金沢旅行/その前後 (2)

◎9月27日
午前6時すぎ
金沢市内。金沢駅から東の方角のどこかの路上
スタスタスタ。少し早めのテンポで歩いている。顔に当たる空気が冷たい。このままいつまでも続くんじゃねーかと思われるほど長引いた残暑の京都から、少し冷えた金沢の朝。
六時前に起床。これでも普段からすれば遅い。朝早い(六時半出勤)仕事をしているということもあるけれど、なんせ「歳とった」ってことだろうなと思う。年寄りは朝が早い。のは「寝ている体力が無い」からだと。自分の身体をふりかえると、やっぱりそうなんですね。長時間寝続けるということができなくなって来ている。
グースカ寝ている奥さんと娘を起こさぬように、ささっと着替えて出かけちゃう!
スタスタスタ
肌寒い空気を裂いていくように足早に歩く。昨日ぐらいからようやく連続夏日が終わったそうだ。気温のギャップが実際の京都〜金沢の距離よりも、もっと遠くまで足を伸ばした気にさせてくれる。「トリップ感」っていうのかしら?
スタスタスタ。
うん。いい感じ。とっても気持ちがよろしくってよ。

僕が「旅」に求めるものの第一位は「歩くこと」なのです。見知らぬ土地をスタスタ歩くことがこの上ない快楽なんです。普通の人は多分「食べる」とか「観る」とかなんでしょうかしら?もちろんそれも好きですし大事だなって思いますけど、「一つだけ何を取る?」って聞かれたら僕は歩き回りたい。

まず地図を広げます。
1現在地を確認して、
2目的地を決める
ま、観光地でいいんですが、「何せ向かう先」は決めちゃう。(これがポイントです)

シンプルです。ポイントは地図をあんまりしっかりと見ないこと。「どこの角を曲がってどの建物を左手に見て」だとかのシミュレーションはしないこと。地図で確認するのは方角(東西南北)と、雰囲気(?笑)だけにとどめます。

3その方角に歩き出す

とにかく「こっちっぽい」方角に歩いて行く。で途中気になる道が出てきたら、必ずそちらに舵をきる。細い路地だとか、ヘンテコな看板だとか、「なんじゃあれ?」と思ったら、必ずそちらの道を選ぶ。

で、そうやって「想定された方角、進路」がズレて行きながら、それでもなんとか最初に決めた目的地まで歩く。(途中地図を開いたりはほぼしない)
なんかゲームなんですね、多分。

旅の中の「偶然の出会い」を求める。のは多分僕も奥さんも一緒なんです。旅がプラン通りにいく事なんて全く求めていない。
でも、その「出会い方」の設定の仕方が違うんでしょうね。それが「歩く速度」に端的に差として現れている。
僕はスタスタ
奥さんはフラフラ(よろけているわけじゃない)そぞろ歩きっていうのかな?

僕は「ある目的地」に向かって歩き出して、その道行きなかで「寄り道を積極的にしながら、最初の目的地が変更になって、新たな目的地が出てくれば最高だなぁ」という構えなんです。ドンドンと遠くまでずれてゆきたい。なるべく最初考えてたルートからドリフトしていって、とんでもない景色を見たい。だから「早足」なんですね。でもこれの弱点は「最初に目的地がないと歩き出せない」ってこと。
奥さんは目的地なんてなくたってダラダラと歩いていられる。
買い物に出かけるとかが、そうですね。僕は「何かを買いに出かける」ということはできても、奥さんみたいに「とりあえず、町に出てみて、いろいろお見せ見て回って……」というのがとても苦手。ウィンドウショッピングとかが無理なんです。
「靴買うつもりで出かけたけど、どうしても本が欲しくなってそっち買った」とかは大好きなんですが、「何買うかまったく決めてないけど、町に出かける」ということが出来ない。
結婚する前もそうだったし、子供ができた今でもそうだ。僕たちが歩く時にはきっとお互いに少しずつペースを調節して歩いている。それはとても素敵な事だ。多分これからもしばらくの間はマドカさんのペースの近くで歩いてくことになる。
でも一人の時でないと出来ない速度で歩くこと。も、たまにはいい。(僕の場合はタマじゃないんだけど。それで迷惑を沢山かけている)つまりマイペースってこと。一番気持ちがいいところ。
スタスタスタ。
で、歩いていると、思考もスタスタと、奥の方まで進んでいって、見た事のない景色に出くわしたりする。ふむふむ。こいつは文章にまとめねばなるまい。ブログにあげるとして……、そうだな、書き出しはこのシーン、今朝、今、僕が金沢の冷えた空気を裂くようにスタスタ歩いて行く情景からだな。(と、思っていた事を今思い出した。失敗。(1)の方の冒頭でいれたかったのだ。今というのは10/27日。このブログを書いている時。ややこし。)

