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壁の花団のこと

今回はまとまる気がしないので、まとめる気を起こさずつらつらとダラダラと書こうと思う。

水沼さんに「『島の話は卒業…』って言ってたのにまた島に戻ってきたんすか?」って言うたら「お前こそ、いつだってラジカセだろ?」と返されたのが多分三、四年前か。

「壁の花団での俳優の演技は、どう言う演出つけて、ああなってるんすか?」って聞いたら「いや演技のカラーというか手法として演出から何か注文をつけていることはなくって、公演を重ねていくなかでなんか自然とこういう形になってきた」と答えてもらったのは、五、六年前か。

去年はリーディング形式の公演で、満を侍したのか機が熟したのか「ランナウェイ」@theatreE9kyoto

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いきなり核心から入る。
例えば今回のお芝居の登場人物の役名が「サンマルチノ」ではなくて「三田浩三」であればどうだったろう?ハラペーニョスは「原田さん」「コンスタンサ」は「紺野さん」、トルティーヤスが「富田さん」だったらどうだったろう。

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去年のリーディング公演では(「元ネタ」というと語弊があるんだろう)創作にあたって強くインスパイとされた小説を紹介していらっしゃった。南米だったか、アフリカだったか、なにしろ、海外の小説であって、それが起点になってこのランナウェイにも繋がっているからして、役名もそのような、つまり日本人ではない名前になっているのだろう。書いている本人(水沼さん)からすれば、それが特にどうということはないのだろうと想像する。普段から(これまで描かれてきたものの)役名についてことさら「日本人である」ことを印象付けよう、と思ってつけられていることはないだろうから。手元に水沼さんの台本を持ってはいないので詳しく調べることはできないけれど、「男」「女」とかが多いのではないかしら?わからない。「◯男」「○子」とかもありそう。なんせ、水沼さんにすれば「一郎」と「サンマルチノ」との違いはさほどないんじゃないかしらと想像する。「ハラペーニョスでもいいけど、まぁ、周りとのバランス考えれば、和夫でいいか」というぐらいのことなのかもしれない。

でも、これは違う。違った。見た私の印象は随分と違った。

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俳優の演技と関わりがあると思う。

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壁の花団で(多くの)俳優が(多くの時間)やっている演技は「コンテクストを削る」という方法だ。

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余談として、私が学生で芝居を始めた時には、もう楽しくて仕方がなくて無我夢中。の時期を過ぎて「演技ってなんだろう?ちゃんとしたいな」と、少しでも思った人から「コンテクスト」って目の前にバーンと。なんでした。はい。「コンテクストって何?」って聞こうものなら、「可哀想な人」みたいな目で演劇仲間からは見られた、そんな時代です。

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さておき。水沼さんのやや癖のある(この「癖」は純粋にナチュラルなものではなくて、水沼印というか、嫌な言い方をすれば「ノリピー語」みたいな(ああ、おそろしい。わからない人がどれほどいるだろう!杉ちゃんの「〇〇だぜぇ~」みたいなことではあるのだけれど。止むに止まれず滲み出る。「方言」というものではなくて、なんか気持ちの良い音の出かたといった感じではなかろうか。)テキストを<コンテキストを極力抜いて>発話する。
と、どうなるか?
「変な人」になる。「頭ちょっとおかしい人」「子供のまま大人になった人?」という具合。

「奇妙な人たち」がまずいる。奇妙な人たちはシリアスだったり悲惨なことをいなしたり、捌いたりしていく。いるように見える。しかしそれは「見えている」だけで、<そうではないかもしれない>

この<そうではないかもしれない>という保留によって水沼作品の深み重みは担保されている。

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俳優の、多くは間、そして顔の表情や、小道具などの扱い配置、そしてもちろん照明などによって<そうではないかもしれない>は劇中、幾度も提案される。その度に私たち観客は「あぁ、この人は単純で鈍感でバカなふりをしている。が、その実、全部をわかっていて、すごく悲しくて、だからこそ、こんな「バカ」な振る舞いをせざるをえないのではないか?」というような幸せな誤読(?)をするようになる。

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多く時間、俳優の演技のコンテクストを消去するによって、逆に「いや、裏があるよね」と期待させる、想像させる。というと、「能楽者の能面の扱い」に近く思えるけれど、程度の差はあれ原理としてはそのようにして「壁の花団の演出論理」はあると思っている。

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その時に役名が「サンマルチノ」であるか「三田浩三」であるかは随分と違う。距離感の問題だ。私にとって「サンマルチノ」よりも「三田浩三」の方が近い。気がする。

だから俳優が演じているものが「子供じみている」「頭悪そう」「変な人」だった場合の違和感が「三田浩三」の時の方が、「サンマルチノ」に比べて大きい。「サンマルチノ」なら「まぁ、そういうサンマルチのもいるかもね」という、つまり抵抗が減る。

しかしこの「普通そんなことはないよね」という抵抗こそが、俳優がちょっと作る0.2秒の間に対しての観客の想像力を流し込む動機だったりするのだ。

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「サンマルチノやハラペーニョスによる物語は、私(田中遊)の常識、想像をはるかに超えるであろう」という前提は、水沼さんが思っているよりも大きく観客の「想像力を流す原動力」を減退させるのだと、僕は考える。そこに「そんなわけないよね?普通」という違和感があるからこそ、「言葉ではそういっているけれど、その裏は?言葉にしないけど想いはあるだろうね」という想像力を流し込むわけだからして。

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ケの抜けた炭酸のような印象。
壁の花団はこうではなかったように思う。
でも多分その感じもあるからこそ、ラストシーンがある。その意味があるのだと思う。

そこで「アヒージョ!」(じゃないな。内田さんなんつってたっけ?)
と呼ぶハラペーニョスの極めて「ウェットな」セリフが、もろに刺さる。のは、多分それがないと、ちょっと芝居を終われなかったからだろうと邪推する。

ケの抜けた炭酸

役名が日本人に聞こえるものにしていれば、それで万事おさまるというようなことでないのはわかっているが、本質はそこにあるような気がしている。

水沼さんの描きたい戯曲、世界、と俳優の演技方法が、これまでの壁の花団では、うまく一致し高度に機能してきた。(だから好きなんだ)

が、仮に水沼さんが今後「世界作家」を目指すのであれば、とか「やっぱり島から出る」のであれば、とか、わからんが、その際に求められる「俳優の演技の質」は変わってくると思う。

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水沼さん自身俳優をされるわけで、壁の花団の俳優がやっている「リズム」というかが、随分気に入っているのだろうとおもう。むしろ、その「リズム、呼吸」が成立する台本を志向しているのかもしれない。
だとすれば今回の「ランナウェイ」は演技の質にはフィットしてなかったと思う。

