お父さんの思い出

今でこそ「オヤジ」「オヤジ殿」と呼ぶ事にためらいが無くなって来たが、結局根っこの部分での彼の呼称は「おとうさん」であり、それはもう生涯変わる事がないのだと思う。

お父さんは俳優であったと言う。お母さんも俳優で二人と仲間は劇団をしていたのだと言う。本当に口惜しいのだが、彼と彼女の舞台の記憶が僕にはない。

替わりにあるのは「おとうさん」がテキ屋をやってた時の風景だ。嵐山の嵐電の駅の前で、道ばたにアクセサリーを並べた板を広げて座ってた。観光客相手を相手に、「光るブレスレット」「バネの先にハート形の発泡スチロールがついたカチューシャ」「壁に投げると、粘って落ちてくるタコ」「フランクフルトみたいに木の棒に巻き付いた紙(を振ると、その先が伸びて又戻るヤツ)」「針金をラジオペンチで器用に曲げて、その人の名前の筆記体のアルファベット(「akira」とか「keiko」とか)にして、先を折り返して、バッジみたいにカバンや服につけられるようにしたもの)」「黒地のキーホルダーにその場で、トリマーを使って、絵や名前を彫り込んだもの」「スヌーピーの革のキーホルダー」等々。

子供ごころに「こんなものが?」というものが300円500円で売れて行った。もちろんいい時も悪い時もあったろうけれど、そこのところは子供心にはわかららない。

魔法みたいだった。
「価値」とは何かということを考える。それはただの針金なのだ。でもお父さんがそれにラジオペンチでくねくねと曲げるだけでそれには何十倍という価値がついた。

価値というよりは「ねうち」というべきか。関西弁で言う所の「そらぁ、値打ちあるで」というやつだ。
「値打ち」は、それが他人と共有されづらい、つまりパーソナルなものであればある程、高まる。他の人にとっては「なんて事ないもの」が、この僕にとっては何物にも代え難い「あれ」である。「値打ち」「価値」というのは究極の所それに尽きるのではないか。皆がよってたかって褒めそやすよな物に「価値、ねうち」は果たしてあるだろうか?
自分にとっては宝物→でも他人にとってはゴミ→そんなものこそ値打ち価値はあるように思える。またその「自分の評価」と「他者の評価」に乖離があればあるほどその価値が高まるような気がする。

多くの「物語」は上のようなことを前提として書かれている。
つまり我々の価値観は広く分散している。分散しているからこそ、それぞれが高い価値を感じていられる。
私たち一人一人がその価値を噛み締めて幸せでいられるのは、それが「他とは違う。他者から理解を得られない」ことに裏打ちされているのではないか。そして、その一点、「他者からは容易に合意され得ない価値観を持った個人である」ということにおいて、私たちは共通している。し、共感しあえるかもしれない。

国が別れるとか,どこかの国に併合されるとか、想像を絶するわけだけれども、想像を絶するからこそ互いに「いいね」と言えるのかもしれないじゃないかとか。

ボンヤリとお父さんの商材を思い出したりしています。

コメントの投稿

非公開コメント

twitter
カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
最新記事
リンク