「大人のための数学講座」と「ひとがた」wi`re

昨日はなんというか「理想的な土曜日」でした。
朝8時頃に起きて自転車一時間こいで左京区へ。稲森財団の記念館へ。川端通沿いにある「なんかおしゃれな建物だなぁ」と思ってた建物なんですが、そこの小会議室で10時〜12時までが数学講座、その後一時間ほど対談、質疑応答の時間でした。

いいなぁ・・・数学。というかこの日の講座は数学ではなくて(?)論理学のほうだったようですが。この数学講座は森田真生さんを講師として主催はChoreographLife事務局なのかな?なにせ継続してやってらっしゃる様子でした。ポッと入って行った僕はもう、場違い感きわまりなくて、楽しかったです(笑)
昨日のテーマは「うそつきのパラドクス」。テーマと言うかとば口というか。

「この文は嘘である」

という文をどう扱うか?捉えるかというようなことでした。このブログで何かを説明できるわけではないので内容には触れられませんが、なんせその場の雰囲気ふくめ楽しかったです。
とにかく「時間」が気になって仕方が無いのですね、僕はやっぱり。「透明な真理」というような事が紹介されて、それは「おぉー!!」と軽く感動を覚えたのですが、その「透明な真理」をすかした向こうにあるものが、「時間がかかるもの」なのか「そうでないのか?」という事によって随分話が変わってくるよなぁ、という事はぼんやりと考えました。

「(ある命題)Aが真理である」

という事に時間は掛からないのだろうか?多分かからないんですよね。きっとそこに「時間が掛からないもの」を「真理」と呼ぶのだろう。つまり「真理である」ということは運動ではない。無時間モデル、形而上学。

しかし論理学者である矢田部先生(今回のゲスト講師、論理学の先生)からも森田先生からも「世界を記述する」というような言葉が出てくるんですよね。ん?
「世界」は運動で、すよね・・・?とか。多分、なんかの方法で「世界を記述できた」とすると、もういまコンピューターがありますから、そのコンピューターにその記述を読ませて実行さすと、つまり「世界をつくれる」という所まで来てるんだろうと思うんですね。おそらくなんかそんな手触りが、今の世の中の数学者や論理学者を駆動している、モチベーションになっているのだろう、かしら?なんて空想したり・・・・。

どうして「世界を記述しなくちゃならんのだろう?」とかいう「そもそも」の質問だとかをすれば良かったのかもしれないけれども、なんか場の空気が前線そんな感じじゃなくて「大人しくしてよ・・・」と自重しました。

・・・・・・

まぁ、そんな午前中のあと、本当は「脳みそ休息」させて、19時から劇研で「ひとがた」wi`reを見る予定だったのですが、なんかちょっともう行っとけ!見たいな感覚があって、14時からの回を拝見してきました。

こちらもこちらでとっても面白かったです。そうなのだと思います(笑)もう午前中の時点でちょっと脳みそがおかしなことになっていたので、「思います」というような感覚なのですが・・・・。

「ひとがた→人形」が出てくるのですが、僕はこいつがとても苦手で、そういう嫌さはあったのですが、それでも楽しめたというか、素敵な、盛りだくさんな作品だったと思います。

作品中のほとんどの時間で、何かしらの音、音楽がスピーカーから流れているのですね。それが僕はどうしても「そうじゃないといけないのかなぁ?」と思ったのです。これはそのまま「そうじゃないといけないかなぁ?」という感覚です。格段「うるさ過ぎた」と感じたわけでもないのですが、「音のなっていない時間があったらばどうだったろう?」というような言葉で僕に訴えてくる感覚です。

何かに「漬かっている」ということ。ひょっとしたらそれは「冬の湖の水面に張った氷の下」の世界。だから常に「音に埋もれている」必要が有るのかもしれない。なにかの「世界」「枠組み」を終始維持しなくてはならない。もしくは「維持することに依って、すっごく得をする」というような事があるのだろうという事までは想像ができるのです。
でも「そうじゃないといけないのかなぁ?」って。


見終わってそんな風に感じている自分を見つけて、それについて考えてみると、それはきっと「間」という事についてなんだろうなぁと思いました。
会場のアトリエ劇研は、「コの字」型に建設足場が組まれていました。
images.jpeg
コーユーやつね、イントレって行ったりしますが「一階席」と「二階席」というのが設定されていて、二階席はこの足場の上から「下を覗く」体で舞台をみることになるのです。下を覗くと言っても足場は一段しか組まれていませんから、180センチ、つまり男の人の顔の高さぐらいの所が自分の足の裏ぐらいの高さです。
コの字型に組まれた足場の間にロープがクモの巣のようにはられています。高さは二階席の足の高さ、つまり演者たちの顔ぐらいの高さにクモの巣が張られてるんです。二階席に座らせてもらった僕は、その張られた糸が「水面、地面みたい」とは思いました。

劇中「夜明け前の川」「冬の湖」という言葉が出て来たんですが、なんでか、その開演前に感じた、「あ、池に張った氷みたい」という感覚と、そのテキストが絡んで来なかったのです。それはとてもなんか「損した」気がしました。あとからですが。
テキストでいうなら、もっと「遠くまでいけたのではないだろうか?」とも、今となっては思います。例えばその「冬の湖」の情景描写がテキストでもっとあったら更に素敵だったんじゃないか?と思ったり。


「間」の話でした。そう。
劇研であったり、いわゆる劇場というものは基本的に「黒」という色を基調に内装されています。「ブラックボックス」という言われ方をする事が多く有ります。で、

この「黒に囲まれた空間」は「間」なのか?

ということを考えたのです。多分違うな。と。基本的に「間」は「白」で表されるよね?と思ったのです。
「白紙」にエンピツの黒で「何かが書かれて行く」。
キャンパスも普通は白からスタートです。

つまり「何も無い」「間」というものは、基本的には「白いもの」だろうと。
では「黒い」「闇」とは何かと言うと、「良くは見えないなんか有る」ということなんだなぁと。つまりそれは「間」ではあり得ないよね。とかいうことを考えたのです。

夜の闇は「いるはずの無い何か」の存在を想起させます。「ブラックボックス」と言う良い方もそうですよね。そこには「間」「何も無い空間」があるのではなくて、「何かは分らないけれど、何かが有る空間」が設定されています。


「ここには何にも無い」と明示された「間」。白々と明るい中で、あっけらかんとぽかーんとした、不在。間。
実はそんなものによってこの作品はもっともっと「とんでもない」作品になりえるのではないだろうか?という風に感じているのです。

それは「演者が白い色の衣装」を付けていて、サカイさんや場面転換の人達が「黒い衣装」を付けているというような事が、逆だったらどうだったろう?とかいう想像を呼んだり、「昼間見てよかった」と思ったり。夜ってやっぱり「濃度」が高くなるというか、「抜け」「光」がないというか。印象ですが。


いずれ訪れるだろうナニモノかへの予感だとか、見えない存在だとか、「闇」「水底」そういうものから逃れた時間があった方がぼくは素敵だと思ったろうなと空想します。結局其れは「人形が嫌い」ということが大きいのだろうと思います。

人形が目の前にあると、どうしても「その中の魂」だとか「その人形によって示されている人間の存在」から頭が離れないのです。「人形というマテリアル」という見え方をする時間が僕には必要で、その振れ幅がすごくスリリングなのですが、常に舞台上の人形に「人間」を感じてしまっていて、その自分のナイーブさが嫌なのかな・・・


何かいてるのかよくわかりません。なんせ脳みそ沸騰の土曜日の余韻に浸る日曜日なのです。

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