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例えば姿を見せたサンマルチノとコンスタンサが話すシーン。あそこでコンスタンサの演技がもっと「ノイズ乗っかったリアリスティックなおっさん」であればどうだったろう?
また逆にあれが「今野さん」だったらそんな必要もなかったと思う。

このしたやみ「猫を探す」

このしたやみ「猫を探す」観劇。
なんだかすごく久々にじっくりとしっかりと「作品」を見たように思う。その「世界」を。「語り」地の文がふんだんに使われた戯曲なので小説を読んでいるのに近い(でも違うけれど)印象を受ける。つまりその「擬似小説の世界」をしっかりと見せつけられた。
山口さんの演出はいい意味で諦めているというか割り切っているなぁといつも思う。脚本の一番良いところを一番良い角度から見せること。それ以上の無茶をしない。「食材が良ければ蒸し焼きにして塩かけて食うのが一番うまいよね」っていうような。無論僕の印象と想像です。実際山口演出の作品に出演させてもらったのは多分一度きりですから。「蒸し焼きで塩かけて」って簡単なようでそんなわけはないのですよ。お分かりかと思いますけど。「色々演出で新奇なもの、特殊なことやりたくなるの」や「自分色を出したくなるの」を諦めることは、駆け出しであれば別にして、おちついて真摯に作品に向き合えるようになれば比較的簡単なことです。難しいのは、調理法がシンプルになればなるほどその「蒸し時間」や「塩加減」や「盛り付ける器」なんかが大きく味を=作品の成否を左右する所です。「最小限の加工で、最大限の成果を得る」その匙加減は並大抵じゃない。経験だけでもセンスだけでもできない「技」だろうとおもうのです。山口さんの「技あり」って感じがしました。

 広田さん二口さんは、相変わらずと言ってはなんですが、この二人、台本が古典だろうが新作だろうがあんまり関係ないと思います。お二人ともお役者おバカなので(敬語。お二人とも先輩)真摯だなぁと。嬉しくなります。正座をし向かい合って互いの「聞いて欲しい事」を聞き合うシーン。まずゆうみさんの「拝聴します」の少し顎を上げた姿勢が美しくて可憐で。その後の二口さんの少し顎を引いた姿勢も勁くて大きくて。でも「とっておきの食材(広田二口)」って考えるなら、そろそろ違う料理方法でもいいのかも?…どうだろう。台本は変えられても俳優は変わらんしなぁ。それは別の座組に求めればいいのだろう。

 で、山口クッキングでシンプルにストレートに美味しく届けられた(ように私には感じた)「猫を探す」の世界です。こふく劇場の永山さんの手によるもの。(こふく劇場はアトリエ劇研にきてくれた「水をめぐる」のみ拝見したことがあります。ホームページ確認したら2008年ですって。ほんとかよ…)「寓話」として受け取れるのがもっともコンフォータブルだったでしょう。ただ私にとってはこのお話を寓話だと受け取るには障害がいくつかありました。一つには近年、宮崎含む九州の方で水害が多く起こっていること。もう一つは地の文では「ケンゾーは」と三人称を使ってはいるものの、実質ケンゾー(二口大学演じる大学の事務局員)の「一人称」であるから。それが言い過ぎだとしてもすくなくとも書き手の男性-性が満ち満ちていて観劇しながら「これ女の人はどんな気持ちで見てるんだろう…」と意識が膨らんでいったから。


 本当に奇しくも今日、読む本を家に忘れて職場にロッカーに放置していた桐野夏生の「I'm sorry,mama. 」という文庫本をカバンに突っ込んで劇場に向かいました。開演を待つ客席でそれを読んでいたわけです。でお芝居が始まって、あらそういえば「不倫中に子供が行方不明になった話、桐野夏生あったなぁ」って。タイトル思い出せなくて帰って調べたら「柔らかな頬」でした。「柔らかな頬」の主人公は不倫中に娘が失踪して長い間見つからない女性です。彼女は娘を探します。その「中身、思考、精神」のもうぐちゃぐちゃの超高密度の多種多様な、層の、エリアの、そのゆっくりだったり唐突だったりする移ろいを桐野夏生は(あやふやな記憶)表していたように思う。(本日見てきたばかりのお芝居のセリフなのにこちらもあやふやで本当に失礼な話。すいません)対して本作では「女は体の奥に空洞があって、その空洞はとてつもなく深くて広くて暗くて光を当てることすらできない。そこでは『さびしい風』が始終吹いている。」とケンゾーの友の幽霊→の姿を借りたケンゾーの意識は、そう認識し表明する。
ちょっと、びっくりするぐらい振り切れて男性的です。

山口演出によって作品が極めてストレートにダイレクトに伝わった結果、怒って文句を言ってくる女性客もいるんじゃないだろうか?と少し危惧するぐらいに、それはそれはなんというか…
男性である僕は「なんとなく腑に落ちかけて」、それでゾッとしたんです。「これ女性はどんなふうに見てるんだろうか?」と。

そこで、この台本、女性演出家でやってみたらどうなるんだろう…。と。これはちょっと見ものじゃないかと思います。無言の食事を済ませた後、お風呂にはいる「フサコ(?でしたよね)」の立ち位置や向きは違って当然だろうと。むしろそっちが見たいですよね男性としては(いや、ゆうみさんの裸が見たいってことじゃないよ。まぁ見たいけどさ)
そうなんです。あそこで二口さんの「坂の途中で立ち止まっちゃって、苦し紛れかやけくそかで短歌をガナル」の見せても。って。私は男性だということもありこれでも腑に落ちたんですが、本当にみたいものは逆かもなと。「坂の途中で登るのも降るのもできずに立ち止まった男がみっともなく短歌をがなっている声を、すりガラス越しに聞いている全裸の年嵩の女性」が、その表情が見たい。…


言葉足らずの結論としては「寓話」では足りない。という程度です。多くの寓話には何かの教訓があります。でも「教訓がなければ寓話ではない」わけでありません。今回の「猫を探す」からも何かしら教訓を引き出そう見つけ出そうをすることはナンセンスでしょう。たださらに一歩すすんで「寓話というより神話なのだ」とした方が座りが良いと思うのです。思えば「水をめぐる」も寓話というより神話に近いような印象が(本当にうっすらです。どんな話だった?って聞かないでください。覚えてません)あります。かすかに。神話のあっけらかんとした残酷さ、極端さ。そのようなものとして「猫を探す」も演出されるべき作品だったのかもしれないと。