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駅から歩いて小一時間。東山地区。早朝だから人通りが無くて余計にいい感じだった

昔と同じ。そのままだ。と気がつく。
僕は、父と母には本当に良く旅行に連れて行ってもらった。宿で朝目を覚ますのは、だいたい散歩から帰って来たお父さんが部屋のドアを開ける音だった。
父「おはよう。」
僕「おはよう」
父「気持ちよかったよ、外」
僕「うん」

前の夜、寝る前に、参加者が募られる
「お父さん、明日朝散歩にいくけど一緒に行く人?」
大抵、母は不参加。「食べ過ぎてしんどい。寝てる」
父一人で歩く事も多くあった。僕らがある程度大きくなってからは参加者をつのることも少なくなってたかも。でもそういえばその頃ぐらいになると、母は父の朝の散歩についていくことが多くなったように思う。
僕と上の妹のどちらかが参加して、どちらかが不参加。というパターンも沢山あった。「子供が誰もいかない」ってことは少なかったと思う。すくなからず父にも母にも気を使うという意識があった。
「せっかく家族で旅行に来てるのに」と思う。でも家族の中でもそれぞれにペースがある。でもペースを合わせたいと思う気持ちもある。合わせられなくてごめんという気持ちも。
旅行じゃなくて普段、日常の生活からそのペースの奪い合い、合わせあいするみんなの気持ちがまざった家族の中の空気というものはあるのだけれど、旅行にでるとそれが顕在化するんだろうな。その「あわい」が「模様」となって浮かび上がって見えてくる。その模様の事が「家族」という事の本質なのかもしれない……
坂を上ってみる。お寺。

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旅先での朝。僕たち兄妹と母はまだ布団で眠っている。父は一人散歩をしている。どんなペースで歩いるだろう?


◎9月24日
午後22時半ごろ
自宅
「うわっ!」
思わず声が出る。
帰宅して奥さんに「僕らって婚姻届ってさ……」と訪ねかけた途端に訪れたフラッシュバック。しばらく言葉を無くす。

「そうやで、私ら二人で出しに行ったよ。」
「忘れてた……」
「忘れんなや!あんた信じられへんわ……」

自分がそれを忘れてた事もそれはそれでインパクト大だ。でも思わず声が出たのはそのせいじゃない。ではフラッシュバックがよほど鮮烈だったのかというと、またそうでもない。それはぼんやりとしている。
ぼんやりと「紫色」

