あ、こんな時間だ・・・

熱も下がり悪寒なども消え、戦火は確実に収まりつつあります。喉から攻め入った敵軍はじりじりと撤退しながらも、その最後の戦場を鼻と定めた様子で今日の昼辺りから急速に鼻が詰まってまいりました。この急な感じはきっと薬のせいかと思われます。というのは去年に今回と全く同じような症状になった時にもお医者にかかったのです。38年生きて来て身につけた数少ない知恵の一つに「風邪引いたらすぐ医者行け、俺(どうせ市販薬では治り切らず、最終医者に行くことになるから)」というのがありまして、まぁどうでもいいんですが、近年は引いたと思ったら迷わずお医者さんに行く事にしてるんです。で、そうそう去年ですよ、行ったお医者はですね、娘もお世話になっている「いしだ医院」さん。先生がとっても良い方で本当に信用してるんです。メインが小児科、内科もあるよ、って感じですかね。地域の保護者たちから絶大な信頼を得ている先生なんです。で、そこでもらうお薬はいつも子供と一緒のヤツなんです(笑)ちょっとおもしろいでしょ?成分は微妙に違うんでしょうが、先生が僕の顔見ながらね、右手に持ったおさじでいくつかのガラスの小瓶から赤い粉と白い粉を適量紙の上にすくいとって、何さじかずつザラバン紙みたいなもんの上に置いてサクサクって混ぜるんです。皆さんもきっと子供の頃に飲んだ覚えがるはずの「ピンク色の粉ぐすり」の出来上がり。これがね、とっても甘いんです。子供でも飲めるように。ちなみに我が娘はいしだ医院でいただく飲み薬が大好物で「イシダ汁は?」と時々聞いてきます。

無駄に長い話ですが、なんせその薬も良く効いて熱も引くんですが、まぁ時間は結構かかるかなぁ?ダラダラと、でも少しずつ良くなって行くという印象なのですね、今回のお薬に比べれば。今回は水曜の夕方いしだ医院が開けてらっしゃらなかったので、まぁ仕方なく少し遠いまるお医院さんに行ってもらったヤツなのです。錠剤が6種類計8個飲まなければならないのですが、びっくりするぐらいさくっと元気になりまして。その分何と言うか副作用じゃないけれど、こうも極端に鼻がつまるのだろうかしら?と推理しているわけです。

どうでもいいですね。どうでも良い話をダラダラと書いているのは、本当に書きたい事をどう書いたもんか考えあぐねているからでして・・・・

本日はアトリエ劇研で下鴨車窓さんの「煙の塔」を拝見しました。→情報http://tana2yo.under.jp
火曜日までやってはりますね。当日券は出るみたいな情報に接したような・・・。ご興味おありの方は是非ご確認を。

さて、どう言う切り口で書いたもんだろうかなぁと思案しているわけです。というか、下鴨車窓の感想はいつも直接メールで田辺さんに送っていたことを今思い出しました(苦笑)どうしよう・・・・?

切り口というか、まずは「とば口」をどこにするかだよなぁ・・・・

1急遽出演が取りやめになった中島さん(快方に向かわれているとの事。良かったです)。代役を立てるのではなくて、台本上の変更で対応したとの事だが一体どう言う役だったのか?

これを推理しながら、劇の構造について明らかにする道すがら、「花婿を殺したのは一体誰なのか?」までも手を伸ばす!こいつはかなり知的スリリングで楽しそう。が、いかんせん大仕事。

2音響効果が少なかった。少なく感じた事。僕がそう感じたのはなんでなんだろうか?

これは書き始めて3、4歩目の辺りまではぼんやり見通せるのだが、そこから一気に話がややこしくなる。着地点が見えない。

3今の私とリンクする事柄について。

これこそ書き始めると終わらないかもしれない。放射性廃棄物の管理だとか、国の累積赤字のことだとか、確実に娘へその子へと受け継がせることになってしまう負の遺産について。自由といわゆる「絆」について。「親子」に代表されるいわゆる「絆=不自由」は、故なきことなのだということ。私が両親の子供である事に理由はない。損得関係もない。私の娘がどうして私の娘であるのか?ということに理由はない。私が「この私である」ことに理由がないのと同じにして。そういう故がない束縛しあう関係のことを絆といい、それは故がないからこそ、強くなる。損得関係や合理性によって作られた関係よりも。たまたま同じ団地に住んでいる。たまたま同じ町内に住んでいる。それだけの事実で、町内会や棟会は結成される。誰の子であれ朝に顔を見れば「おはようさん」と声をかけ、夕方階段ですれ違えば「今晩は」と挨拶する。月に一度は一世帯一人ずつでて棟の周りの掃除をしたり、地蔵盆をしたり役員をやったり。面倒くさいが「そういうもの」として飲み込む。得か損かではない。不自由は不自由だ。そして不自由の変りに何を手に入れるのか?絆はなにをくれるのか?そういう話じゃない。「独居老人の孤独死」が少なくなるとか、「周りの大人たち全員で自分の子供も育ててくれる」とか、そういう話でもない。「孤独死」が幸か不幸か決める権利が誰にあるというのだろう。うちの子に要らん事吹き込まれたらどうしてくれるのだ。
個でいても集団でいても私たち個人で感知できる範囲の「損得」は対して変わらない。しかし、「種」を主語にするとずいぶんと変わってくる。「種」としては集団でいたほうが生存確率が上がる。
イワシの大群が大群で移動する時と、そこからはぐれて一匹イワシで泳いでいる時と、その「固有の一匹のイワシ」にとっての生存確率は、変わらないのだと思う。
私たちが「絆」だとか「地域でのつながり」とかいうのに、ことさら「あったかい」「ハートウォーミング」な挿絵をつけて空想するのは、そうしないと、つまり「得」がないとそうしない。から。「しない」という個人の自由が、相当なレベルまで浸透しているから。でも僕の祖父の頃は少なくともそうではなかった。それは「当たり前の事」だった。繰り返しだけれど「絆」なんていうものは「故がない」ものだ。「(個人が自由意志で)そうする」ものではない。「そうなるもの」「そうなっちゃってた」もの。受け入れるも受け入れないもない。私は田中浩と田中久美子の間に長男として生まれたのだ。損も得もない。

