飲み歩いてるとかじゃないですよ。本当に。
金曜日。
落語会鑑賞終わりのごまのはえ、市川さん、藤原夫妻と合流し、飲み会。
あとからワークショップ終わりの山口さん、二口さんも交えていろいろお話。
ごまさんとお話ししたのが久方ぶりで、楽しかった。ニットキャップのこの前のは本当におもしろかったので、うん。話せてとても良かったです。
終電前でごまさんと市川さんがお帰りになり、その後四人。店が閉まるまで粘って、3時前だったのかな?
平均年齢40歳の4人ですよ。
二口さんがね。「鴨川で飲むか?」ですよ。
あの・・・。
バー鴨川は僕は多分五年ぶり位でした。二口さんに連れられて若い演劇人が幾度もかよう、店、ではなくて、ただ川原なんですが、3月初旬は、ないだろう。この四人でか?
というのがなんか面白過ぎたんでしょうね。コンビニでカップ酒を買ってですよ。なにやってんでしょうかね。
20分もしたらもう、芯から冷えるのですね。体中の関節の、なんだろう、軟骨一個一個が固くなる感じ(笑)
30分経過した頃に、無言で藤原大介が、立ちあがりーの、離れていきーの。しばらくかえってこずに、遠くで「オェー」って聞こえーのですよ。
すべては終電で帰らなかった僕が悪いんです。で、別にタクシー乗れば良かったんです。
でもなんかつい口が滑って「始発まで暇つぶして帰りますわ」と行ってしまったが為に、お三方が気を使ってくださって、「まぁつきあうよ」みたいな流れになったんです。
僕が悪い。猛省します。
主にごまさんがかえってからは、ひたすら「俳優の作業」の話しをしてましたねー。あんなんもひさびさだったなー。
役との距離感、批評性のあり方。とかが焦点で。大っきな話しとしては「俳優の勉強会つーか、組合みたないなもんができんかね」とかね。いや、その話しは前々から実はふんわりあるのですが・・・
去年の文芸の「林檎の・・・」という芝居の企画はやっぱりとても良くて、意味があったなぁと。それは外から見ていてもそう思ったし、そういう世代をまたいだ付き合いが俳優の中であった方が、そら「お得」だなぁとはおもうのです。
どうですか?
「え?でもそれってただの飲み会じゃないんですか?」
そうなんです。そこがね・・・(笑)
でもまた考えたいなぁと思うんですよ、本当に。
僕らにしかできないことかもしれない。
土曜日
元ラボメンバーとのミーティング。
これはもう宣言しますが、とりあえず、動き出します!やったね!
細々したことはまだまだこれから詰めないと行けませんし、「やってみた、むずかしかった」になるかもしれません。が、なにしろ再起動する条件は共有出来たので。
今年、またやります。同じようなメンバーで。田中の作品です。(あ、台本書かなきゃなんだよね)
メンバーを募集するかとか、そういうことも含めてまた決まり次第ボツボツとお知らせしてゆきます。
劇研アクターズラボというものがあって、その「教室」というところから離れて一つ「お芝居をする人たちの集まり」が続いてくってのは、本当に本当に喜ばしいことだと思います。続くかはやってみ無いとわからないですけど、にしても、すばらしい。そうやって演劇をする人が増えていって、見に来る人も増えたりして。牧歌的ですが、そういうことっていいじゃないですか。僕はいいと思う。
応援お願いします。
・・・・・
ついでに続けると、「演劇の力」というものは、「その面倒臭さ」にあるのかもしれないとも思うのです。
面倒臭さを共有する集団。それを支える為の個人のスキル。集団のルール。その積み重ねの時間。
で、そう言うものが、そのまま舞台上のクオリティーに直結する。
「効率」というものとは、縁遠いものだなぁと。改めて思います。
「経済的効率」からも遠く、「芸術的正解」というのも規定出来ず。でもその中で「集団」であること「集団で居続けること」。つまり「正解かはわからんが何せこっちの方に進もうか?」「そうだね。そうしてみようか?」というようなこと。そしてそれを「機嫌良くやってくこと」。いやぶつかってもいいですよ。たまにはね。でも基本として「機嫌良く」やってないと、それこそ意味が分からない。
そして「機嫌良くやる」ことが人間のパフォーマンスを上げる最適の方法だと思うのです。「愉快でいる」とか。
「火事場のクソ力」は長続きしません。「飴と鞭」ではパフォーマンスがあがらないのは、それほど人間は馬鹿じゃないからだと思います。
「「飴」は美味しいけれどそれは正解か?」
という問いを、避けて生きていけない。
「最終的な正解のなさ」に常に私たちは直面している。でもそんなこと言ってても腹は減る。そうだ。そうだけれども、それでも
[「どうなったらより良く生きられるのか?」について私たちはよくわかってない。(し、おそらくわからないまま死ぬのだろう)]
ということを無視した地点から出てくる言葉は、全て上滑りして聞こえる。
もちろん「あえて」無視をして物事を進めないと何にも進まないという局面も、そう言う規模の話しもあるだろうとは思うけれど。
何の話しかわからなくなりました。
なんせ機嫌良く愉快にやってゆきたいです。
「機嫌よく」「愉快である」ことに、まじめに取り組みたい。真剣に取り組みたい。
血眼になって必死で、「愉快さ、機嫌良さ」をキープしたい。
ということ。を共有できる人たちとこれからも、お酒飲んで話ししたいなぁ・・・(やっぱり酒かよ)
落語会鑑賞終わりのごまのはえ、市川さん、藤原夫妻と合流し、飲み会。
あとからワークショップ終わりの山口さん、二口さんも交えていろいろお話。
ごまさんとお話ししたのが久方ぶりで、楽しかった。ニットキャップのこの前のは本当におもしろかったので、うん。話せてとても良かったです。
終電前でごまさんと市川さんがお帰りになり、その後四人。店が閉まるまで粘って、3時前だったのかな?