「普通忘れるかぁ?二人で区役所持っていて、ほらあの、……」

とそこまで言ったところで奥さんも僕と同じ事に思い至ったようだ。声のトーンが変わる。

「あぁ、そうやん。あの……」
「うん。二週間程前やね」

二週間前、劇団衛星の黒木さんからそのお便りをいただいた。
おなじく劇団衛星の制作をしている植村純子さんのお父様がお亡くなりになった。

◎(11年前の)10月19日
午後
京都市北区区役所
僕と彼女はそわそわとしている。そしてやっぱりヘラヘラにやけている。平日の二人の休みが合ったタイミングがたまたま今日だった。もう少し記念日にふさわしい日付でもよかったかな?と思う。10月10日とか?でも「体育の日」てのはどうなんだろう?まぁ「覚えやすい日」じゃないと忘れちゃうぐらいに軽いものだとしたら、ちょっとそれは具合が悪い。だから良いのではないだろうか。
二人で住み始めたマンションは北区にあって、住民票なんかもこちらに移すことになるのだろう。手狭な部屋だけれど、それでも一人暮らししていたワンルームに比べれば一部屋(といっても5畳ぐらいのそれもキッチンだけれど)増えている。のでそこに自作のデスクと更にサイドボードを入れる事も出来た。自分の事を「物書き」だとは恐れ多くて思えないが、それでも一応劇の台本を書いたりはしているわけだから、「物書き仕事をするデスク」はあこがれというか、これまでずっと欲しかったんだけれども、ワンルーム六畳ではデスクをおいてしまうとセマッ苦しい。座卓を寝る時には立ててどかして布団を敷いて、で我慢せざる終えなかったのだ。
新生活。新しいフェーズ。を何よりも実感できるイベントが、今正に……!

北区区役所の長いカウンターの上にいくつか吊り下がった看板の中から「婚姻届」の文字を探す。僕たちがその窓口にいくと少し奥から女性が応対に出て来てくれた。

「お、お願いします」

僕と彼女は「これでええんかいな?」と目を合わす。しかし「これ以外」に何があるというのか?
「婚姻届ですね」
と職員の女性は、僕たちそれぞれとあとそれぞれの証人の判がつかれた書類を受け取り、それにしばらく目を落としてから
「……、ちょっと待ってくださいね」
と奥に引っ込む。引っ込むと言ってもあるのは腰の高さのカウンターだけなんだから奥も見えてるんだけど。
僕と彼女はもう一度目を合わせる。なんか不備でもあったかしら?
女性は奥の方のデスクで仕事をしている男性の元に、僕たちの婚姻届を持って行く。男性は紙を受け取り、かけていたメガネを額に上げて目を細めて書面を確かめている。それからカウンターの前で心細く突っ立っている僕たち二人の方に、くるっと首を向けた。
紫色に染めた髪の毛。「植村父」だった。なんども劇団衛星のお芝居の会場でお見かけしている。北区の区役所にお勤めだということは僕たちも存じ上げていたし、僕たちが結婚生活を北区ではじめることも純子さん経由で知ってくださっていて気にかけていただいていたようだ。衛星の中では、純子さんと僕と岡嶋秀昭と駒田大介が同い年のフォーティーナイナーズ→昭和49年生まれなのだ。主催の蓮行は一つ上。そんなこともあってだろう。植村父はとても親身になって僕ら夫婦の事を気にかけてくださっていたようだ。先ほどの女性に「ありがと」といって植村父は席を立ち僕たちのほうへ歩いてくる。区役所に来る機会なんてそうそうないわけで、実際平均的にどんな所でどんな人がいるのかはわからない。でもそれだけに「役所」だと思って来ているから、植村父の「紫に染まった髪の毛」はとてもファンキーに思える。(「紫」と書くとどぎつけれど、実際には上品な「藤色」ぐらいだ)

「この度はおめでとうございます」

そういうと植村父は僕たちに頭をさげた。

「ありがとうございます」
「待ってたよ」
「あぁ。すいません……」

不安だったから、安心して余計に笑う僕と彼女。植村父は「あぁそうそう」と言って紙を差し出す。

「これね。えーと、私たち区役所で最近こういうサービスを始めたんです。でこれやってもらっていいかな?」

「婚姻届受理証明書」の申込用紙だ。植村父は笑顔で続ける。

「君らが第一号です」
彼女「でも、これあの、お金とかは?」
植村父「(笑)要りません要りません」

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後日届けてもらった「婚姻届受理証明書」右端に区長の署名。その上にちゃんと「第一号」と書いてある(笑)植村父は丁寧にコピーもとって合わせて送ってくれた。「何かに使うかもしれへんし」って。未だに何かに使う機会は訪れていない(笑)見た目表彰状みたいだけれど、こんなものを部屋に飾っている家庭にお邪魔した事は一度も無いし、もし額に入れて飾っていたとしたら、「この夫婦大丈夫やろか?」と不安になるに違いない。

