ブログ書き始めてから一番ひどい記事かもしれない。です。

午前中。玄関を開けると消防車がウチの棟の真ん前に止まってる。そう言えば昨夜なんか下に張り紙がしてあったな。「駐車禁止」と。ウチの市営団地は、きっぱりと無法地帯なので、団地の住人が好きな所に車を止めてる。多分自治会などを通して証書をもらってなどあるのだろうが、基本「ウチはもう何年もずっとここ止めてるから、ここは私の駐車スペースです」という世界なのだ。そういう無法地帯であるからして、「駐車禁止」の張り紙も勿論無視される方が何人もおられ、結果、団地内に響き渡るマイクの声。「7棟の前に車とめてらっしゃる方!どけてください。消防車が入れません」。多分5棟の屋上に取り付けられた拡声器はこういうとき位しか使われない。夏の地蔵盆の時期と今だ。今日は「団地まつり」の日だったのだ。

消防車は、「団地祭り」の実はハイライトで、ダミー人形のマイケル君に心臓マッサージをしたり、人工呼吸をしたり、果てにAEDで電流流したり(しかしダミー人形に電流流すほど、バカみたいなことはないなと今日みて実感。勿論ぴくりともしない訳で)のデモンストレーション。続いてはしご車が3棟の屋上に取り残された人(という設定の消防隊員)をはしご延ばして救助!「立ち入り禁止」のテープが貼られたり。
全く走らない緊張感。消防隊員さんたちは、やはり真剣に取り組んでいただけて、それは有り難いのだが、いかんせん住民のわれわれが、どうにものほほんとしてるもんだから。
伸びたはしごの先端のバケツに乗った隊員が「大丈夫ですか?あなただけですか?」
と「取り残された人」に声をかける。
「はい」と取り残された人。
その下5階のベランダで毛布を干す、オバア。オバアよ。空気を読め。防災意識もへったくれも在ったもんじゃない(笑)
「うるさいなぁ」ぐらいの感じだもんね。まぁでも、こうして、団地の人々が集まるってのはいい事だと思う。
実際消防の方がおっしゃってたが「例えば大地震が起きた時、私たちはおそらく、ここにはたどり着けません」
そうなのだ。
本当に。
地域の集まりってのは大事だ。そのつながり。その束縛、メンドクサさ。そのセンスの無さ。

何しろ、10人のうち7人はオジイオバアだから。ウチの団地なんて。誇張じゃないよ。本当に。
ハイライトの消防隊員が去った後、「子供みこし」とか、ウチの娘もやったけど、15人位ですよ。子供。しかも「団地外の近所の子供」とかも入ってて。
みこしが「わっしょい、わっしょい」団地一周して帰って来ると、「焼き芋」「カレー」、子供は「駄菓子詰め合わせ」「お絵描き帳」も更にお付けしてっ!券と引き換え。
そこにいる7割がいわゆる老人なんです。
でもその人たちとの、つながりが、どれだけ重要か。ということを考えるんです。

「外に対してオープンである」「他人に影響される事をおそれない」「ブロックしない」「開かれて、常に動いて行く。それを快とする」
そんなことを演技の現場、俳優の仕事で、芯に据えてる私が、どうしてTPPが苦手なんだろう?と。←「え?その話?」ええ。その話です。

小さい頃にオヤジが僕に言ってたことがあって。曰く
「昔はな、京都と九州で戦争してたようなもんなんや。今から考えたら阿呆みたいやろ?なんで九州の人間と京都の人間で殺し合をせなあかんねん?な?そんな風に、いつか遊が大人なったころに、『何でアメリカとソ連で殺し合してたんやろ?あほみたいやな」って言えるようになると思うよ。世界は一つになるよ」
そうなろうとしてるのだろうか?なんかそう言う刷り込みがあってだろうけれど、やはりEUには夢を感じるし、aseanとかいいなーと思う。何世代も先、国際結婚が進み、混血が進み、誰も彼も見分けがつかなくなれば、紛争はなくなるのか?その時に民族的なアイデンティティーはどうなるのか?いろいろわからない。「多様性」は確保されるべきだろう。「豊かさ」とは本質的には「多様性」のことだと思う。そのためにはハイブリッドが必要だが、交配がある一定以上に進むと、雑種間の差異はなくなって、逆に均一化に向かうだろう。
オヤジが夢想し、僕にすりこまれた「一つになった世界」はそういうものだろうか?エバンゲリオンを実は一話もみた事無いが、なんかそう言うことなんだろうか?何を言っているのだろうか?