それがたとえ
<「六年前の不倫行為中に不幸にして起こった水害で家が流され、娘が行方不明になり(死体が見つからない←ここポイント)自らのうちなる「娘がまだ生きているかもしれない」という希望を持て余し、それに内部から焼かれ、あるいは腐食される(内部被曝って感じかも)女性」の中身>
を直接指しているのでなくても。あるいは
<「大学生。激しい雨の夜に、思いを寄せる自分より20歳ほども年上の男性の自宅に押しかけ、ずぶ濡れの衣服をその男の前で脱ぎ去り、男に体を晒す女性」の中身>
を直接指しているのでなくても。
「女ってものは…」という法外な一般化をしたうえで、その内部に「埋めきれぬ、光も当たらぬ空洞があり、そこには寂しい風が吹いている」と言い放つ。

これはやっぱりちょっと無茶苦茶なんです。空洞なわけがないんです。
「空洞としてしか捉えられない。」
むしろ
「多様多動多密すぎてどうにも捉えられないので、逆に『空洞』と表現した方がかろうじて収まりが良い」
というあまりに共感性も協調性もない、言い訳言い逃れをする気もない、清々しいまでに純粋な男性-性。これはもはや「寓話」というよりも「神話」だろうと。「天と大地が結ばれて大洋や農業が生まれた」というようなとてもあっけらかんとした世界。

神話としての「猫を探す」の上演において、ようやくこの作品に横溢する過剰な男性性も、「ゼウスって実際手のつけられないヤリチンやなぁ…」というような所に着地できるのではないだろうか。とするなら話はぐるっと頭に戻って実は今回、演出山口は「素材の特性を見誤ったのでは?」とか「そうか、美術全体が過剰なまでに白色だったのも、長い時間(歴史)を思わすような砂や、神殿の遺跡を思わすような家の床と柱の一部が舞台セットであったのも、神話性を求めてのことだったのか?とか。………


子供の頃アニメ「トムソーヤの冒険」が大好きでした。布団に入り寝る前に自作ストーリを脳内で上演して眠ると本当に夢に見られて、それが私の演劇原体験です。私にとって「良いお芝居」というのは泣いた笑ったでなくてそれを見て、その後どれだけ妄想がOver Driveしたかということなので、間違いなく「猫を探す」は良いお芝居でした。

一年ぶり。懊悩。

オリンピック開催には反対です。
で、明日僕本番で舞台に立つんです。
そこの整合性が自分の中でどうしてもつきません。つかないのです。
つかないまま舞台には立ちます。昨日も立ちました。
(なんでもスパッとクリアになってるなんてことは小説や映画やお芝居の中でも最近めっきり見かけなりました。せめて我が舞台上にいるからには、と思うのですが、申し訳のないことです)
芸術文化は生きるために必要だ。

スポーツは生きるために必要だ。
は一人、一人の関係では完全な等価です。し、多分この二つで多数決を取れば(取る意味なんてないです)スポーツの方が生きるために必要な人が多いのかもしれません。もうずいぶん減ったかもしれませんが我が小学校ぐらいの頃は近所のオタクの半分ぐらいは夕方6半ごろからはテレビは野球のナイターで。

オリンピックを楽しみにしているアスリートがいて、舞台本番に意気込んでいる俳優がいて。どちらにもスタッフがいる。そしてどちらにもそれを見ることを楽しみにしている人たちがいる。

規模の問題を無視するわけにはいきません。そりゃtheatreE9kyotoの公演とオリンピックじゃ違います。人の流れが黄河と哲学の道の横のせせらぎぐらい?

「原理的な問題」という言葉は成立しません。それが「原理」なのだから問題はありえないのです。
問題があるとすれば。何か答えの出ることを、解を得ることのできるものを「問い(問題)」と呼ぶのであれば、それらは全て「程度問題」です。私は。私たちはあらゆる問題や困難に対して、「程度の問題」として解を出していかなくてはなりません。100:0はないのです。原理ですれ違うと100:100だからそれは永久に解決されないし、それは「問題」ではない。結局は「まぁ真ん中とって」しかない。本当にそれしかない。

ただそれはそうとして「theatreE9kyoto程度ならあり」「オリンピックは無し」のその有り無しの分水嶺はどこにあるのか?私の中で。少なくとも科学的、医学的根拠、エビデンスはない。私にはわからない。全くのバカではないから両者が圧倒的に違うことはわかるし、分水嶺は「theatreE9kyoto〜オリンピック会場」のグラデーションのどこかのポイントにあるのだろうとは思います。(床面積?それって科学的なの?適当じゃなくて?)

その上でまだやはり気持ち悪い。例えるなら
「プラスチックゴミの問題に対処する方法として『コンビニ袋をやめてみる』なんてのはナンセンスだ」
「個人でヴィーガンやったって構造は変わらんでしょ」
「選挙で俺が投票したところでなんもかわらんやん」
と同じ感じ。特に三番目の選挙のことに関しては、もうずっと私、思ってきてることだから。思ってきているというのはうえの反対のことをです。「そう言わずにいきましょう選挙に。何万票だってその一票の積み重ねなのだから」と。(実際発言もしてきたように思います。選挙行きましょうねって)「あまりに大きな多数の全体に対してそんな微々たるものは無意味だ」という声には乗れない。だから筋が通らんのです。「俺らはいいねん。規模が小さいから。オリンピックはやめとけ。規模がでかいから」。でも観客も投票も同じで一人一人が重なって大きな人数になるわけですから。私たちの公演がありお客さんに来ていただけるということで、少なくとも、選挙に例えるなら「一票」程度の人の流れはある。その一票自体はそれこそなんの力もない「たかだか一票、たかだか小劇場の公演」だけれど、結局その一票一票の積み重ねだよ。と私は考えてきたから。「俺一人選挙に行ってもなんも変わらん」という態度と「この小劇場で公演をするぐらいなんも変わらん」とは相似なんです。まいった。ここでも整合性がつかない。
ましてや
「オリンピックやるなら、俺らもやらせろ」
「俺らもやめたんやからオリンピックもやめろや」
ってのはスピード違反で捕まった親父がポリに「おい、今後ろから行ったポルシェの方がスピードでとったやないかい?!なんでワシだけつかまんねん!」って言ってるのと同じように感じる。むろんそこで「制限速度」が分かっているならば文句のつけようもあろうと思う。つまり「規模が200人までなら安全なんだ」「床面積が…」というような。

とはいえ昨日も出ましたし、明日も出ます。お待ちしてます。
なぜか?
舞台の上で答えたいと思います。

ステイホーム演劇論

読む前のご注意
・以下記事は書くのに三週間ほどかかりました。読むのにどれぐらいかかるかご想像にお任せします。
・以下記事は京都市の「新型コロナウイルス感染症の影響に伴う京都市文化芸術活動緊急奨励金」申請を念頭に考えた企画(「演劇」を巡るフィールドワーク)の企画書のために書き始めたところうっかり風呂敷をドーム級にまで広げ過ぎて泣きながら畳んだ顛末です。これをどうして企画書に落とし込むやら、企画書にできたところでそれをまたどうやって申請書に落とし込むのやら途方に暮れています。