晴れて僕らは北区長が婚姻届受理証明を出した初の夫婦となるそうだ。
書類に住所なんかを書き込む。それから少しだけ「どこに住んでるの?」とかいう話をする。なんというか、植村父は実に「しなやかな空気」を持った人だ。と感じる。柔らかいけど強い。ちらっと見て、ちょっと話しただけの印象でしかないけれど。

僕たちはお礼とご挨拶をしてく役所を後にする。
去り際。僕たちに彼がかけてくれた言葉を、僕は11年後ありありと思い出すことになる。

「なんか困った事あったら、いつでも言いにおいでな」

その帰り道。「奥さん」がしみじみと言う
「でも、良かったわぁ。知っている人が区役所に居てくれはって。それだけですごい心強い私」
「ほんまそうやねぇ」
強く激しく同意する。ため息が出る程に。
「ほんまそうやわ……」

植村父の存在と言動をこんなにも「ありがたく」「心強く」思ってる。
その事が、逆方向に光りを当てて、僕の心模様をくっきりと浮かび上がらせる。
結婚前のこの一ヶ月程、僕はとてもとても不安だった。

◎10月27日
午後2時
ホテルから歩いて20分ぐらいの路上。

マドカさんがとても不安そうな顔をしている。でも不安よりも「何かをしなければ」「何をすれば良いのか?」ということを探している真剣さが勝っている。そんな表情だ。
僕は、反省する。そして悲しくなる。

一人娘にとって両親の夫婦喧嘩の場に立ち会う事は、ただ「不安」でいられるほど呑気なケースではないってことだろう。彼女は死活的問題として「今、私、どうしたらいい?」ということを考えている。味方はどこにもいない。今まで保護してくれた「父」と「母」は、唐突に「よくわからない、大きな二人の他人」に変身してしまった。もう、ものすごい速度で彼女の脳は回転し検索を続けている。「どうしたら生存してゆけるのか?」でも残念な事に五歳児の知恵では「父も母も立てつつ、うまい具合に着地さす」落とし所なんて見つかるわけも無いのだ……。

昨日はうまく行ったのにな。フィオナ・タンの映像インスタレーションが、すさまじく興味深かった。ただその23分の映像インスタレーション含む多くの作品は、五歳のマドカさんと一緒に見るには長い。じっくり鑑賞なんて、ね。子供は無理ですから。僕がその作品を味わいたいペースと、それぞれが楽しめるペースが明確に違う。(まず暗いってだけで、かなり娘にとってはマイナスな空間だし(笑)でもどうしても見たいと思ったので、奥さんにある提案をした。
「僕、ちょっとこれじっくりみてみたいし、どうやろ?これから一時間程、僕がマドカを見てるから、茂美さん一人でちょっとゆっくり作品見てくる?そのあと三人で昼ご飯にして、食べてからしばらくマドカさん見ててもらえへんやろか?その間に僕作品一人で見て回るし」

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すごくスムーズに、気持ちよく「みんなのペース」と「一人のペース」を配分できた。
昨日は。

なんでかな。うまく行かないときはうまく行かない。
奥さんはふらふらと歩いてゆきたい。僕は特に目的がないのでマドカさんとふざけ合っていていいのだけれど、途中で奥さんの姿が見えなくなる。電話をかけるとなんだか随分遠くにいて「もうホテルに帰ってくれてていいよ」と言う。
「ふざけんなよあんた!そんなんならもう一人で旅行にいけよ!」
って、自分は今朝一人でスタスタ気持ちよく歩いてたくせにな……。

金沢まで来て。
せっかくの家族旅行なのに。夫婦喧嘩って……
意味わかんないよね。ごめんなマドカさん。
何をやってるんだか。最低だ。
ひどいもんだ。なさけないなぁ。「父親度」ゼロだもんね(苦笑)まったく「父親」になれていない。その兆しが無い。ひどい。
いつまでこんなに子供だろうか僕は。いつまで甘えているつもりなんだろう。
ああ、自分にうんざりだ。オマエさ、「甘える」って誰にだよ?