あ、ひさびさに、わけわからん感じで進んでるけど、もういいか。

「排他的」であること。「止まる事」「変化しないこと」コレすなわち「死」である。
諸行は無常であって、止まったとこから枯れていく。一人で芝居する役者はつまんないし、価値がない。

が、「日本という国が世界に開かれて行く事」が、どうしても、体に来ない。
そらそうか。そうだな、うん。「私」は「日本」ではないからだ。
インターネットだとかで、世界に直に繋がってるという。facebookで遥か遠くの異国の友人と繋がっていると。
それはいい事だ。だが、隣人とはどうだ?向こう三件両隣は?

個人であること。は、コミュニケーションを潤滑にする。そこに体があるから。
北朝鮮の人とだって、「人対人」ならきっと(もう少しは)仲良くやれる。体があるから。
実際に「人」とあって、そいつと話したり、あるいは話せなくても、目を見たり。同じ空気を吸うだけで、何かが繋がれる。
「一つになった世界」とは、つまり「全ての地球上の人々、一人一人が、あらゆる組織枠組みから独立を果たした世界」ということだ。ろう。
個人個人が「電話」の様に、ある瞬間繋がっているのはいい。だが、持続しては行けない。それは「止まる事」にほかならない。それは「グループ」を作る。グループにはウチと外ができる。ウチと外は対立して喧嘩をするかもしれない。
そこでは、多分うまくコミュニケーションがとれるかもしれない。その前にそんな世界は来ないが。
「全員、バラバラで、ヒトリづつである」
「そのこと、を共通項として、私たちは単一のグループである」
ということ。

その時に、醍醐南団地の自治会は一体どんなことになるのだろうか?(あー・・・・)
「互いが監視し合い」「互いが悪口を言い合い」「互いが『あの人もやってはるから」とルールを破る」
そういう村的な集団。
「よその子も自分のこのようにしかって時にしばき倒すおばぁちゃん」も「毎日毎日公演にいて、子供にあめ玉を配っているおじい」も、そういう所にしかいない。

肌。触覚。
そのような物を最終的に信用する。僕は。しかし、「個人でいる事」によってそれを必ず確保するよりは、「肌感覚がギリギリ保てる」範囲まで「私」を拡張するべきじゃないだろうか?
それはなんでか?
なんでだろ?「楽しちゃいかん」という思いがある。身の丈よりもちょっと延ばした所。に関係して行く事で、変化する。あっちが出っ張りこっちがへっこむ。そのへっこみに、又誰かが手を伸ばして。なんかそういう風にしてジグソーパズルのように繋がる。
粘着質、しがらみ、停滞・・・・
そう言うものをすっきりきっぱり捨ててしまって「はい、田中遊、個人です。誰にでもオープンです」というのは、「都合が良すぎる」だろうと。
ああ・・・。そういう感情論なんだろうか?違う?・・・

集団に属するということは、一つの成熟であって達成であると思う。
「私たち」でいるよりも「私」でいる方がずっと簡単だからだ。
簡単で何が悪いのか?

