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風邪は治った事にします。

日曜日。会社の方が気を使っていただいてお休みをくださいました。ありがたく昼前まで布団の中で過ごし、体温計で微熱を確認してから東山青年の家へ。「十中連合×the★planktons」さんの「この世界は、そんなに広いのですか」という作品を拝見してきました。the★planktonsというのは正直者の会.labの「のりす」さんともうお一方のユニットなのです。

劇中で広末涼子さんの「マジで恋する5秒前」という曲がかかりまして、それで田中はハッとするわけです。思い返すに16年前、22歳の私たちは京都大学吉田寮食堂の焼け落ちたばかりの焼け跡で野外劇をしておったのです。二幕構成の二幕目の後半で、水浸しの地面に横倒しにされたドラム缶が突如くるくると回って舞台中央に転がり出てきますと、中から白ブリーフ一丁の岡嶋秀昭さんが(血を流しながら。ドラム缶の端っこで切っちゃったんですね(笑)飛び出してくるというようなことでした。その時も、広末さんのその曲がかかっていたのです。

誤解されても仕方の無い書き出しですが、なにも「若い時は俺もそうだった・・・」というような押しつけをしたいわけではないのです。ただ僕が持っている「若さを計るツール」が「僕の若かった頃」しかないということは事実ですから、どうしたってそういう事にもなるのですが・・・。

その頃の私は特になのですが、見ていただいたお客さんから「わからない」と言われると、「敗北感」と同時に、変な話ですが「安心感」をいだいたものです。その時の僕が、見てくださったお客さんから一番言われたかった言葉は「さっぱり分らんかったけども、とっても面白かったよ」ということです。もうそれにつきます。そしてこれは今日今日(「きょうこんにち」ってどうしても文字ではこうなるか、そらそうだ)でもそうかもしれません。
「わかられたら困る」ということが切実に有りました。というのは「自分でも分らない」ことだったからです。これは結構誤解されやすいのですが「自分は賢いので分っている。でも観客の理解度は、自分よりも遥かに低いだろうから、わかりっこない」という理屈ではないのです。まぁ、お芝居をみて「つまんない」と感じたお客さんはそういう「上から見られてる感じ」を受ける方も多いんです。これはでも、こちらが悪いんですけどね。「そんなつもりじゃないんです」っていってもそう感じるものは仕方が無い。ごめんなさいです。
でも本当にそうではなくて「自分でもよくわからないことを舞台に上げている」感覚があると、それをお客さんに「良ーく分りました」と言われると、「ちょ、っちょっと。あの、うん」と戸惑うと言うか。それはそれでお客さんの自由なんですから、一言「ありがとう」でいいんです。今はそうです。が、若い頃の僕は「ちょ、ちょっと」だったんですね。で、どうするか?『「わかった」と言えないような仕掛けを被せる』という、なんだか奇妙な行動をとったりもしました。ね。めんどくさい(苦笑)そうですよ。僕は今でも相当面倒くさい人間ですが・・・。「自分でもよくわからない事を俎上に上げている→それをさらに「分らなくする」」ということです。最初に一言「僕にはよくわかってません」と言えば良かったのですが、それがなかなか難しい。なんでだろう?別に「恥ずかしい思いをする」こと自体に抵抗は無いのに?それは「僕にはよくわかっていません」という相手が見えていないからだと思うのです。その情けないエクスキューズを、果たして誰に言えば良いのか?顔が見えない。そうです。それは見えなくて当たり前なんです。それは放っといたら見えてくるものじゃなくて、「目を凝らす」「見据える」ようにして初めて見えてくる。あるいは「描く」ということ。そうやって立ち上がってくるもの、それが他者ということだろうと。その言う相手を想定出来た時に、一つ、なんて言うか表現の幅はひろがるんじゃないだろうか?とか、なんかそういう事なのかなぁと。見ていて感じました。

物事を深く感じたり考えたりすると、どうしても矛盾に突き当たったり、相反する二つの立場、意見に同じぐらい同意出来たりという状況になります。僕はそうなんです。
それでも何かしらお芝居をしたくて、お芝居でそういう事を表現しようとすると、「両論併記」するか、あえて片方については言及せずに振り切れてしまうか(弁証法を信用するという事でもあろうと思うのです)。もしくは「どっちとも言えないけれど、なんか言いたいのよね、というか言わなきゃ行けない気がしているぞ俺」ということ自体を主題にして舞台表現にするのか?というような選択だった気がします。

表現というものの置き場所の問題だろうかと、今となっては思うのですね。
若いということは、本当に素晴らしい事でそれだけで輝いているのです。本当です。そこには価値がある。
だからみんなキラキラするものを見に集まっても来てくれる。ちょっと言い方を変えると「かまってくれる」だから「私(達)の表現」で良いんだと思うんです。私たちっていうのはその座組みってことです。あるは「年代」ってことでもいいかもしれません。
ただいつからか表現っての置き位置が、「僕とお客の間」になってくる。なんか「僕の表現」という言葉に着心地の悪さを感じ始める。それはそうしないと誰もかまってくれなくなるからという切ない事情があるのですが・・・

「それじゃ若さの問題ではなくて、人気の問題じゃないの?」
そうですね。そうとも言えると思います。

今日もうまくまとまりません。

・・・・・

「語る内容」と「語る構え」は、相関関係に有ります。「内容」によって「構え」が変わりますし、「構え」によって「内容」も変わります。本当は「内容」は変わらないんですが、その「内容」を言葉にした時の言葉が変わってくるという事です。で、言葉が変わると、それが相手に伝わった時に相手の中で結ばれる像は変わってきます。

「語る構え」と「語る内容」とか相互に干渉して、いわば「ハウリング」を起こしているような印象を受けました。
ロックですね。そしてそこから抜け出す事を強くお勧めしたいわけでもありません。ロックは嫌いじゃないですから。ただあの「ハウリング音」はアクセントであって僕はずーっと聞いていたいとは思わない。「内容」と「構え」が無限にループしているのなら、間に「他者」をおいてやると、すっとそのハウリングは消えたりします。それが良いのか悪いのかは分りませんが。

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