◎6月22日
深夜
醍醐 医仁会武田総合病院
造形大でのリーディング公演「ピュラデス」初日があけて、そのまま病院へ向かう。
去年の秋に「一年もったら、すごい事です。でも来年の春は迎えられると思います」という診断を受けていた、義母。三人姉妹と孫二人らに見守られながら旅立つ。「シュッとしたひと」だった。できればこの時の「ひと」には「女」もしくは「女性」という漢字を当てたい。

「シュッとした女(ひと)」

僕が今までの人生で好きになった、一番年上の女性。

遊・結婚写真_3



◎8月某日
夜19時ぐらい
焼肉の名門 焼肉の名門 天壇 The Dining
「何にもしてあげられなかった」と奥さんは涙をボロボロと流しながら泣いている。娘はそれまでバクバク肉を食べていた箸を置いて、不安そうな顔をしている。
僕は奥さんの手を握る。
奥さんが「何にもしてあげられなかった」のだとしたら、僕はいったいなんだというのだろうか。「何もしてあげられなかった」という実感さえ持てぬまま義母を見送った僕は。


◎10月19日
午後
自宅
午前中は会社の健康診断。身長体重、視力に問診、おまけにバリウムまでごちそうになったのち、ワインとケンタッキーを買って自宅に戻る。こんな日ぐらいちょっと良いワインを買えれば良いのだけれど、まぁ身の丈に合ったものでいいか。

「12年目もよろしくお願いします」
「こちらこそ」

最近娘は「塊のお肉」をあまり好きではなくなって来たようだ。本当に子供の食の好みはコロコロ変わる。昔は鳥の唐揚げとか大好物だったのに最近はあまり進んで食べない。が、が!である。やっぱカーネルオジサンは偉大なり。ケンタッキーフライドチキンにはもうバクつく。ピラニアか!?
来年から小学生だ。本音を言えば小学校は、別の地域の所に通わせたかった。この地域がどうということではない(本当は少しあるけど)。それよりも「市営団地」を出て民間の賃貸に入るぐらいの家計で田中家を回していたかったということなんです。
「人並みの」って言い方も変だな。実際僕も「人」だし。でも平均的な所得と比べると、ね。
娘が生まれて来てくれてから、ここに住み始めてこの五年間。今となっても、私の収入が低空飛行(涙)「団地脱出」はかないません。すいません……。
田中家11年目結婚記念日は、結構なスケールの反省会になりつつある(笑)

鞍馬口(北区)に住んでいた五年間。結局一度も区役所に「困った事」を相談には行かなかった。少なくとも僕は。奥さんはわかんないけど。(実は僕たちの婚姻届を受理してくださってからさほど時間が立たぬ時に、病気を発症されていたそうだ)でも本当に。僕たちのあの五年間は、確かに植村父のあの言葉によって静かに支えられていたと感じる。