繋がるバインドは、それが故亡きものであるからこそ、そしてそれを無批判にうけとり、受け継いで行くからこそ強くなる。自分の子供にお乳をやるのに理由があるか?自分の団地の周りを掃除するのに理由がいるのか?
一方こうして結ばれた絆、バインドは、外部に取っては結界になる。うちの団地も他と同じで中に児童公園がある。そこに「『変な人』が出没している」となると、もう噂が一気に広まる。「気いつけよしや。子供の事じーっとみて、近寄ったり離れたりしてるらしいで」5歳の娘を持つ親に取ってはありがたい。そのような監視の目がある事は。しかしだな。その「閉じっぷり」ってのはどうなんだと?山下清じゃなかったか?と。
つまり「閉鎖」と「強いつながり」と裏表のことなのだ。
「閉鎖的」な村を離れて自由を謳歌し、オープンな世界で一人一人が個人として繋がる世界だって?つまりそれはあれかい?このインターネットの中の付き合いのようなものか?サラサラの砂のように粒子ひとつぶひとつぶにまで分解されて流砂みたいに漂ってゆく。「個人の自由は絶対的に一番大事なものだ」というのはそれほど自明の事なのか?とここでより戻しにあって「日本国の民として・・・」とかいうのもセンスが違う。

そこらへんの所がもうモロに問題意識が今回のお芝居とリンクしていて(と僕は勝手に読み取って)当たり前かともおもうのは、僕も田辺さんも同い年。そして父親なのである。
だから、そこの意味では「花婿の死」という要素を抜きした彼女の決断。周りの判断が見たかった。

ホーラまとまらない止まらない(笑)
他にもいっぱいあるんですよね・・・。群像劇ってなんだろうか?とか。例えば出演者が15人のお芝居は、それぞれの俳優が全体の15分の1ずつ「その劇の背景」を持ち寄って来て成り立つのか?というのそうじゃないだろうという事。
3人芝居でも10人芝居でも、それぞれの俳優が100ずつ「背景」を持ち寄って成り立つものだろうと思うのです。
田辺さんの「おとぎ話のような」タッチには「精密な背景」は必要がないという意見もあるかもしれません。それがぼやけている方が、より寓話的であると。しかしそれならば僕はリーディング公演の方が良くないか?と思いもします。
僕が見た田辺さんの作品のなかで一番面白かったのは(初演の)人魚です。人魚にはリアリティーがあった。その世界に生きる人(々)の息づかいがあった。奇妙ですよね、「人魚」にリアリティーがあるって(笑)つまり「舞台演劇的な寓話」というのはそういう事だろうと思うのです。ぼかしたいならもっとぼかせる。もっとクリアにしたいならCGアニメーションとか映像作品にしちゃったほうがいい。でも「ぼけてんだけど、ピントがあってる」ようなアンビバレントが成り立ってしまうのが舞台の上だと思うんですね。うまく言えないのですが。

孤独でいること。その上で得たその高い塔の窓から遥か遠くまで見渡せる眺望。海。
その「眺望」と「村」とが完全な対比、対である。
舞台美術からも、オープニング、ラストシーンからも、もうそれ以外にないというぐらい決定的にこの芝居の土台の部分の「対比」だったのじゃないかと思う。
であるならばその「村」がしっかりと描き出せなくては、対になる「眺望」も見えて来ないのではないだろうか?
その村の住人は何人ぐらいで、青年団は何人ぐらいで、どれぐらいの歴史と由緒があって、産業が何で、どんな雰囲気で、村の広さはどれぐらいで・・・。
どんな「村」なのかが全く見えて来なかった。だから「窓からの眺望」も見えなかった。
一言で言うと問題はここだと思う。群像劇であるということは「背景を背負うべき人間の数が多い」ということだ。その分一人が背負う重さが軽くなるってことはない。田辺さんってどうなんだろう?俳優で使ってもらった事がないので(ぜひ使ってくださいっ!揉み手!)そういうこと(劇世界、役の背景)を俳優に具体的に言葉で伝える人なのかどうなのかわからないけれど、うーん・・・。まるっきり俳優さんのせいでは勿論ないし、でも俳優さんにまるっきり責任がないわけじゃないと思う。

、鼻水も止まらないので寝ます。

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