現状分析
1 今般の新型コロナウイルス感染拡大の影響により舞台表現活動は中止・延期を余儀なくされています。
2 表現の場を失った舞台芸術人たちによって「現状況下でも可能な表現」の模索は始まっており、主にインターネット上で様々な試行がなされています。
3 しかしそれら試行の多くは「舞台芸術の本質」を取りこぼしていると感じます。<応急処置の舞台芸術><舞台芸術の代替品>に感じられるのです。
4  緊急時には「応急処置」や「代替品」も必要です。
5  ただ現状がいつまで続くのか確たることはわかりません。また、今後いつ再び同じような状況が訪れるかもしれません。
6  したがって「現下の状況でも可能」且つ「舞台芸術の本質を損なわない」→「新しい表現形態」の開発が必要だと考えます。(コロナ禍期間はそれを発見するチャンスでもあるでしょう)

目的
7 本企画はその「新しい表現形態」の開発を目的とします。

設問
Q1.<「現下の状況でも可能」且つ「舞台芸術の本質を損なわない」>表現はどうしたら実現できるでしょうか?

8 かなりの難題です。答えを出すためにこの問いを更に三つに分解します。

Q2. なぜ多くのインターネット上の<応急処置の演劇>は「舞台芸術の本質」を取りこぼすのか?
Q3.多くのインタ…(略)が「舞台芸術の本質」を取りこむことは、どのように困難か?
Q4.その困難はどうしたらのりこえられるか?


9 Q4.への答えがQ1.の答えとなるでしょう。

分析
10 Q2を考えます。
11 「舞台芸術の本質」というものがどんなものであれ、おそらくそれは「表現者」と「観客」の間にあるものだと思います。インターネットであれ生の舞台であれ表現者側が片務的に纏っていたりいなかったりする何かではないと感じます。
12 だから多くの<応急処置の演劇>が「舞台芸術の本質」を取りこぼすのだとしてもそれが「発信者側だけのせいだ」とは言えません。(あるいは「観客をも含めたものが舞台芸術表現だ」という言い方もできるでしょう。)
13 「舞台芸術の本質」は「表現者と観客の間」あるいは「表現者と観客両方を含める空間」にある。…とすればそれはどこか?
14 劇場です。「舞台芸術の本質」は劇場にある。とてもとても当然のことです。だからQ2.への答えは

A2.インターネットは劇場じゃないから

15 です。当然すぎますね…。絶望的な気持ちになってきましたが諦めずに続けます。
16 Q3を考えます。
17 インターネットを例にとりましたが、これに限る必要はありません。目的は「今、できる方法(場所)で舞台表現の本質を実現すること」ですから「インターネット」は→「[今、使えない方法]以外の方法」と言い換えられます。

Q3’「[今、使えない方法]以外の方法」が「舞台芸術の本質」を取りこむことは、どのように困難か?

18 [今使えない方法]というが「劇場」などです。集会が制約されています。いわゆる「三密」などが実質不可能になっている。

Q3’’「[三密]以外の方法」が「舞台芸術の本質」を取りこむことは、どのように困難か?

19 それが具体的に把握できれば、その乗り越え方を発見できるかもしれません。しかしそれを具体的にしようと思えば

Q0.「舞台芸術の本質」とは一体何か?

20 この根源的な疑問について考えなければなりません。現下の困難な状況を手掛かりにそこから逆算してそれを浮き彫りにしましょう。
21 (これは考えてみれば当然のことのなのですが…)
22 現下の感染症拡大の抑止行動によって舞台芸術の本質的な部分、魅力が抑圧されている。(インターネットでは取りこぼしてしまう)のだとすれば。舞台芸術の本質は「ウイルスによる感染症の振る舞いに極めて近い」ということになります。
23 つまり「舞台芸術の本質」→「生の迫力」「一体感」等の言葉で説明が試される「舞台の魅力」とは結局「感染」だ。ということです。
24 この「舞台芸術の本質」を、物理的な病原体による感染、伝染と区別するために「舞台性感染」とします。
25 「舞台的感染」はウイルスや細菌などの物理的な病原体によるものではではありません。(将来「演劇菌」「ダンスウイルス」が絶対に発見されないとは断言できませんが…)
26 しかし「舞台性感染」拡大が発生するのは物理的感染(コロナウイルス等の)を促しやすい環境(いわゆる三密状態など)と同じです。
27 逆も然り。物理的感染が抑制される環境(インターネット上など)では「舞台性感染」も発生しづらい。ですから…
28 「舞台性感染」には物理的な密度、距離が大きく関係をしてる。でも「物理的感染」ではない。
29 ということになります。感染以外にも何らか物理的システムがありえますが、ここはあえて少し飛躍をして
30 「演劇的感染」は「物理的な条件に左右される、非物理的システム」だとしてみましょう。
31 Q0.への回答として、ウイルス感染症を比喩的なモデルとして取り込んだ一つの仮説を立ててみます。

仮説

(仮説)A0.舞台芸術の本質(=「舞台性感染」)は『精神的ウイルス』の伝染であり、観客の『精神的発熱』を伴う。

32 『精神的ウイルス』は物理的ウイルスをモデルとして精神に当てはめたものです。
33 ウイルスには自己複製能力はありません。その増殖には(人間など)宿主の細胞の機能に完全に依存しています。
34 逆からいえば宿主は取り込んだウイルスを主体的に増殖させます。
35 ですからその「ウイルスの増殖」「増殖したウイルス」は「宿主=主体の一部」です。
36 そしてもちろんウイルスは宿主にとって「他者」「異物」です。
37 ウイルスは宿主の内部にあり「主体として増殖しながら、同時に他者である」ようなものです。
38 ですので『精神的ウイルス』は「主体として増殖しながらも同時に他者である」思想、感覚、想念などとします。
39 『精神的発熱』は【人体におけるウイルス感染症による発熱と相似する現象が、精神においても起こる】と仮想した時、そこにあるものです。(つまりでっちあげです。本当にそんなものがあるのか私にはわかりません。)
40 「人体の発熱」はウイルスや細菌の増殖を抑えるための身体の防御反応です。体温を上げて免疫を活性化させるのだそうです。従って『精神的発熱』は、<精神的ウイルス>の増殖を抑えるための精神の防御反応です。
41 『精神的発熱』とは(あるいは自分の意識の及ばないところで)精神の任意のレセプターが<未知の思想、感覚、想念>を受容し主体的に増殖を始めるが、それに対して精神がその恒常性を維持する為に発熱すること。とします。
42 <精神的ウイルス>の物理的モデル=ウイルスをさらにデフォルメして例えにすると「飲むと狼人間になってしまう錠剤」のようなものです。私がその錠剤を飲むと、なんと腕にもじゃもじゃと毛が生えてきて狼男に変身してゆくではありませんか。私は狼男にはなりたくないので(自分のままでいたいので)慌てて腕をさすったり、なにしろ慌ててパニックになるでしょう。その時の<錠剤>に当たるのが<精神ウイルス>だと考えてください。
43 自分が今まで感じたことのない思想や感覚想念が(あるいは気がつかない間に)心の中に入ってくる。それが全く自分が受け入れられないような思想、感覚、想念であれば、それは自分の中で増殖することはないでしょう。でもそれは、どこかで理解できる。あるいは今まで気がついていなかったけれど確かにそういう素質を自分が持っていたそんな精神のありようです。だから自分はそれを受容し、またそれを増殖させる。すると世界の見え方、感じ方が今までと変わっていく。これは「別の人になる」つまり変身するのです。
44 精神的な変身に対する、戸惑いやパニック。そして恒常性を保つための防衛。それが『精神的発熱』です。

