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休みがないことと、楽しかった金曜の夜と、弱法師

職場の若手が急遽やめたことと、
金替さんが壁の花団の今週末の公演で休みに入った事のあおりで、しばらく昼の仕事を休めそうにない田中遊です。
昨日今日も土日出勤でした。来週の三連休のどっかで休めれば良いのですが・・・。
でも来週末の壁の花団は本当に楽しみでそれを心の糧にがんばろうと思います。

今週末も極めて充実しておりました。
金曜夜は
石田大(地点)
藤原大介(飛び道具)
岡嶋秀昭
そして僕の飲み会でした。
19時から居酒屋で飲み始めて、まぁ飲みますねみんな。僕もうだめなんですけど。
大ちゃん(石田の方)のマンダの話しがmvpでしょうか。まじめなお芝居の話しはあんまりしませんでした、かも?
いがいなんですけども、大介さんと大ちゃんとか飲みの席としては「初顔」だったみたいで、またこんな機会を何度も作りたいなぁと思いました。幸せな時間でした。

が、次の土曜日、僕は朝五時起きだったので、もう無い後ろ髪を引かれる思いで午前1時頃においとまを。
その後盛り上がったんだろうか?気になる所です。

最近自転車にハマりつつ有るのは案内の通りなのですが、その日も自転車で行ってまして、家に帰ったのが多分2時頃でしょうね。なかなかつらい土曜日の朝でした。

重たい体を引きずって仕事の後の土曜日夜は、芸術センターで、豊島由香さんが出演されていた「ドラカン」のお芝居を見に行きました。
懲りずに自転車で(笑)家から小一時間かかるんです。ですから見終わった後家に帰るのにまた小一時間ですね。太り様がないぐらいに運動している田中遊です。


<><><><><><><><><>

ドラカンの演劇の感想を書こうと思います。

僕は、基本的に「パフォーマー同士のアンサンブル」ということが大好きなのです。演劇の場合、狭義にはパフォーマーとは「俳優」です。広義には「照明、音響、映像、舞台美術」も含まれますが。

その意味において、今回のドラカンのお芝居は僕はとても面白くなく見ていました。
その広義に置ける所で「俳優←→映像」「俳優←→照明」「俳優←→音響」というアンサンブルは有ったとは思うのです。しかしそれら「広義のもの」のハブになって欲しい「俳優←→俳優」のアンサンブルがなかった。あり得なかった。という意味において、随分と僕の嗜好とははなれたものでした。
また「広義」の「俳優←→映像」「俳優←→照明」「俳優←→音響」にしても「リズムに合わせて歩く」とか「きっかけの音がなると空白が空く。そこに台詞を入れる」というような、言ってしまえば「段取り」レベルの事であった。あれが、毎回俳優の音声化する台詞の場所が違ったどんなにか、ライブだったと思います。そうかきながらそうであった可能性もあるよな・・・と思い始めてますが、少なくとも見ている僕はそうは思いませんでした。映像のオペレーターをいれて、サンプラーをその人に預けとけばできない事ではないですね。俳優は「いつ自分が台詞を話さなくてはいけないか分んない」という張りつめた状態でいて、その日のノリでどの台詞を俳優に言わすか判断して、キューの音を入れる。とか。あ、面白い(笑)
もちろん、あれだけの情報量を「段取りレベル」であれ制御することは難しいことだとおもいます。それが簡単な事だと言いたいのでありません。ではなくて、なんにせよ「face to face」な感じを受けなかった。舞台上にそれがない舞台に隣接する客席にいてもやっぱり、その作品と「face to face」ではいられない。

だから、それを必要としてないのだろうし、その意味で僕は「招かざる客」なのだろうと。そう思うしかなかったというのが正直な所です。

面白く感じた箇所は何度も有りました。
それは「映像」と舞台上との差異=「時間」、ズレ。
のようなものです。そのズレが妙に気持ちが良く、あるいは悪く感じられてはっとする瞬間は何度もあったのです。
映像の中の俳優の表情が、「今舞台上で起こっている事を見ているリアクション」に見える瞬間だとか。
なんかねじれた感じ。

「弱法師」のいろんなバージョンがコラージュされている感覚。
それ自体はとてもとても僕好きなんだと思うんですね。そのコラージュされる感じとかは。
なら何でそんなに面白いと思えなかったのだろうか?