「なんか困った事あったら、いつでも言いにおいでな」

区役所の人だから、そらそうなんだけど(笑)
「彼女」改め「奥さん」は、僕たちの新生活のことを、他の誰かに説明する時よく
「遊君は、マリッジブルーを紛らわす為に、自分のデスクと、サイドボードをDIYで作らはった。」
という笑い話をする。そんな言い方はないだろう?と僕は思う。でも実際のところは本当にそうなんだ。僕は不安で仕方が無かった。だってわかんないんだから。そらそうだよ。僕たちの生活がどうなっていくのか?不安で仕方が無い。僕は基本おっかながりだから。すなわちこれこそマリッジブルーでなくてなんだというのさ?(笑)
でも少しでもその新しい生活が「楽しく、素敵」であるように、ある為にと、机を作り、サイドボードを作ったのです。「未知の新しい生活」が、不安なだけでなく「ワクワクする」ようにと。レベルは全然違いますが、「祈りを込めて仏像を彫る」ような、そんなことなのかもしれない。
帰り道。僕たちは。僕と「彼女」改め「奥さん」は手をつないで歩いている。
手をつないでいる僕たちの向かいは僕の親父とお袋。肉を焼くアミの乗ったテーブルの向こうでオヤジが口を開いた。
「この歳だから、いままで、いろんな人のいろんな葬式に行ったり、近しい人を無くした人と接して来たけれどね。ほんまに、その……。亡くなった人に対してね、本当にいろんな事をしてあげて、お世話して、一緒に考えて、いろいろ良くしてあげた人ほど「何にもしてあげられんかった」って言うのよ。ホンマに。」
そのあと続けて
「だから自分を責める事は、絶対にない。あなたはよくやったと思う。よくやったからこそ「なんにもしてあげられなかった」と思うんだよ」
と。
奥さんはおおよそ「焼き肉屋」に似つかわしくないほど激しく泣き出してしまった……
娘は一層不安そうな様子になる。僕は奥さんの手を更に強く握る。そしてもう片方の手で娘の手を握る。
娘はどうして良いかわからないのだ。いつも自分を守ってくれている「親」が、ある時泣き出したり、夫婦ケンカし始める。それは幼い子供にとって「世界のルールが変わる」ような体験だろう。
自分を守ってくれる存在が、もう無くなってしまった。かつてそうだったものは不意に何か別のものに変身してしまい、それと自分とが、今、どんな関係でいるのかもわからない。不安で、しかし沈み込んではいない。彼女の目の奥はランランと光っている。全身全霊で状況をモニターして考えている。「どうしたら私は生き延びられるのか?」それは生存本能に近いものだろう。
「ごめん」と奥さんが謝った。僕は泣きそうになる。幅の狭い歩道、迷惑そうな顔つきをしたおばさんが自転車に乗ってが僕たちの脇をすり抜けて行く。今朝方の散歩してた時の自分の考えは、あれはなんと思い上がったものだろうか。何が「最近、オヤジに似てきた」だ!?ちっとも「父親」じゃない。自分のことしか考えられない子供。自分のペースを変える事が出来ない子供。恥ずかしくて情けなくて、本当に少し涙がでてしまう。こんなに清々しい天気なのに。何でこんなに「残念」なことにしてしまってるんだろうか僕は。手をつないでいる娘に、これでは逆になぐさめられているようだ。しばらく言葉が出ない……
結婚11年経った今でも僕たちは未熟で、どうしようもなく子供染みてる。
そして今以上に稚拙だったあの時。
今以上に不安だったあの時。
近くに「大人」が居てくれた事。
そして

「なんか困った事あったら、いつでも言いにおいでな」

と言ってくれた事。

もうはっきりしている。僕の番だ。
そんなこととっくにわかっててやってる人も沢山いる。僕よりももっとずっと若い人だって、率先して自分よりも更に若い人達の面倒を見ることをしている人達。それが「当たり前だ」と体に落ちている人達。
すごいなぁ。いや感心している場合ではないのだけれど。

僕は言葉を失ったまま突っ立っている。ここはどこだろう?この道はどこに向かってこの先どこまで伸びて、どんな風にとぎれるのだろう?「人が死ぬ」という事に対して、僕たちは「何にも出来ない」。
お医者さん?
どうだろう?たとえばその人の寿命が三日延ばせたとして、それは「何か出来た」のか?じゃあ一ヶ月延ばせたら?一年だったらば?
単純で絶対的な道理だ。人は死ぬ。それは誰にも、どうにも、何にもできない。
でも「よりよく生きる(生きた)」「悔いを少なく、気持ち良く死を向かえる(迎えた)」ということについてなら僕らにできる事は少なからずあるように思える。
し、「私は、故人がより良く生き抜いたこと、比較的幸せな最後を向かえることに寄与しえた」と感じる事は可能だろう。また誰かがそう感じられたならそれ以上に素晴らしい事は、この世の中に少ないと思う。
ただ、それももちろんのこと検証は不可能だ。
例え相手が口の無い死者でなくとも、他者に悔いがあるのか?満足度が上がったのか?は「私」にはわかり得ない。