想定される反論
45 これに対して「いいやそんなことはないぞ」と、想像できる一つ強力な反対意見、主張をあげてみると
46 「舞台芸術の本質は、そんなややこしい話ではなくて、時間と空間を共有する一体感じゃないのか?」というものです。
47 (これは言われてみればごもっともな気もします。劇場やライブハウスに集まれずにパソコンの画面の前に集まっている観客が一番損なっているものは、単純に考えて一体感じゃないか。と。だいたい「舞台芸術の本質」が何か一つである必要も必然もないのです。その人がそう思うならそれでいい。でもせっかくなので敢えてこの「一体感」を<精神的ウイルス>というアイデアを使って説明してみたいと思います。)
48 確かに劇場での一体感やそれに伴う昂揚は確かに劇場に特有のもので舞台芸術の大きな魅力の一つと言えるでしょう。
49 「たしかにそうである。そしてそれは<精神的発熱>による効果ではないか?」と。「より本質的な<精神的発熱>に付随して現象するものが「一体感」ではないか?」と考えます。
50 (どうしてそうなるのか説明しますと…)まず、「一体感」は「自分は全体の一部である」という自己認識です。
51 だから「一体感」を感じることが可能な主体は「(全体の中の)一部」なのです。
52 私は自分の体に一体感を感じる経験をほとんどしません。それは「私=全体」だからです。
53 私の左手は右手や左足と「一体感」を感じているのかもしれません。それが可能なのは「左手≠全体」だからです。左手は「(全体の中の)一部」だからです。
54 (当たり前ですが)「一部」は「全体」ではありません。「全体」は「一部」と「一部以外の部分」からなります。
(全体=一部+一部以外)
55 そういう自己認識のある主体(仮に私とします)によって「一体感」は感じることが可能になります。
(全体=私+私以外)
56 この自己認識は言い換えると「私は全体ではないし、私は私以外とは違うものだ」ということでもあります。
(全体≠私)(私以外≠私)
57 この「私以外私じゃないの」(という歌がありましたね。懐かしい)を更に言い換えると「この今感じている主体である私の外に私の主体はない」ということになります。このような認識の土台の上に、一体感はあることができる。
(全体≠主体)(私以外≠主体)<土台の認識>
58 ところがです。一体感は「自分は全体の一部である」という自己認識です。それはつまり「私と私以外が同調、連動することによって、「私たち全体」が統合された一つの主体として存在するかのように感じられる」ことです。 
(私+私以外=全体=主体)
59 私は全体の一部であって全体ではありません。したがって「全体=主体」なのであれば私は主体ではありません。
(私+私以外=主体)→(私=主体-私以外)→(私≠主体)
60 土台の認識は「私以外私じゃない」です。その上に「一体感」が乗る。一体感はこのようにして到来します。
<一体感>/<土台の認識>
(私≠主体)(全体=主体)/(私=主体)(全体≠主体)

