センセイ

高校の文化祭というものに潜入してきました。
いやーなんというか、面白いですねぇ。自分が現役の高校生の時の文化祭とかは、あんまり記憶に残っていません。うっすら覚えている事も「美しき、微笑ましきフィルター」が掛かりまくった記憶だと言う自覚があって、それであんまり信用していないと言う部分がありまして(恋の告白だとか、演劇でクラスが一つに固まった!(そんなわきゃないのだ(笑)記憶だとか)滅多に思い出す事が無いのです。
それよりももっと日常的であった、授業の事、クラブ活動の事なら幾分か思い出すことがあるのですが、年に一度のビッグイベントであるはずの文化祭のことは、とんと思い出す機会がなかったのですねぇ……

クラス劇、全七クラス見られれば良かったのですが、二日に渡っての上演ですからそうもいきませんで、残念でしたが、見られたクラスに関しては、それぞれ頑張ってはって、嬉しく思いました。
もちろん生徒さんが何より素敵です。でも僕は客席の後ろの方にいまして、一番グッと来たのは、担任の先生方の舞台を見つめるまなざしです。

なんというか、「文化祭」は、やはり「学校で流れる時間」の中では相当特殊な時間なのですね。「先生←→生徒」という仮設の関係が、解かれる。というか。

当事者同士で(先生と生徒たちの間で)すでにして、その「仮設、虚構」は実質的には解かれた状態で学校の時間は流れていっているだろうと想像します。僕の時代ですら、僕たちは「高校の先生である」ということだけで「先生を尊敬するに足る人物だ」というようなスタート地点を採用しませんでした。(まぁ、それはいつの世もなのか)

でも学校が学校である為には、そのフィクションを受け入れる必要がある。それは生徒にも先生にもある。
ちょっと乱暴な言い方だけれども、学校の敷地内に入ったらば、それぞれが「先生役」「生徒役」を演じるというルールを守らなければならない。そういう時間が流れておるような気がするのです。

そのルールが「無効になる」とはいかなくても、随分と薄れるのが文化祭ってやつじゃないだろうかしら?

「先生」ではなくて、大人の個人が、17歳の男女の集団の行為を見つめている。そのまなざし。

そこになんか真理がある気がします。

会場には保護者の皆さんもいらっしゃって舞台上の我が子をビデオで追ったりしてらっしゃるんですね。でもそれとは違うんです。先生の目線って。当然ですが。

生徒は彼ら彼女らの実の子供ではない。クラスの担任として職務上受け持っている、若者の集団なのです。
感情移入できる部分、しきれない部分。沢山ある「他人」の集まりです。
そんな集団(生徒さんたちの演劇)を見つめる先生たちのまなざしには、つねになんか「寂しさ」が見えるんですね。
きっと気のせいじゃないと思うんです。

「他人」「他人の子」だから「ここまでしか踏み込めない」ということ。
逆に「ここまで踏み込める」ということ。それよりも多分シビアにあるのは時間と労力。何人の生徒に対して先生一人がどれぐらいの事をしてやれるのか?そういうことにはやはり正解は無いのだろうと想像します。

しかし正解がないからといって、日々右往左往していては仕事になりません。日々の業務、つまりクラスの運営や各教科を教える事のなかで、自分なりの、またはその職場、学校なりのスタンダードに従って過ごしていくルーチン。良いも悪いも無く、教育というものはそういうふうにしか成り立たんものでしょう。(だって、僕で考えると僕の家庭は一人娘で、僕と奥さん二人掛かりで一人の娘の成長や将来や、とコミットしてるわけです。担任の先生って一人で一クラスみるわけですもの。(話を単純にしすぎてますが)

・・・・・

うん。文章がくどい。やはり継続は力ですね。ブログにしろ何にしろ。

さておき、「クラス劇を見つめる担任の先生のまなざし」は、(勿論それは毎年のルーチンであるのだとしても)「先生」という役割をすこし外れて、個人として「数十人の若者の振舞い」をぼんやりと見つめているそれなのです。

そこにはえも言われぬ、「複雑さ」があるのです。
単に「ええなぁー」でもないし「もっとがんばれたのに」でもないし「はよ終われ」ではもちろんないし「がんばれっ!」だけでもない。

教育
教えて、育てる。



はー。
こんなにちかくに「すごい人たち」はいるのです。
「先生」に対して「先生であるだけで、尊敬できる」と思い始めるのは、つねに学校を卒業したものなのでしょうね。


コメントの投稿

非公開コメント

twitter
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
最新記事
リンク