高槻のおばちゃんが亡くなった。
金魚さんのことを書いてた昨日の今日なので、なんだろ?何だか不謹慎に思える。

とても綺麗なお顔だった。
何かとおこずかいをくれた。
「そんな薄情なこといわんといて」と言うのはぼくがおばちゃんのことを思い出す時に一番に出てくるセリフ。

おこずかいを断った時に
晩ご飯を断って帰ろうとした時に

高槻のおばちゃんだったけど、ぼくにとっては「京都の人」の代表だったのかもな・・・

「そんなん言わんといて、おばちゃんさみしいなるよ」

ね。

ズブズブのベタベタの、裏に回ったら陰口の、そんな親戚付き合い、近所付き合い、村社会。
を捨てる(捨てられる)代わりに僕たちが手に入れた「自由」って、絶対的な至上の価値ではない。なんてことは、こうしてはれておっさんになったから、(そして消費社会の限界が見えてきた今)思うのだろう。

不自由を受け入れよう。
この人の為なら。
この人と繋がっていられるのなら


そんな風に思える繋がりがあるのなら、それはよっぽど「自由」なんかより価値がある。
と思う。

小遣いを辞退することで、僕は
おばちゃんのバインド力を薄めようとしていた。それをおばちゃんは
「さみしく」感じた。「薄情だ」と思った。(そうだよね)
浅はかな僕は、それを「僕が小遣いを受け取りやすくする為の方便だ」と
考えた。でも、きっと僕も奥の方では感じていた。それが本当に本音で、つまり彼女は本当にさみしいのだと。そしてそれが怖かった。いや赤裸々に言えば面倒臭かったのだ。

僕がたいそうに言ってみせるところの「自由」というのは、その実、「面倒臭さのキャンセル」という卑小なことなのだ。情けない・・・

絆が大事だというなら、それは当然自由とトレードオフの関係にある。

・・・・・・・・・

合掌

コメントの投稿

非公開コメント

twitter
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
最新記事
リンク