61 矛盾です。少なくともある「違和感」としてしか一体感は感知され得ないと考えられます。
62 劇場で例えましょう。一体感を感じることができるのは、客席に座った「私は、前の席の客とも隣の席の客とも違う、私だ」という認識をもった観客一人一人です。「私は隣の客とは違うし、隣の客もその隣の客にとってもそれは同じはずなのに、まるで全員が(あるいは多数の観客が)何か大きな一つの『観客というもの』の一部であるかのように同調して笑ったり泣いたり感動したり(コールアンドレスポンスしたり)している!」そのような形で一体感は感知されるでしょう。そこには何かの昂揚やカタルシスや精神的安定があるかもしれません。が、それらに先立ってまず「違うはずなのに同じ!?」という「違和感」が到来するのです。ありきたりな表現になりますが、一体感と違和感は裏と表の関係にあるのでしょう。「一体感」とは「ある種類の違和感」なのです。
63 話を元に戻します。「一体感」は「ある種の違和感」で「私=主体」←→「私≠主体」の相克によるものです。
64 デフォルトでは「私=主体」であったのが「私≠主体」へと変化する(一体感が出てくる。一体化していく)こと。勿論これは変身です。大変身です。
65 その変身していく自分に対して働く、精神の恒常性維持反応として精神的発熱が生じます。
66 精神的発熱は人体の発熱と同じで「恒常性を維持する」という起点、原因によって生じるのですがそれが高温になるにつれて本人の方も参ってしまう。
67 ウイルスをやっつけようと体温をあげるんだけれど、40度を超えてくると、むしろ本人の方がやられて、頭がぼーっとして何も考えられなくなる。
68 こと「一体感」においては、そのウイルス(一体化ウイルス)の増殖を強く促進する要素があり、そのせいで急速に「熱」が上がるのではないか?と推測します。
69 「一体化ウイルス」を促進するもの。それは「同調圧力」です。またもう一つ根源的に人間という生物に備わっている「同調欲求」「同調性向」とでもいうべきものです。
70 小さなイワシが何百何千と集まって群れをなし、まるで一つの個体のように連動して泳ぐ様子、それをそのまま人間に当てはめるのは乱暴でしょう。
でもそれこそ意識の及ばない底の底の方で、私たち人間も「他のものと同調すること」に快楽を覚え、また「他のものと違うこと」に不安を覚えたりしているように思います。幼稚園、保育園にかよう幼子たちのお遊戯を見ていると(全員ではありませんが)本当に悲壮な表情を浮かべながら周りのお友達の様子を伺う子がいます。彼女たちは端的に怯えています。他人と違うことをするのが恐怖なのです。それは私たちの先祖(お猿さんなんでしょうね)が群れで暮らしていた名残なのでしょう。大人になっても、その生き物としての根っこの部分で私たち人間は他の個体と「同じ行動」をすることに快楽を覚えます。個体によって程度差はあるでしょうけれど。それはいわゆる「同調圧力」より一層、下の、根源的なレベルでどうしようもなくそうなのだと思います。想像してみてください。誰かとジャンケンをします。三回連続でアイコになりました。ちょっとテンションが上がりませんか?では同じ誰かとまたジャンケンをします。今度は「三回連続で勝ち」ました。(負けでもいいです)どうですか?「アイコ」と「勝ち(負け)」どっちが「わーっ」ってなりますか?「変わらない」という人はすいません。例えが悪かったですね。共感してくださる人はありがとうございます。そう。多分私たちの根っこの根っこの方に「とりあえずまわりと同じことをしとけ」という指示書が書き込まれてるんだと僕は思っています。説明が長くなりました。話を戻して…
71 そのような私たち人間の同調性向や、また同調圧力が「一体化ウイルス」の増殖を促進する。
72 急速に増殖する一体化ウイルスに対抗して更に精神は発熱する。
73 ぐんぐんと熱が上がってもう自分で何かを粘り強く考えたり、決定したりすることが難しくなる。
74 そうすると、誰か他の人に「こうだ」と決めてもらったり「こうしろ」と指示してもらいたくなる。(というかそれよりしかたがない)
75 「誰か他の人」は劇場であれば「周りにいる他のお客さん」ということになるかもしれません。「一体化」は、このようなシステムで、つまり違和感に対する精神的発熱の、あくまで結果として現象し促進されるのではないか?
76 精神的怠惰によって「誰か他の人」に思考、決定を委ねる人もいなくはないでしょう。でもむしろそれは精神的怠惰の結果ではなくて、精神的過労による発熱(考えすぎによる知恵熱、でいいのかもしれません)の結果、もう判断思考がおぼつかず「誰か他の人」に泣きついて委託するというケースの方が多いような気がしています。その時の「誰か他の人」は「ロック歌手」なのか「周りにいる大多数」「権力」「カリスマ」「独裁者」なのか…集団心理というものは、そんな風にして形成されるのではないでしょうか?コロナ禍にあたって「行政の権力を強化するべき」という意見がしばしば聞かれる日本の現下の状況もこのようなことで説明できるのではないかと思っています。
77 そもそも脆弱な仮説を基にしているので「本当かよ!?」と凄まれても「さぁ?」としか言えません、すいません。でも案外大きくは外していないのではないかなぁと思っています。すくなくとも「芝居の本質=一体感派」には対抗できるのではないかと…。彼らはこういうかもしれません。
78 「違和感」はないんだ。「自己恒常性向」と「変身性向」の葛藤とか、そんなややこしことじゃないんだ。私たちは別々の主体です。別々の人間です。でも、私たちは「別々でありながら調和をしている」存在なのです。何も不思議ではない。だから違和感も葛藤も熱もない。それぞれ違う役割を持ったものが集まって一つのシステムが出来上がっている。(時計に、短針と長針と秒針と歯車と文字盤がそれぞれあるように)私たちは全く違う一個一個の主体だ。けれど、私たちは結果として連動し同調して全体がハーモニーとなっているのだ。…と。「静かな一体感」というか。摩擦も発熱もない「自然な一体感」「ありのままの一体感」というか。
79 そのような人間観、世界観を私は否定したいと思いません。
80 ただ、もし本当に世界がそのようだと信じている人であれば、わざわざ「一体感がどうだこうだ」と言挙げしないのではないんじゃないか?ましてやそれが「舞台芸術の本質」だ。なんて言わないのではないか?とは思います。(だってそれは舞台芸術に限ったことではなく、もともと世界はそうあるということなわけですから)
81 さて長々と一体化について考えてきましたが、ぐいっと(仮説)A0.まで戻ってみましょう。長くなりますが(仮説)A0.を言い換えると…

(仮説)A0’.舞台芸術の本質は『主体として増殖しながらも同時に他者である思想、感覚、想念など』の伝染であり、観客の『(あるいは観客自身の意識の及ばないところで)精神の任意のセレプターが<未知の思想、感覚、想念>を受容し増殖を始め、それに対して精神がその恒常性を維持する為に発熱すること。』を伴う。

82 ということになります。また少し言い換えると

(仮説)A0’’.そこに舞台芸術の本質があるかどうかは、観客の精神的発熱の有無によって確認できる。

83 ともいえます。では最初に戻って、この仮説をQ3’’.に当てはめてみます。

Q3’’’「[三密]以外の方法」で「精神的発熱」を起こすことは、どのように困難か?

84 [三密]は[密閉・密集・密接]です。「以外の方法」ですからその逆を考えればいい。

Q3’’’’「高開放性、低密度、遠距離]で「精神的発熱」を起こすことは、どのように困難か?

85 「開放性」「密度」「距離」は結局同じ状態を違う切り口から指しているだけに思えますが、何しろそれぞれについてみてゆきたいと思います。

検証1(遠距離について)

Q3_1.「遠距離」で「精神的発熱」を起こすことは、どのように困難か?

86 インターネットは距離を無効化する仕組みですが、今のところそれで伝えられるのは限定的な映像と音声だけです。マイクが撮った音とカメラが写す映像以外は伝えられない。
87 当然、舞台芸術の全部は届けらない。これでは到底<舞台芸術を体験した>とは言えません。
88 それはなぜか?
89 比喩的に答えると舞台芸術は「聞く」ものでも「見る」ものでもなく、それは「触れる」もの「味わうもの」だからです。
90 もちろんこれはレトリックです。楽器や楽譜を触っても「音楽そのものに触れた」とはえませんし、演劇はおおかた食べ物ではありません。俳優、ダンサーなら触れるのですが、そのあと結構高い確率で劇場からつまみ出されてしまいます。それでもこのレトリックには重要な真理が含まれていると思います。なぜならここには

Q5.私たちが舞台芸術をどういうものだとらえているのか?

91 が反映しているはずだからです。「舞台芸術の体験」を、「聞く、見る」ではなくて「触れる、味わう」という言葉で表現した方がしっくりする気がしませんか?「音楽を聞く」「演劇を見る」よりも、「音楽に触れる」「演劇を味わう」の方がよりその体験を正確に表しているように感じられませんでしょうか?
92 (「感じないよ」という人はごめんなさい。ここまで付き合っていただきましたがここで読むのをやめてもらった方がいいかと思います。「その人にとっての舞台芸術」と「私にとっての舞台芸術」は、かなり違ったものだったということだと思います。またそれはそれでいいじゃないかと思います。そしてそれはごくありふれたよくあることだと思います。なんせすいません。「感じるよ」という立場から進めさせてください。)
93 ではそれはそれはなぜでしょう?なぜ「見る」よりも「味わう」の方がしっくりくるのか?
94 「見る」は単独だとそうも思いませんが「味わう」と並べて比べるとちょっと「あっさり」な気がします。
95 「味わう」のほうはより「じっくり」という印象を受けます。
96 「見る」がただ見ておしまいというか、純粋に「情報を受け取る、感知する」だけに感じられるのに対して「味わう」は、感知して、更にその情報を吟味したり、分析、判断したり、それについて考えたりすることも含まれるように思えます。受け取った情報に対して「私」の方からもなにかしら(分析や、考えたりだとか)主体的に働きかけている様子が感じられます。ということは…

A5.私たちは舞台芸術について<情報を受け取るにとどまらず、受け取った何かに対して主体的に働きかけることがふさわしい何か>だと捉えている

97 ということです。更に詳しく考えてみましょう。
98 「見る、聞く、触れる、味わう」それぞれの対象はどんなものでしょうか?「見る対象」は例えば信号機としましょう。味わう対象をりんごとしてみましょう。するとどうなるでしょう?

