようとする勇気、度胸、という部分が、思われているよりもずっと大きな割合を占める問題なのです。


と、ここまで書いても、もちろん、台本の上がりが遅かったことが免罪されるわけではないことは承知しています。ごめんなさーい!!

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