わからない。これはちょっと考え続けよう。『「簡単」なことは「悪い事」だ』という猛烈な直感がある。僕には。それがどう言う説明がつく物なのか。この先も。

おそらく「世界は簡単じゃない」から、だと思う。人間も簡単じゃない。なのに「アタマの中。脳」でもって簡単にしてしまう事は、結果、物事を悪い方向に向かわせるのじゃないだろうか。


しかしシンプルな、簡単なことが功を奏する局面も確かにある。
規模が大きくなると、シンプルでないと通用しない。

午後から京都文化芸術会館で「林檎の木の真ん中の心臓」というお芝居を見て来た。
俳優さんの空間の支配力について考える。もっと小さい空間で成立する「演技=俳優の身体表現」が僕は好きだ。複雑だから。でも、文芸になるともうそんなのはナイーブすぎてへの突っ張りにならない。大雑把に、僕より年上世代の俳優さんが、晴れ晴れしくかっこ良く見えたのに対して、僕と同年代、あるいは年下の俳優さんの、主に背中の方に大きく空いた空間に「空疎」を感じる。舞台上でその俳優が支配している「体積」の違い。つまりステージ上が広いし高いから、いくらその俳優が上手(舞台向かって右)にいても、その更に上手に相当な「空白の空間」が在って、そこがもう埋まらない。僕たちでは。そこを埋める為にはある、「あきらめ」「腹のくくりかた」が必要になる。物事を単純にする事。そしてそのことに長けた先輩たちが、とても素敵に見えた舞台だった。菱井さんとか・・・。「あんなおばちゃんいそう!」って、絶対いないのに思うんですよね。いやあんな人は「舞台の上」にしかいない。のに。そうおもっちゃう。平岡さんは相変わらずかっこいいし・・・。氏田さんも、にやにやせずに居れない佇まい・・・。なんだろ。つまり演技が「思わせぶり」なんですね。そんな事を何百回もやってきて、その結果、「何を言っても、何となく何か深い気がする」ような台詞の言い方が出来るようになっちゃんたんでしょうね。これはすごい事です。そしてある何か大きな「感動」を生む事も可能だろうと。

そう。規模の大きさはシンプルさを要求するのです。シンプルであると人の心は動きやすい。
だから小泉元首相は「抵抗勢力っ!」って連呼したのです。

世界。社会。
いろんな言い方が出来ますが、結局は人の集まりです。(コレは不遜ですね。地球には人間以外にいっぱいいますから。でも仮にそうしましょう)だから結局「人の心」が動かないとなんにも動きません。
人の心を動かすためには、シンプルである方がより効果的です。両論併記でなく、あるシンプルな合い言葉。一つのベクトル。
そこにとても危険を感じるのです。嘘くささと、それに多くの人が乗っかってとんでもない方向に走り出した物の、重いもんだからストップ効かない。トカイウ悪夢。

でも「結局TPPって金の話だろう?」って。なんか引いてしまうのと同時に、「規模が大きくなるってことは、つまり簡単な話しか通用しなくなる」ってことだろうと思うのだ。「高いか安いか」それだけ。

あ、何の話だ?

・・・・・・
まとめ。


「林檎の木・・・」は随分楽しめた。豊島さんの姿勢が前がかりなのがおそらく「悪い癖」だと思った。朝平さんは、もっとなんとか出来たんじゃないだろうか?


団地の集まりには今後も極力出ようと思う。引っ越したい。本当に引っ越したいけれど、でも、実際近所のオジイオバアが娘に声をかけてくれるこの環境は、きっと恵まれているのだと思うから


『TPP」に反対の立場の人を「排他的」「ガラパゴス」と非難する事には、もう言いようの無い抵抗を感じる。
いや、僕は本当に今まであらゆる現場で「オープン(マインド)」を語って来たし重要だとも思っている。「他によって変わる事を恐れない。それこそが、自分を高めてくれる」と。しかし今回は完全に「金」の話だ。「自分が高められる」のではない。自分の価値を高められるのではない。「経済的に、価値が高まる」のだ。
「金(かね)的に、経済的に高まる」ということは、「効率が良くなる」ということ。

どうすれば効率が良くなるか?
ファクターを単純にする。規模をでかくする。

資本主義経済の要求として、ドンドン規模が大きくなってきている。そう言う事だろうと思う。で、これがもっと大きくなる。そうならざるを得ない。
この先、このように「単純化」「規模の拡大」は続くのだろう。経済が「効率」を求める以上当然の事だ。
地球上の通貨が統一されて、あらゆる企画が統一されて、・・・・・


まとまらない。けどそのままあげてみよう。

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