企画書を書いていると、なんか頭が整理されてくる。整理されると気持ちのコントラストがきわだつ

企画書などを書いてました。本当は昨日中にやっつけたかったのだけれども・・・
頭の中のウジャウジャしたものがいろいろと整理が着くと、「ようし!」と気持ちが上向く部分と、「そうなんよね・・・」と下向く部分がはっきりします。ゼブラ模様の気持ちで夜からはこのしたやみのリーディング公演を見てきました。最後の挨拶で二口さんがおっしゃってたように、実は京都であんまりやってないこのしたやみ。ことしも、三重、鳥取、東京とあちこちに飛び回られるそうです。うらやましい。

西陣ファクトリーガーデンは正直者の会で沢山お世話になっている場所です。今年の七月の公演でもお世話になります。そんなでなんというか、いろいろと考えもっての観劇となりました。
「リーディング公演」という言われ方がなんだか、気持ちがいいのか気持ちが悪いのか?えーとつまり(リーディングであれ、「演劇」であれ)どちらにせよ「台本」はあるわけで、それを「覚えて声に出すか」「文字を見ながら声に出すか」という違いなんですよね。で実際いわゆる「リーディング公演」であってもほとんどテキストは覚えちゃってるわけですし、場面によっては「テキストが書いてある物(本とか、今回のこのしたやみであれば巻物)に目線を落としているのかどうか?というような、つまり、やってること自体に大差はない。のです。と思うのです。で、そういう「溶けて混じった空間」に僕が今やりたいこともあるという気がしていて、だから今夜の演目も非常に興味深く見ていました。
俳優の発話の仕方、イントネーションの置き方、体重の掛け方、些細な仕草。そういう細かいもの一つで、観客のフォーカスをかなり操作することができる。これは、「朗読」「読み上げる」という行為が、「その時のその会場」に確かに在る。ということによってです。「話す人と、聞く人」という関係がリアルタイムでその場に進行しているから、ちょっとしたことで、いろんなことを操作出来る。
あるいは「演劇」として舞台上で、そのストーリーだとか、「世界」が、一旦閉じてしまっているもの。「閉じているという約束」の物で行われるものよりも、なんというかナイーブというか。「劇世界は閉じています」という約束(その実そんなことは決して無いのだけれども)によって、射程が遠くなるということは勿論あるのだけれども。
例えば今夜の客席が赤い布で囲われていたらどうだったろう?とか、いやあざといか?とか。(「赤い部屋」という江戸川乱歩の小説のリーディング公演でした)

なんか、いろいろ「不純(?)」なことを考えながら、それでも最後にはきちんと巻き込まれているという。ちょっと楽しい体験でした。

明日は「ココロカラダンス」を見に行く予定。

そう、目下、僕を暗い気持ちにさせるのは「台本、でなくとも、なんか材料になるテキスト」を書かないと、あるいは集めないといけない。のに全然集まってない。ということなんです。気持ちだけあるんですが、気持ちだけでは進まないので、いっこうに進んでません。結構台本も書いて来てるはずなんですが、本当に毎回「今まで僕はどうやって書いてたんだろう?」とわからなくなります。わかんないときはいろいろ見に行くのがよろしい。というわけで。

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