祝、合流!

戯声についてまとめようとして、結局去年かきはじめて、まだまとめきれていないbigpictureにくっついてしまいました。

なんか嬉しい気持ちはあるのです。つまり演劇をやっている最初の衝動のようなものと、今やっている事が、繋がった。ということが。
いや勿論繋がってない訳はないのですが、かなりクリアーに繋がった。これは今後続けて行く上での力強い推進力になってくれると、そう思います。

bigpictureは、初期衝動。私という人間は何を快としているか?とかいう一番奥から積み重ねてきた文章です。
戯声についてまとめようとした文章は、まさに今。一番上の地表から掘り進めた文章です。砂場の山に反対側からそれぞれ掘り始めたトンネルが、真ん中辺りでようやく繋がったと。そういうことなのです。
が、しかし。このトンネルですが、まだ一般に解放出来そうにありません。あっちこっちデコボコしてるし、落石の恐れとかありますし。一般道として自動車とか通れるようになるのは、一体何時の話だろうか?とちょっと気が遠くなります。
なんせね、ものすごい分量なのですよ。しかも出てくる単語が「四次元」とか「予言者」とか「絶対」「事情」とか「存在」とかね。もちろん「矛盾」も。

ここで説明出来る訳もないですが、ちょろっとだけ書くとスタートが矛盾なんですね。
僕矛盾が大好きなんです。エッシャーとか。あと「ひらがなが、どうも変に見える瞬間」とか、眉毛とかもそうですね。見てるとなんか変に見える。
その時に何がおこってるのだろう?とかの考察。エッシャーの絵というのは、どう言うことが起こっているのか?とかから、二次元上に三次元を圧縮して表現する過程で、ある技法によると「矛盾している」と錯覚させることができる。というような話から、「存在」というのは「四次元(時空)的な現象」だということ。どんな薄い紙にも厚みがある。だから二次元は想起出来るけど実際にはないように。三次元もないこととか(紙の薄さほどのかすかな時間であっても、そこに時間が流れればそれは四次元時空の振る舞いであるから)
形而上学での三次元はあり得るかもしれないけれども、すくなくとも四次元時空に振る舞う私たちの認識の対象となるもの。つまり「私たちにそう認識させるもと。光源」は三次元ではない。それもまた「四次元時空での振る舞い」であること。しかし私たちは「今」という(それこそ紙の薄さに例えられるような)薄い薄い時間でもって認識をしている。そこにはやはり圧縮作用があるのではないか?紙の上に風景を描くと、「奥行き」が圧縮される。同じように、四次元時空の振る舞いを「今」の上で認識するという「私たちの普通に感じている世界」は「時間」が圧縮されているのではないだろうか?であるならば、ある演劇的手法によって「矛盾」を発生させる事は可能かもしれない。

私たちの認識の対象は「四次元時空の振る舞い」つまり「事情」としてある。「私という事情」
系である。「私、父、母、妹、したの妹、妻、子ども」という系がある。(存在しているという混乱する)また「私、豊島さん、岡嶋さん、朝平さん」という系もある。
「わたし、わたぼうし、わたなべつよし」という系もある。
「わたし、あなた、かれ、かのじょ」という系もある。
様々な系が横たわっている。「自我」はその上空を飛ぶ飛行機のような物で、その上を進みながら地形の連続写真を撮って行く。連続してとり続けて行く。今の分だけの面積を写した写真を。
たまたま「私」として見つけられた物が「私という事情」なんだろう。私は「私であったり」「わたしでなかったり」して私である。桜が花を咲かせて、散って、葉をつけて桜であるように。
そこにあるのは「事情」「関係」である。系。流れ。関係。それはとても不安定で、流動的である。諸行無常。
しかしそれじゃ不安だという人も居る。沢山居る。
関係の最小単位はペアだ。「それ」と「それじゃない」「これ」と「非ーこれ」。
関係の中にしか見つけられない「それ」「これ」「おれ」。それらが「ある」ためにはかならず、「非」がなくてはならない。輪郭線がなくなるからだ。それで全てになってしまう。「これ」が「これ」である為には(僕は今のところ形而上学でもそうだとおもうのだが)「非コレ」を必要とする。しかし、「石ころ」が「石ころ」である為に「非ー石ころ」、つまり「石ころ以外の全て」がなければならないというのは、ちょっと何でなんだろうと思う。石ころは石ころだけでも石ころだろうと。
でもそうなると、「石ころ」はその内に「非ー石ころ」を内包していなければならない。
それは「石ころである」と同時に「非ー石ころ」である。ザ、矛盾。
さてどうしよう。困る事は何もないのだが敢えて困ったフリをして進んでみる。
「相手によって変わるもの」とか「関係の中でその姿を変えるもの」とかじゃなくて。そういうふやけたあやふやな物じゃなくて、移り変わらない、どんな時でもそこにそうある、船乗りにとっての北極星のような物が欲しいじゃないか?どこかにないか?ないなら作っちまえ!
そうだ。最低限である「ペア」すら必要とせずに「それがそれで居られるもの」
「ペア」つまり、「対」
「対」を「絶する」
絶対。
絶対神、単一神というのはこういう経路だろう。だから一神教の人らは多神教の人らを「思索行程の一段階前の人たち」として軽く見るのだ。