A5’.私たちは舞台芸術について「信号機」というよりは、「りんご」のように捉えている。

99 これはちょっと例が悪いですね。なぜかというと机の上に置いたリンゴを見ることは当然できますし信号もかなり頑張れば食べられるかもしれないからです。ですので対象物を固定して比較しましょう。例えばりんごを「見る」「聞く」「触れる」「味わう」ではどんな違いがあるでしょう?
100 「見る」が感知把握するのはりんごが反射した「光」です。「聞く」は「音」です。りんごから音がすることはまずないですが「音がしていない」ということを感知できます。
101 「触る」はリンゴの「形」「硬さ」「粘り気」「温度」「湿り気」…(他にもあるかもしれません)。「味わう」は(下や口の中で触っているといえますから)それプラス「匂い」「味」などです。
102 「見る」は光。「聞く」は音。という一種類の情報を感知します。対して「味わう」「触れる」は一度に数種類の情報を感知するようです。
103 つまり「見る」「聞く」ことよりも「味わう」「触れる」ことの方がより多角的に情報を感知している。ということが言えるでしょう。

A5’’.私たちは舞台芸術について「多角的に情報を感知する(のが妥当な)ものだ」と捉えている。

104 それはなぜか?そこに舞台芸術の本質があるからです。「観客が多角的に表現者からの情報を感知する」ことが舞台演劇の本質だからです。
105 精神的発熱の原因は「精神的ウイルス」と仮定しました。精神ウイルスは「主体として増殖しながらも同時に他者である」思想、感覚、想念などです。
106 それは「私」であり「私でない」ものです。「ある側面で私自身のようである。しかし別の角度から見ると全く受け入れがたい」そのようなもの。
107 ある舞台芸術表現が「精神的ウイルス」であるためには、それが多角的でなければならないのです。(多角的に感知されないとならないのです)
108 しかし残念ながら多角的な情報は遠距離では伝えることができない。なぜかというとそれが「重たい」からです。情報についてその多寡を「軽い/重い」と表現しますが、まさにそのとおりです。軽いものは遠くまで運べ、重いものは近くまでしか届きません。
109 私たちは川向こうの家を「見る」ことができ、近所の小学校のチャイムを「聞く」ことができる。情報が軽ければ対象との距離が遠くても受け取ることができる。
110 一方、りんごの味は食べてみないとわかりません。(想像することはできますが)情報が重ければそこから運べない。りんごに「触れる」時、りんごと私の距離はゼロですし「味わう」に至ってはリンゴはもう私の内部にまで入り込んでいる。私がそこまでいって直接感知するしかありません。
111 「情報が重い」というのは「単に量が多い」ということではありません。それらが多角的で相互に関係しており「複雑だ」ということです。
112 単に量が多いだけなら、比較的簡単にクリアーできそうなものですが、実際そうではない。
113 視覚情報、聴覚情報はシンプルなので「0と1の羅列=デジタル」に変換できました。それは「更に軽くできた」ということです。映像情報の解像度は「8k」などと、もはや人間の肉眼では捉えきれないほどの量の情報を扱えるようになっています。たとえ人間が捉えきれないほどの膨大な量のであってもその情報がシンプルであればデジタル化でき、距離を超えることが(いつかは)できるに違いない。ただ情報が多角的で複雑になると一気にハードルが高くなる。(それでもいつかは出来るようになるのかもしれませんが。)
114 したがってQ3_1.に対する答えは

A3_1.遠距離を「多角的な情報(その中に精神的ウイルスも含まれます)」運ぶ技術が少なくとも今はない。したがって精神的発熱を起こすことができない。

115 といえるのではないでしょうか。以下少し余談ですが、
116 技術的にインターネット上の情報は断片的一面的にならざるをえません。「こういう面では頷けるけれど、こっちから見るとちょっとな…」というような多角的な形で対象を捉えることが難しい。ディテールが消去され中間色は塗りつぶされてコントラストが強調される。<「私」であり「私でない」>ものなんて存在できません。まるで四捨五入するかのように<「私」か「私でない」か>(「好き/嫌い」「肯定/否定」)に選別される。してしまう。好きなものは飲み込んで消化するし、嫌いなものは吐き出す。そこにウイルスの居場所はありません。ちなみに「消化」とは文字通り「消す」行為です。パンは口に入れた時点では異物(自分と違う遺伝子を持つもの)です。消化器官でアミノ酸レベルまでバラバラに分解してとりこみ、そのバラバラの部品をもう一度自分と同じ遺伝子に組み立て直す。消化吸収というのはそういうことです。飲み込んだ「異物」は消化分解されて結局「自分と同じもの」として再び組み立てられるのです。そこになんの変身もない。自分を変身させてしまうような危険性のあるものは、即座に吐き出されてしまう。偏見でしょうけれどインターネットにはそういう印象を持っています。もちろんいいところもたくさんあるのですが…

検証2(低密度について)

Q3_2.「低密度」で「精神的発熱」を起こすことは、どのように困難か?

