「選挙前夜に思う事」として書き始めたら終わらない。しかし私たちは日々、思考を停止して、どこかで思索の範囲に区切りを付け、そのことによって「答え」「結論」「解」を得て、それを指標に行動する。

なさけないが、正直な話、僕自身が何がきっかけでいつぐらいから投票に行くようになったのかが思い出せないのだ。
ただ、選挙権をもらってしばらくはやっぱり選挙に行ってなどいなかったように思う。

「選挙の結果がどうなろうと芝居はできる」と思っていたのだろう。
また「どうせまた自民党が勝つんだ」と思っていた。(実際そうだった)

おそらく、僕が投票に行き始めたのは「危機感」や「義務感」ではなくて、「希望」や「可能性」からであったように思う。いやそんな良い物でもないかもしれない。
それは幼児的なワクワク感というか、なにしろ、「与党=自民党」というこれまでの体勢が「ひっくり返るかもね?」というようなこと。まぁいってしまえば「祭りに参加する」ような気持ちがあったのだと思う。

今僕にできることはせいぜい「選挙に行こうよ」と周りの人に声を掛けるぐらいの事なわけだが、果たして当時の「20歳の田中遊」は一体どんな声のかけられ方をしたならば「おぅ。そういうなら投票に行ってみようかしら?」とおもっただろう・・・。

おそらく。「おっかないぞ!」「他人事じゃないぞ!」というような、危機感をあおる形の話法では、説得されなかったように思う。
「他人に、危機感をあおって、何かをさせる」
というのは安手の宗教と同じで、あるタイプの人にはとても有効だけれど、あるタイプの人には、その内容がどんな物であれアレルギー反応を引き起こさせる。僕は後者だ。

そもそも「投票率が上がる事=田中遊の好む政党、個人の有利」であるとは限らない(いや、概ねそうだが)
そこの所の「投票に行かないけれども、まともな人なら、こっちを選ぶでしょう?」という偉そうな前提。「自分の方がまともだ」という愚かさ。その感じも、20の僕が聞かされたら嫌だろうな・・・。

・・・・・・・

投票に行かない人も、僕がいやだなぁと思う党や会を支持する人も、普通の人だ。
マスコミも、インターネットの住人(?という言い方が自分でよくわからないが)も、普通の人だ。

よそから見てどれだけバカみたいで理解不能であっても、それぞれが、「合理的」に考え、行動している。
邪悪なわけでもクルクルパーなわけでもない。(と内田樹先生が書いていた。そりゃそうだ)

だから恐ろしい。

僕のじいちゃんやばあちゃんや、じいちゃんばあちゃんのオヤジおふくろも、クルクルパーだったわけじゃない。
でも戦争をしていた。
イスラエルの人も、アルカイダの人も、会って話したら多分良いヤツだよ。それぞれ癖はあるかもだけれど、中には気の合うヤツもいるかもしれない。
でもテロも戦争も起こるんですね。
いや起こすし続けるのです。
僕らは狂っているわけではないけれど、活断層だとかいうのの、ほん近所に原子力発電所を建てて最近までブンブン回してたんですもの。廃棄物どうすんの?って、ねぇ。

・・・・

憲法9条を前にした思考停止と、原子力発電所から出るゴミの処理方法を前にした思考停止。
まとまらない。まとまり様がない。

まとめるという事。答えを出すという事は、思考を停止するという事だと思う。
何かに付いて結論を出すというのはそういう事だと思う。随分昔のブログに書いたように思う。
私たちの世界に「問題」がありえるのだとして、その「問題」を解決が可能であるものとするならば、
それらはすべて「程度問題」なのだと思う。
「思考をどこら辺まで掘り下げるか、押し広げるか」ということ。10年先の京都について考えるのか、100年先のアジアの事について考えるのか。1000年先の世界のことについて考えるのか。

それぞれによって答えは変わってくるだろう。けれど、それを更に押し広げて「2000年先の宇宙について」「来世について」考えることも可能だし、実際そう考える人たちもいる。

それが10年なのか100年なのか1000年なのかというチョイス。どこまで範囲を広げ掘り下げるのか?ということ自体に「正解」はない、様に思う。
「どうして京都の事を考えないのだ!」という人と「日本国全体の問題としてとらえないと!」という人と「アジアの一員であるという自覚を持てよ!』という人たちの間の論争はいつもナンセンスだ。
噛み合ない。おそらくそういう物が「程度問題」ではない問題、「本質的な問題」なのかもしれない。
「本質的な問題」には「答えが出ない」様に感じる。
答えがでないことによって、永遠に問われ続け考えられることによってそれは「本質的な問い」でありえるのだろう。
たとえば「生きている、死んで行く意味」だとか。

・・・・・
何か解決可能な、又答えの出せる問題があるとするならば、それを「問題」と呼ぶならば、それはすべて「程度問題」だと思う。


選挙、投票というものが、典型的な「思考停止」の装置だ。国民全員で話し合うことは物理的にできない。

私たちは日々、思考を停止して、どこかで思索の範囲に区切りを付け、そのことによって「答え」「結論」「解」を得て、それを指標に行動する。

その「思考停止」「一番広い、一番奥の部分」「答えのでない所」は切り落とされて行く。
「命の意味」だとかをいちいち考えていたら、指一本動かせない。

私たち一人一人にとって「思考停止」は極まともな事だろうと思う。
ただ、その一人一人が沢山集まる場では、その「答えが出ない根源的なもの」の切り捨てが、何度も繰り返され、沢山集まって、結果、戦争が起きたりもする。
その時の体感はまさに僕が上の行で書いているように。
「戦争を起こす」のではなくて
「戦争が起きる」ようにして。

・・・・・

私たち一人一人が「まとも」でいるためには、たえず「思考停止」をし続けていなければならない。
でもその事によって、「集団である私たち」は「まともとは思えない結論」に到達する事が起こりえる。

誰かが邪悪なのではなくて、これはシステムの問題だと思う。

・・・・

「うーん。つまり、俺にもうまい事説明でけへんのやけどな。でも、あかんもんはあかんやろ」
というようなこと。ただの同語反復でもいい。
そんなものが効力をもつ「距離」「近さ」がとても重要だろう。

ある程度の距離が離れてしまった人には、もう「正しさ」しか伝わらない。そしてその「正しさ」とはいつも「なにか、答えが出せないぐらいの大きな物」を切り捨てた結果に出されたものなのだ。

「光」と「温度、匂い」との違いだろうか。手触りとしては。

それの届く距離。温度、匂いが感じられる半径の中に、どれだけ身を寄せ合えるか。
身を寄せ合うと、摩擦も起こるし、自分の好きなように動いたり出来ない。
これが「絆」で「しがらみ」なんだろう。面倒くさいヤツ。

「個人の自由」は阻害される。

・・・・・・・・・・

選挙の結果がどうなるにせよ、日本はまた新しい段階に入るのでしょうね。面倒くさいなぁ。
でも面倒くさいことをやらなさ過ぎた。というのは38歳の反省。

さぁ。今日もラップがんばろう。

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