なんとなくでいうと「興味」と「愛」との違いかもしれない。

演出の「興味」はすごく感じる。それはなんか面白いもので、それが表出される形もちょっと面白い、他にはないものだったろうと思う。
でも、「興味」以上に、突き詰めていってる感じを受けないのだろう。僕がね。

小学生が夏休みの宿題で作った工作のようだと、自転車をこぎながら思いました。

もう、それは発想も、自由で楽しい。牛乳パックとか割り箸とか家で捨てるもをくっつけはっつけしてロボットとか作ってる。
メグミルクのパックで作った胴体の赤色
ガリガリ君ソーダの袋で作った上着の青色
何故か蝉の死骸が顔の部分に付けられてたり。なんかほんとすごいじゃないですか?子供の作るものって。センスが。

見てる大人は「あっ」という。か沈黙する。賢しい大人は「子供の自由な発想ってなんて素晴らしいんだろう」なんて言ってみせる。

いや、ポップで良いとは思う。実際、本当になんどか持って行かれる瞬間は有ったのだし。そういう演劇があっていいし、しかるべきだと思う。(僕は俳優のアンサンブルが見たいから嫌いだけれど)

ただ、その「斬新」と「ポップ」という二律背反を同時に持つような「子供」の所行は、つまるところ

「興味」に裏打ち、駆動されている。
「直感」といってもいいだろう。
(※いうまでもなく、筒井さんがそうなのかどうかは僕は分らない。僕が見ていてそう感じたという事で)

例えば、「時間のつながり」というようなものがヘソなんだという決意があったのなら、そこに対して徹底的な考証、トライ&エラーが行われるべきだと思う。

映像自体が編集されているわけだから、そこにある「選択」があった事は間違いない。
しかし、それが、本当に「なんどもなんどもやってみて、『これしかない』」ということだったのか?という感覚がある。
つまり実際の舞台上の「俳優の振る舞い」と「映像」との差分。
それこそがヘソだとするなら、そこの検証はちゃんとなされて、デザインされてたのか?
それでも僕は何度も「あ、気持ちいい」とか「あ気持ち悪い」と持ってかれた時間帯があったし、その部分に関してはぼくにとってはハマった位置関係であったのだけれども、その差分を1時間強ちゃんとデザインしようとしていたのだろうか?というのは、僕は疑問だ。編集した映像を稽古場に持ち込み、あたり、「これじゃない」と再編集し、又あたり、音を入れて、又辺り、編集し、辺り、音を入れて・・・。つまり
「なんとなく」
じゃなくて
「きちんとデザイン」したんだろうか?

たまたまハマったんじゃないのか?という気がしてならない。
たまたま家の牛乳がメグミルクだったからあの赤色だったのじゃないかと。

なんか、その「時間」というものへの興味が一番で、そのデザインに最大のカロリーを割いていたならあんなに音響はかけっぱなしにならないのではないか?という思いも、これは後からし始めている。

音響がほとんどかかりっぱなしなんだけれど、これは

「映像の音」も「舞台上の俳優の声」も等しくかき消す

という意味において、「第三面」「第三極」となっている。

つまり、ほんとうに多層的な表現になっているのだ。ミルフィーユみたい。それは本当に僕好きなんだ。
でも
『音響の世界」
「舞台上の世界」
「映像の世界」

「映像と舞台上」という「関係」「対立」「対比」の構図
に音響をあれだけかかりっぱなしにすることによって、
「状況」にしている。

俯瞰の目線を観客に要請しているのだ。
けれど。

つまりそれぐらい大技なわけです。「映像」にしても「音響」にしても。観客の目線の起点を規定する。
照明なんてもっともそうです。「これを見なさない」ってことだから。

そこらへんのことをですね。つまり沢山のファクターを「超天才的なスコア」によって制御されていた。とは思えないんだな・・・

なんとなく、こんな感じじゃないっすか?
で、やってみますか?

というような。
いや、それが悪いわけじゃないと。それは本当に思う。
そうなの。だってそうだって。
そんな、全てクラシック音楽のコンポーザーの様に、全てのスタッフワークが頭の中で、鳴り、照らし、話し、映すようなことは、ないのだろうし(それこそ本当の天才なら有るのかもしれないのだが)
だから
「まぁ、やってみましょう」
は、決して悪い事ではない。し、全然嫌いじゃない。


ただ。それならば、そこで「コラボ」する感覚。「アンサンブルを作る意識」は必須ではないだろうか?

「よっしゃ、わからんけど、やってみまひょ!あんたどうでっか?あたいこうでっせ。あぁ、じゃあ今日はこんな感じでっかいな?」というよな。影響し合う。され合う。
その為にアンテナを最大限に貼る。
出力と入力を同時に最大限おこなう。

その「欠片」も俳優から感じられなかった。
いや「コラボレーションするぞ」という意識を「映像」「照明」「音響」などから感じられるような強者では僕はないので、感知出来うる唯一のファクターが俳優だったという事なのだが。


「興味」で、とっついて、それでもなんか人を引きつけるものを作ってしまうセンスというものは、それだけで賞賛されてしかるべきだろうと思う。
だから、今回の芝居に関しては、本当に好みとして「俳優それぞれが個人作業をしているように見えたので僕は嫌いでした」ということだけです。
その上で、たとえそれが「俳優」に向かうものでなくても「興味」が度を超して「愛」や「執着」になったとき。
その時には必ず、「運動」「震え」が起こるものだとおもうのです。

自分を愛する人は、自分を嫌うし、克己せんとします。そのように実際に変化して行かなくても、変化しようと身悶え震えています。
そういう「運動」「エネルギー」は、僕の考える「お芝居」には必須のものです。

「演劇」にはいらないものかもしれません。
「演劇」も嫌いじゃないのですがね・・・




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