平均年齢40歳の4人ですよ。
二口さんがね。「鴨川で飲むか?」ですよ。
あの・・・。
バー鴨川は僕は多分五年ぶり位でした。二口さんに連れられて若い演劇人が幾度もかよう、店、ではなくて、ただ川原なんですが、3月初旬は、ないだろう。この四人でか?
というのがなんか面白過ぎたんでしょうね。コンビニでカップ酒を買ってですよ。なにやってんでしょうかね。
20分もしたらもう、芯から冷えるのですね。体中の関節の、なんだろう、軟骨一個一個が固くなる感じ(笑)
30分経過した頃に、無言で藤原大介が、立ちあがりーの、離れていきーの。しばらくかえってこずに、遠くで「オェー」って聞こえーのですよ。
すべては終電で帰らなかった僕が悪いんです。で、別にタクシー乗れば良かったんです。
でもなんかつい口が滑って「始発まで暇つぶして帰りますわ」と行ってしまったが為に、お三方が気を使ってくださって、「まぁつきあうよ」みたいな流れになったんです。
僕が悪い。猛省します。
主にごまさんがかえってからは、ひたすら「俳優の作業」の話しをしてましたねー。あんなんもひさびさだったなー。
役との距離感、批評性のあり方。とかが焦点で。大っきな話しとしては「俳優の勉強会つーか、組合みたないなもんができんかね」とかね。いや、その話しは前々から実はふんわりあるのですが・・・
去年の文芸の「林檎の・・・」という芝居の企画はやっぱりとても良くて、意味があったなぁと。それは外から見ていてもそう思ったし、そういう世代をまたいだ付き合いが俳優の中であった方が、そら「お得」だなぁとはおもうのです。
どうですか?
「え?でもそれってただの飲み会じゃないんですか?」
そうなんです。そこがね・・・(笑)
でもまた考えたいなぁと思うんですよ、本当に。
僕らにしかできないことかもしれない。
土曜日
元ラボメンバーとのミーティング。
これはもう宣言しますが、とりあえず、動き出します!やったね!
細々したことはまだまだこれから詰めないと行けませんし、「やってみた、むずかしかった」になるかもしれません。が、なにしろ再起動する条件は共有出来たので。
今年、またやります。同じようなメンバーで。田中の作品です。(あ、台本書かなきゃなんだよね)
メンバーを募集するかとか、そういうことも含めてまた決まり次第ボツボツとお知らせしてゆきます。
劇研アクターズラボというものがあって、その「教室」というところから離れて一つ「お芝居をする人たちの集まり」が続いてくってのは、本当に本当に喜ばしいことだと思います。続くかはやってみ無いとわからないですけど、にしても、すばらしい。そうやって演劇をする人が増えていって、見に来る人も増えたりして。牧歌的ですが、そういうことっていいじゃないですか。僕はいいと思う。
応援お願いします。
・・・・・
ついでに続けると、「演劇の力」というものは、「その面倒臭さ」にあるのかもしれないとも思うのです。
面倒臭さを共有する集団。それを支える為の個人のスキル。集団のルール。その積み重ねの時間。
で、そう言うものが、そのまま舞台上のクオリティーに直結する。
「効率」というものとは、縁遠いものだなぁと。改めて思います。
「経済的効率」からも遠く、「芸術的正解」というのも規定出来ず。でもその中で「集団」であること「集団で居続けること」。つまり「正解かはわからんが何せこっちの方に進もうか?」「そうだね。そうしてみようか?」というようなこと。そしてそれを「機嫌良くやってくこと」。いやぶつかってもいいですよ。たまにはね。でも基本として「機嫌良く」やってないと、それこそ意味が分からない。
そして「機嫌良くやる」ことが人間のパフォーマンスを上げる最適の方法だと思うのです。「愉快でいる」とか。
「火事場のクソ力」は長続きしません。「飴と鞭」ではパフォーマンスがあがらないのは、それほど人間は馬鹿じゃないからだと思います。
「「飴」は美味しいけれどそれは正解か?」
という問いを、避けて生きていけない。
「最終的な正解のなさ」に常に私たちは直面している。でもそんなこと言ってても腹は減る。そうだ。そうだけれども、それでも
[「どうなったらより良く生きられるのか?」について私たちはよくわかってない。(し、おそらくわからないまま死ぬのだろう)]
ということを無視した地点から出てくる言葉は、全て上滑りして聞こえる。
もちろん「あえて」無視をして物事を進めないと何にも進まないという局面も、そう言う規模の話しもあるだろうとは思うけれど。
何の話しかわからなくなりました。
なんせ機嫌良く愉快にやってゆきたいです。
「機嫌よく」「愉快である」ことに、まじめに取り組みたい。真剣に取り組みたい。
血眼になって必死で、「愉快さ、機嫌良さ」をキープしたい。
ということ。を共有できる人たちとこれからも、お酒飲んで話ししたいなぁ・・・(やっぱり酒かよ)