ぎゃー!!サンプル

水曜日。雷雨の予報にコシが引けてユニバーサルスタージョ行きを断念。
数ヶ月前から休みを合わせて家族三人で行こうと思ってたので無念きわまりないが、「雷雨」ってちょっとどうよ?と思って。石塚さん(学生劇団の仲間。現ユニバの人)からいただいたチケットが今週日曜までなので、なんとか土曜にリベンジしたいが・・・・。雨?ままならぬ。

で、水曜。台本は相変わらず書き出せぬまま。発泡酒飲みながら本読んだりしながら、「あ、そうだ!」と。
すっかりあきらめてたサンプル見に行けんじゃねーか!ついでに劇研の本予約もしにいきゃいいし・・・。

そんなで夕方まで散々ダラダラした後、劇研へ。でサンプル「自慢の息子」観劇。

ぎゃー!!!おもしろーい!!!

空間が歪んだりすることはないのですね。それはないんです。
ある「額縁」なのか「箱」なのかにきちんと収まっている。それはなんだろう?あるコードというか慎みというのか。
そういう「慎み深さ」の内部に成り立つ「悪ふざけ」というか「どうしようも無い感じ」だから、たのしいのでしょうね。見ていて。笑っているお客さんも沢山いた。


「「神話」と「儀式」と「子供のママゴト、ルール」とが幾層かの世界を接合する。」

接合というよりは癒着させる。
子供の遊びってのはとにかく面白くて、僕もそんなことからお芝居を作れりゃいいのになぁと今も思ってるんだけれども、子供の話すことや、儀式っぽいママゴトというのは基本的に「神話っぽい」のです。多分それは現実の世界を何かに置き換えた結果出て来たコラージュだから。

隣のおばさんが、「白い牡馬さん」になり、僕が「父ちゃんで、白ヒゲのくまさん」に置き変わり、去年の夏の天橋立旅行は、来週の予定に変わり、目的地がお菓子の国になったりする。

単純なメタファーとして置き換わるのではなくて、時に脈略無く。そして、それらが並んだ時の因果関係もその「置き換わり」に影響を与えていく。
つまりはすごく多次元なんです。

ヤマタノオロチは「何本かの川」で、「荒れ狂う」ってのは洪水だろう、という解釈が成り立ちます。
で、「川が大洪水した」ことのメタファーとして「ヤマタノオロチが荒れ狂う」。という時間の流れ、解釈の流れ。これは僕ら大人が馴染んだものです。
でも、この「一方通行」はよく考えると何の根拠も無い。
「ヤマタノオロチがのたうち回った」から「洪水が起きた」のかもしれない。というかそれでもいいじゃないかとおもうのですね。その方が楽しい。

神話だとか、聖典だとか。は常に、「直接的に指し示されていること、と同時にその、背後にあるそれとは違うこと」を求めるように、読み手に要求します。そして重要だと僕が思うのは、単純にそれを「暗号」として受け取ってしまうと、「損しちゃうよねきっと」ということです。

直接的、表面的に指し示していること。(また、その一段階前に、その「表しているテキスト自身」も)。を「ある隠された心理へ到達する為の扉」として受け取ってしまうのは非常にもったいない。そこにも確かに意味があって美しさがある。
同時に、多次元のいくつもの所を照射してるんですね。
で、そこに時間が流れると、
aという次元での「起」がbという次元で「承」され、cという次元で「転」じる。「結」はなんだろ?わかんないけど。

そのようなコラージュがスムーズに行われえるのが「神話」や「子供」や「外国語」だろうとおもうのです。
それはとてもスリリングで楽しいなぁと。

・・・・

別の切り口ですが、ティムバートンは皆さん好きだと思うのですけど、あんな感じを受けました。でもだとすると、素直に結婚して良かったと思うのです。これは本当に!ぜひあのまま結婚してほしかった(笑)バートン的にはです。

・・・・

昨日の晩からまたぐぐっと考え過ぎているのですが、あいだを随分ショートカットして今考えていることは、やっぱり演劇は「時間の芸術」だなぁということです。
「時間論」の無い演劇にはあんまり興味を持てないのかもしれません。ぼくは。

再現出来ないからね。とか、バラシってあっという間だね。とか。ロングランとかいろいろ言うんだけども、真剣に「時間論」を考えて演劇を作っている人はどれ位いるのだろう?

「時間は実在するか?」とか。「タイムマシン」についての思考実験とか。
「時間」とは一体なんなのか?ということ。を考えて演劇してゆきたいなぁと。ちょっと思っています。

「神話」というはその意味で優れて「時間」に関わるものですよね。ニットキャップのこの前の「さらば箱舟」もそうだったけども。今回の最後の台詞「どこにでもいますよ」ということでしょう。つまり「どの時間に置いても当てはまる」。いいかえると、その「神話」の世界において「時間の帯が折り畳まれている」ということでしょうか。
多声的に、一度の一つの声で「多く」をてらしてしまう言葉、声。そういうものは実は「時間をゆがめる」ことについて大きな力を持っているじゃないだろうかしら?

「母と息子」は、
その「母と息子」であると同時に、一般的な「母と息子という関係全般」でもあり、だとすると「私の母と私」であり1920年のツンドラのどっかの「母オオカミと息子オオカミ」でもある。

その塩梅なんだろうね・・・
正(タダシ)があそこまで終始一貫して「タダシ」であるのであれば(そのカウンターバランスとして)もっとなにかがばらけたり破綻していたりした方が、僕としては気持ちがいいバランスだったと思う。同じシーンが繰り返されるだとか。役を変えて同じ台詞が交換されてやられるだとか。
あいやどうだ?タダシがロストされることになってもいいんじゃないか?最後「タケシの国」になってるとかが好みかなぁ(笑)

いやまぁバランスとなると本当にこれは難しい。舞台美術からお客を客席にいれること、終わり方まで含めてですもんね。


なにせおもしろかったです。



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