「私たちは(大切な)人が死んでゆく、という事に接して、何にも出来ない」
これは真理だ。しかし僕が今書いたようなことは理屈であって感覚ではない。

「何もできなかった」という実感。つまり無力感。は、その人の死に正面から向き合い、自分に何ができるのかを日夜自問し、悩み、試行錯誤し、その人の事を思い、その人の為に手を尽くした人が、(それは真理であるからして当然の帰結として)「何もできなかった」という体験を通して獲得するものなのだ。
だからオヤジが言った
「故人に、必死になって良くしてあげた人ほど『なんにもしてあげられなかった』と言う」
のは、これはただの慰めの文句ではなくて明白な事実だろう。
そしてその「無力感」こそが「大切な人を亡くす」ということの本質かもしれない。大切な人を失う事で僕たちの心と体は全面的にとてつもないダメージを受ける。
そんな時、知人や他の家族のサポート。ねぎらいや気遣い。悔やみの言葉がどれほどそのダメージを癒してくれる事だろうか。「いい人だったね」とか「大変だったね」という言葉だけで僕たちは(一時的であれ)随分と癒されダメージは回復する。
でも。それでも回復しない部分があるのだ。近しい人の死で受けた心身のダメージの「ある部分」は、周囲の人のお心遣いで確実に癒されて行く。しかし、それでは決して癒されない「またある部分」もある。アボカドの種みたいに真ん中に固く残ったまま、それは「時間で薄められる」より他には「溶ける」道がない。
多分「無力感」もその種の中にある。

そしてまた、物事の原因と結果は、往々にして折り返す。「大切な人の死」もそうだと思う。その「無力感」、確かに気力体力を尽くした結果手に入れた「なんにもできなかった」という実感が、その故人が「大切な人だった」こと保証する。
そしてその無力感が「他人の言動によっては癒される事がない」と言うことによって「その大切さ」が担保されている。
つまり「大切な人」を失くした僕たちは、他人の言動によってやすやすと癒されるわけにいかないのだ……。やっかいだ。「喪」というのは、自分が失ったものの価値を保全する手段なんだろうな。焼き肉は喪を破ることになってないのだろうか?(笑)「焼き鳥」はセーフな気がする。焼き肉はタレの分アウトな気がする。いやまてよ、焼き肉でもタン塩ならセーフじゃないか?逆に焼き鳥でもタレつくねならばどうだろうか……?
煙の中、どうでも良いバカな言葉ばかりが踊りだす。しかし肝心の大切な言葉はでてこない。何を言えば良いのか?「良い」なんて事がもはや存在しないのだ。だから何でも良いはずだ。でも未だに純子さんにその事(父上が亡くなられた事)に関してお便りはしていない。お葬式にも行かなかった。同い年の彼女が時期を前後して大切な人を失くしたということ。それについてどうして良いのかわからない「どうしていいのか?」という設問自体が間違っている事はわかっている。しかし、つまりは、僕は未だに「大切な人がいなくなる」ということがうまく理解できていないのだ。

……

娘には机を作ろうと思う。とびっきりいかした机を作ろうと思う。なんなら生まれたばかりの甥にも。

……

老若男女。いつでもだれでも。もっといえば生き物はいつも不安なのだ。それは全てのものに等しく。全てのものにとって等しく未来とはわからぬものだから。同じ条件のなかそれでも「それ」を言える人。「それ」を言った人のことのことを「大人」と言うのだろう。

「なんか困った事あったら、いつでも言いにおいでな」って。

言おうと思う。今年中には誰かに言ってみようと思う(笑)そんなことでも、本当に安心できる誰かは確かにいる。きっと今頃どこかでシコシコ机を作ってる(笑)

……

合掌
感謝

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