地点「コリオレイナス」

地点の「コリオレイナス」を拝見してきました。その事について書こうと思います。

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凱旋公演です。ね。すごい事だと思うしそれだけでワクワクしてしまいます。石田大さんからなんとなくの話(去年のロンドン、モスクワでの上演の際の話)を聞いていたので、「あ、大ちゃん大活躍なんやね・・・」とそれだけで楽しみだったのですが、ねぇ。本当に。何なんでしょうかあの人は(笑)信じられません。作品の内容云々のまえにああいう「びっくり人間」にお近づきになれた事を幸運に思います。「何を食ったらあんな風にしゃべれるんだろう?」って思うんですね。つまりオリンピックに出てる人見て感じる感想に近い。

「日本語の現代の口語」ではないものを舞台上で音声化する技術には勿論いろいろとあるのでしょうが、今回の舞台でもいくつもの方法を見せてもらえました。矢継ぎ早に。
昔石田さんが「普通に自然に台詞話すってのはさ。できるよ。」
(田中/いや、それができないんですよ兄貴)
石田さん/じゃなくてさ、あの、ギリシャ悲劇だとかさ、そういうもうどうしたらいいかわかんないぐらい「臭い台詞」だとかをだよ。きちんと成立させて台詞として話すってのはさ、これは燃えるよ?」
って言ってたは忘れられません。

少し前までは「三浦語」とかいって地点の台詞の音声化の仕方を揶揄(でもないな、なんだろう?なにしろ少しネガティブな捉え方、表現の仕方)をされる事に出くわす事もありました。今もかもしれません。(というのは僕が「演劇人」と話す機会が激減しているという事情があるのです。悲しい事です)
しかしそのような言われ方を聞いてもどうにもピンと来なかったとは「いや、やれんよ」という僕の俳優としての肌身での感覚です。
「三浦語」であるからには三浦基からのレクチャーでもって(ある一定の才があれば)それを習得ができうるということなのか?
バカ言うなと。
あんなもんは俳優個人が自身のそれぞれのスペック(音域、肺活量、声量、滑舌、等々)と向き合い、見つめ、微調整する以外に出力されようがない。
アクセントをどこに置くとか、ファルセットをどうつかうとか、どの音をどれぐらい延ばして、どこでブレスを入れてというのは、ひょっとしたら音符のようなもので表記ができて、「演出可能」であるのかもしれない。しかしですよ
あんなバカみたいなことをですよ?他人に「ええからやりなさい。」と言われてやれないんです。仮にやれたとしても、あんな「切実さ」が出るわけないんです。

本当にさっぱりその回路はわかんないのですが、なにしろ俳優たちがああいう表現にたどり着いた。三浦さんはそれをナビゲートしたろうし、又出て来たものの位置関係、距離を美しく整えた。
そういうあり方がね。すごいなぁと。

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作品の内容に関しては、僕はよくわかりません(苦笑)
いや申し訳ないのですが、本当に分らないのです。コリオレイナスという戯曲も読んだ事がなかったですし、この先読むとも思わない。(シェークスピアなんてのは原語で上演されてなんぼだろうという思いが拭えないからです。それは詩だろうし、ライムと切り離しては考えられないだろうから。「普遍的」なるものがあるのだとして、それにはきっと原語での「ライム」や「音感」も含まれているはずだと思うから。そして僕は英語分んないのでつまり「(根っこの部分では)縁がない」ものだと思っているからなんです)

ただ想像するのは「日本語わかんない」人達が客席にいる舞台上で台詞を話す俳優たちの心身の有り様です。凱旋公演ですから。初演が海外なんですよね?
いや絶対に「どうせわかんないよ」というのはあるはずです。ないわけがない。だって客席にいるほとんどが日本人じゃないんだから。初演時、つまりスタートの時点でそうであった作品が、「日本語を理解する観客」を前にしてどう変化したのかしら?というのはとても気になる所ではありました。

僕は今日の芝居をずっと「グローブ座でならどんなだろう?」という空想をしながら見ていました。多分ですが、彼らは「客席に向かって」は演技してなかったろうと思うのですね。だって日本語分んないんだし(笑)もちろん箇所箇所でダイレクトにアピールするところはありましたが、全般的に言えば「誰に言うてるんやろ・・」「ってか、何やってんにゃろ私?」(って、地点の人って関西の人じゃないんですね、すいません)って事だったんじゃないかと。
つまり地点のコリオレイナスは客席に向かって行われたのではない。

そのあり方がなんか「神楽」とか「田楽」に近いと思えたのです。観客に向かってされる表現ではなくて、例えば「神様」に向けてされている表現に観客が立ち会っているという構図。
としたときにグローブ座の「半野外」ってのがものすごくありありと空想出来て。野外でビールとか飲みながら見たらサイコーだなーとか・・・

ひょっとしたら日本での公演は俳優陣の演技の「方向」に、少し変化を与えているかもしれません。分りませんよもちろん。しかし今回は「日本語分る人達」の前でやってるわけですし。ちょっと「客席向き」になっている可能性はあるのかなぁと思ったりもしました。

「劇場」が「檻」に思えました。そこから解き放たれた所でも石田大は美しくあるだろうと。

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「コリオレイナス」という台本がさっぱり理解できないからこそそう思えるのでしょう。地点には「合気道」的なものを必ず感じていました。
台本、テキストの持つ力。あるいは「台本、テキストがこういう解釈をされて来た、されやすい」というベクトル。

そういうベクトル、力を「右から左に受け流したり」あるいは「テコの原理で反対に投げ飛ばしたり」する。合気道ですね。
だからテキスト、台本自体(あるいはその解釈のされ方)にあるベクトルがないと、しんどい。
実際、三浦さんから「いや、テキストに強度がないから、『繰り返す』ぐらいしかないんだよ」みたいな事を聞いた事もあって(どのの公演かは言えません(笑)

でも今回のを見て改めて、そういう所にはもういないのだなぁとおもいました。
もちろん彼らが毎回、そして今回もそのテキストと格闘し会話しているという事がお芝居を成立させているという事はわかります。それこそが彼らの生命線でアイデンティティーなんでしょう。
「テキストに強度がなければ、長い間向き合い続けられない(壊れちゃう)」という事実は確かにあるでしょうが、
「長い間向き合い続けられたならば、例えそのテキストが便所の落書きであっても、今の地点というチームなら素敵なパフォーマンスにできるに違いない」という確信はあるのです。

いや便所の落書きにはまじめに向き合っていられないのですけどね(笑)

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