しかしだ。「絶対」つまりナニモノにも影響されない。ナニモノからも絶たれたところにある「絶対神」「唯一神」は、つまり、「私たちには関係ない」のだ。
絶してるから。関係を。
つまりその神様が、どうしてようが、私たちには何の影響も関係もない。
あってはならないのだ。神様の声なんて聞こえてはいけないのだ。その時点で絶対じゃなくなるから。姿が見えるなんてもってのほかだ。本当は想像だってしちゃいけないし、名前を呼ぶなんて、とてもとても・・・。

でもそれじゃこまると。(何が困るのかさっぱりわからんのだが、仮にそうすると)
「絶対」と「私たち」を接合する物が必要になって来る。
これはとてもアクロバティックな作業だ。だって、繋がっちゃいけないものをつながなきゃならんのだから。

神の声が聞こえる人。予言者だったり。
奇跡ですよね。まさに奇跡的なわけです。

で、あぁそうか。つまり「矛盾」とは「奇跡」のことなのだ。と。なんかバカみたいに今更な事に気がついて、随分私は力が抜けてほっとして、とても嬉しくなったのです。

エッシャーの有名な絵で二階建ての建物の絵。その側面に梯子がかけられていて一階二階に人が居る。一見普通に見えるけどちょっとみると、それがとても不自然な事がわかる。一階と二階がはしらでつながれているのだけれど、「あり得ない箇所」同士がつながっているのだ。



つまり一階と二階をつなぐこの柱が「神の声を聞く人」だ。アクロバティックな。
「ナニモノをも貫き通す矛」も「ナニモノをも通さない盾」はどちらもそれ単体では「矛盾」ではない。その二つを接合するもの、引き合わせるものがあって、初めて「矛盾」になる。
「矛盾」と「奇跡」は一つの物だ。

「矛盾」「奇跡」を舞台上で起こそう。でもシルクドソレイユみたいな身体能力もないし、マジックできるほど手先器用じゃないし。
「矛盾」の代表選手。「それはAであり。同時にBである」
「それはリンゴであり同時にミカンである」
そのような世界。それがあり得るのは「四次元」なので、

そうだ!「四次元演劇」をつくろう!

と、思ったと。これがbigpicture。衝動から掘ったトンネル。
戯声から掘ったトンネルは、コレまでの正直者の会をさかのぼって行く。「スナップスコップ」「届かない所」「非常口」「円卓」「ラジカセの一人芝居」

そうなんです。初告白かな?豊島さん、朝平さん、古野君には言ってたけど。そうなんです。「四次元演劇」にしたいんです(笑)
自分でもびっくりですよね。なんでしょうね「四次元演劇」って?タイガーマスクですね。我ながら・・・・
それを通り一遍舗装して、補強する作業というのはどれ位のコストを払わなければならないか?
コストというのは、僕の場合「睡眠時間」と言い換ることができるのですが、さてさて?

ただ、「戯声入り口」の方から進めた文章は、ある距離までと区間を区切って、結構早急に舗装整備して、一般開放しないとまずい。
つまりホームページに乗せてもいいぐらいにトリートメントせねばならんのです。
それを昨日までにするつもりだったのですが、ちょっと、繋がりそうになって「掘り進める」作業に熱くなってしまったあげく、入り口の辺りですらまだ石ころがゴロゴロしてる。

ぜひがんばって書きますので、又見てやってくださいね。
今日は実家に帰って来ていて妹夫婦と父母と奥さん子どもとご飯を食べるので、寝ちゃいますが。

ええ。絶対10時間以上寝てやりますとも





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