俳優の意識。意識としての俳優

本日は劇研アクターズラボ スキルアップクラスでした。
僕が講師をするのは来月9月の19日からですが、今日は岡本さんの一回目ということで参加してきました。先月の平岡さんの一回目も参加したのですが、その時に比べ当然のことながらメンバー同士が打ち解けていて、そしてまた「何かここで学んで行くぞ。」というような空気が全員の気持ちとして感じられたように思えて嬉しかったです。
平岡さんが2回目3回目と良いレッスンをされたんでしょうね・・・

講師が変わっての今日から三回。又どんな事を吸収していくのでしょうか?9月19日に会うのが楽しみです。

タイトルはちょっと大きい話で、それ含めて書こうと思ったのですが、今日はなんか、乗らないので、以下箇条書きで・・・

1極論すると、「俳優がうまくなるにはどうすればいいか?」という問いへの答えは「一日24時間のうち、どれだけ長い時間「俳優」でいられるか?」という事だろうと僕は思う。

2「『俳優でいる』とはどう言う事か?」

3「俳優としての意識を持っている事だろうと思う」

4「それはなにか?」

5「人への興味。どうして私はこのように話すのか?どうして彼はこの言葉を選んだのか?どうして彼女はああいう風に微笑むのか?あの人は何を感じ、その人はどう働き、隣人は同じ風景を見て、どんなことを思い描くのだろう?ということ。」その興味からくる考察、観察、そして実践。(実践とは、関係を変えて見るだとか。声を大きく出してみるだとか、姿勢をよくしてみるだとか)

6「人への興味」は更に言い換えると「人への愛」であるとおもう。

(余談)僕が俳優が好きで好きで仕方がないのは、「人への愛」を持っている人たちだからだと思うのです。

7「人への愛」「人への興味」を強く持っていれば、レッスンを受けなくても、ワークショップに参加しなくても、「演技のサンプル」「自分の振る舞いへのヒント」は日常にいくらでも見つけられる。レッスンやワークショップというのは所詮、「サンプル、ヒントに気づきやすいように矯正された場所、時間」にすぎない。俳優の意識が有ればそれらは日常からいくらでも引っ張って来れる。逆にいくらレッスンやワークショップで強制的にある気づきを促されて、一時獲得したとしても、それで日常が変わらなければ、そのような感覚が再現される事がなく放置されれば、それは流れ去って行くだろう。忘れられてしまうだろう。

歌手志望の男がいるとする。良い声を出したいとする。ヴォイストレーニングを受けるとする。トレーナーの教え方が良く、その回、彼は「何かを掴んだ」とする。腹筋や横隔膜の使い方、大胸筋の力の入れ方。それらいろんな事のバランスが絶妙にハマり、「おっ!」という発声法がその時できたとする。彼は自宅に帰ってその感覚を反復するだろう。それが自分の体に馴染むように。それが普通だ。そしてそれ以外にない。もし彼が「あ、これで掴んだ」と思って、その後自身の生活の中でそれを反復する事がなければ、結局身にはつかないだろうし、ついたとしても、何度も何度もレッスンをうけなくちゃいけないだろう。

8 ヴォイストレーニングとかダンスとかで考えれば当たり前の「自分自身での日々のトレーニング、反復」が演劇なるとどうしても言い落とされる。台本があれば「台詞を家で覚えて来なさい」ということなんだが、そうじゃなくて「スキルアップ」とかいうことになると、「日頃から意識して○○しなさい」というようなことが、本当に意識的に言い落とされる。が、これはおかしなことだと思う。※スキルアップであるのなら。

9 しかし逆に言えば、「きちんと俳優の意識を持った」人間に取れば、「それがどんな内容のワークショップ」であっても、勉強になる事、参考にできる事は、沢山ある。山ほど気づきがあるだろう。それは日常生活でよりも、「クローズアップされている」という意味に置いて、(ワークショップ、レッスンの方が)どんないようであっても、勉強になる、力になるはずだ。例えばそれが「みんな違って、みんな良い」系のワークであったとしても。
※僕がダンスのワークショップに行って、「これ、僕の芝居で言うたら、どういうことだろう?」と考えるのと同じだろう。

10 なにしろ「意識」だ。意識が改革される時というのは、大体、「やむにやまれず」だ。入院してタバコをやめるとか。大病をして生活習慣を変えるとか。離婚して夜遊びをやめるとか。

11とするなら、彼ら彼女らを「もう意識を俳優としてのものに書き換えざるおえない」という状況においてあげる事が一番なのか?

12それはどういうことだ?

13まずは宿題かな・・・


・・・・

うん。これでも丁寧に箇条書き出来たと思うが、また気が向けばゆっくり丁寧な言葉で書きたいです。うん。

『「みんな違ってみんな良い」系のことで、スキルアップははかれない』
ということではありません。意識が有れば、それはとても有効に機能する。
また「スキルアップ」という前提を外せば、それはそれ自体でとても素敵で有意義な時間です。

だって、大前提ですから。
答えは一つじゃないこと。
一つの事にいろんな側面があり、ある角度からすれば素晴らしく良く、ある角度からすればひどく悪い。
それを理屈ではなくて「実感できる」ということはとても素晴らしい事だし、普段霞んでしまいがちなその「大前提」を足場にしてその上で動いてみるというのは、良い事です。日常のサビを落とす意味でも。

ただそれは、野球で、「はい、これがホームベースね。そして・・・(トコトコと歩き移動する。地面を指差し)で、これが一塁ベース。また・・・(トコトコと歩き移動する。地面を指差し)これは二塁ベースだ・・・(続く)」というようなこと。それで野球のスキルがアップする事はない。たまにそこに戻ると「野球」というスポーツへの理解は深まるだろうし、又その基礎確認行動によって、なんかの天啓をうけ、結果バッティングフォームが改良される。なんて事が起こらないとは言い切れない。が、まず直接的な事ではない。

きっと、それなら八重樫(知らんよね・・・ものすごく癖のあるバッティングフォームの人だったんだよ)から「バッティングってのはだなぁ・・・」という、「八重樫以外の人には決して流用でできない打撃技術」のレクチャーを受けた方がいんじゃないか?と、僕は思う。まだそれは直接的だ。次元が同じであるから、「俺は八重樫とは違う」という少なくとも消去法の一歩目は踏み出せるのだし、もう少しクレバーな人なら「八重樫よりも、バットを何度起こして、オープンスタンスを矯正して・・・」という風に実際の加減法で自分の技術へと繋げて行ける可能性がある。

むろん、その場で「八重樫のフォーム」を無理矢理自分に矯正してしまい、大失敗する人。
が出てくる危険性は考慮されてしかるべきだ。

しかしそれは、「考慮され」「うまく回避される手はず、やりかた」を編み出されるべきものだ。
危険だから「うん。何でも良いよ。どれでも素敵だ」というは、※(繰り返しですまんが)スキルアップとしては、良くないのではないか?と思う。

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