117 空調機能が良くないスペースでは夏には暑過ぎたり冬に寒過ぎたりということがしばしばあります。でも「精神的発熱」は物理的な熱ではありません。熱伝導、対流、放射などによって移動するものではありません。だからその意味では密度とは関係がありません。
118 また「観客の熱気」だとか「役者の熱量」だとかというように「熱」に言い換えられたり、実際の熱エネルギーに変換されうる「興奮、激しい感動、エロスなど」のことだけではありません。
119 熱エネルギーやエロスが「舞台、ライブの魅力の一つ」であることはいうまでもありませんし、それをなんら私は否定しようと思いません。ただ「熱狂の渦と化したライブハウス」でももちろん、しかし「観客全員が固唾を飲んで舞台を注視し、水を打ったように静まりかえった小劇場」でも伝染しうる(ように見える)「熱」を想定する、ということです。
120 物理的に密度が高い場所であっても、精神的ウイルスがテレパシーを介してお客さんからお客さんへ伝染する、ということは考えにくい。
121 ですからこれは端的に(一体感の説明のところでも触れました)同調圧力、同調性向が関係していると思います。
122 インターネット上のSNS。たとえばツイッターなどで昨今「バトン」というものが回っていることを目にすることがあります。何かしらお題が繋がりのあるユーザーから私の元に「バトン」が回ってくる。例えば「お気に入りの自撮り写真を上げろ」だとか。私は何かしらお気に入りの自撮り写真をupし、そのバトンをまた他のユーザーに回す。まぁ「不幸の手紙」と似たシステムです。
123 実際の空間にも同じようなシステムのイベントはあります。例えば「初会合での自己紹介」とかマイクが回ってきて一言ずつ喋る、ようなこと。
<「SNSで回ってくるバトン」か「会合で回ってくるマイク」かどっちが、無視しずらいか?>と想像すると「物理的密度」と同調圧力(性向)の関係がイメージしやすいかもしれません。
124 もう少し舞台芸術に引き寄せると<お葬式でのお焼香>や<ネイティブアメリカンたちがテントの中で回し吸いするタバコ>やということになるでしょうか。
125 まずもって私たちには生物的レベルで同調性向があり、社会的レベルで同調圧力があります。
126 多人数で食卓を囲み同じ料理を食べること。同じ屋根の下で眠ることは、それだけである種快楽なのです。多人数で同じ空間内にいて同じ演劇を見ること、同じ音楽を聞くことはその意味で快楽なのです。(同調性向)
127 また多人数で同じ空間内にいるのに「同じ演劇を見ないこと」「同じ音楽を聞かないこと」には抵抗が生じます(同調圧力)それが自分にとって価値がないと思ったら演目の途中でも席を立つことは個人の自由です。しかしその時に一切心理的抵抗を感じない、という人は少ないでしょう。
128 「同調圧力」「同調性向」は「異物を飲み込むハードル」を下げます。
129 「ちょっとこれは私には合わないかも…?」と直感していても周りがそれを食べていると食べてみたくなる。あるいは回ってくると箸をつけずに無下にパスするわけにもいかない心境になる。あるいは一人でいるときなら飲み込まなかった、すぐに吐き出した情報で、一旦は食べてみる、体内にとどめてみる。このことによってウイルスの侵入する機会が増えます。
130 「同調性向」「同調圧力」は心理的な作用です。(ひょっとしたら同調性向の一部はそうではないかもしれませんが)ですから、それを直接左右するのは「心理的密度」です。「物理的密度」は間接的にそれを左右しているに過ぎないでしょう。
131 しかしながら「物理的密度」の高い場所で「心理的密度を低く」保つことというのは、なかなか骨の折れる作業です。
132 逆はそうでもないかもしれません。(もちろん個人の感じ方ですからわかりませんが)「物理的密度の低い」…例えばひとりぼっちの部屋のパソコンの画面の前でも「心理的密度を高く感じる」ことは、逆に比べると容易であるようにも思います。
133 いずれにせよ「遠距離」という切り口と比べると、それほど致命的に「精神的発熱」の障害となっているとは言えないように思います。Q3_2.に答えると、

A3_2.「低密度」であることはそれほど致命的な障害ではない。しかし「同調圧力」「同調性向」が減退する傾向にあり、<精神的ウイルス>の侵入機会を減らし、結果「精神的発熱」を困難にしている。


検証3(高開放性について)
Q3_3.「高開放性」で「精神的発熱」を起こすことは、どのように困難か?

134 「低密度」での同調圧力と重複する部分も多くなりますが「低密度」に比べるとこちらの方がクリティカルな要素だと思う。(「要素」といってもそれは同じものの切り口の違いであって、だからこそ重複する部分が多くなるのですが)
135 開放性が高い。ということは、つまり「出入りしやすい」ということです。
136 「心理的な出入りのしにくさ(敷居の高さ)」というものが劇場にはあり、それと比例して一度入ってしまうと同調圧力が高い。
137 同調圧力は密度のケースと同じく直接的には「心理的な開放性」に関係するものですが「物理的な開放性」は「心理的な開放性」を左右しますから間接的にであれ「物理的な開放性」が同調圧力を左右するとは言えると思います。
138 インターネットで考えると事態はあからさまです。観客はいつどんなタイミングでも回線を切って[劇場]から「逃げ出せる」。
139 この「いつでも逃げられる」「一瞬にして逃げられる」開放性は<精神ウイルス>の侵入の機会を劇的に減損していると思います。
140 舞台芸術に照明効果が持ち込まれて以来、多くの「劇場」は物理的にも心理的にもより閉鎖的な空間になりました。そのことの功罪は一旦さておき、なにしろ「観客が物理的に囲い込まれた。」ということは事実でしょう。
141 観客を暗闇に囲い込み、着席と静粛を強制し、ただ一帯明々と照らし出された舞台上への、注目傾聴を持って成り立つのが現代の舞台芸術表現です。
それは逃れようがなくセレモニーであり、その場の観客に生じる同調圧力を計算に作られるものです。
142 かつての野外劇場や、路上パフォーマンスが持つある種の訴求力を失くしてしまった。か、もしくはその必要がなくなったのか。そこは判断が分かれるところだと思います。
143 現代において舞台芸術が失ったものはいくつかあるでしょう。またその代わりに得たものもあるはずです。照明効果はその代表かもしれませんが、私が想定する「舞台芸術の本質」もその「得たもの」の一部なのではないかと思います。
144 解放的な場所で耳目を集めるためには「明快さ」「シンプルさ」「極端」が必要です。遠くから見てもわかるような旗印。一瞬で理解できるテーマ。共感を呼ぶテーゼ。そんなものが。
145 <精神ウイルス>などという、なんだか複雑なものなんてお呼びじゃない。そんなものが広い野っ原にあったとしてもまず気づかれませんし、気づいてもらえたところで「これはいったいなんだろう」と足を止めてくれる人は極々僅かでしょう。
146 広い野っ原に落ちている「私なのだか、私を変身させてしまう何かなのか」判別がつかないものを拾い食いする人はまずいません。「いやこのお品はですね、こうこう、こういう由緒いわれのあるもので…」と説明をし始めた途端に、ブラウザのウインドウを閉じてしまうでしょう。

A3_3.「高開放性」空間においては「(精神的ウイルス含む)複雑な情報」は認知されずらく、またその価値を理解されることも難しい。したがって「精神的発熱」はとても困難。

結論
147 「逆三密」がどのように「精神的発熱」を困難にしているかの分析が出揃いました。

A3_1.遠距離を「多角的な情報(その中に精神的ウイルスも含まれます)」運ぶ技術が少なくとも今はない。したがって精神的発熱を起こすことができない。
A3_2.「低密度」であることはそれほど致命的な障害ではない。しかし「同調圧力」「同調性向」が減退する傾向にあり、<精神的ウイルス>の侵入機会を減らし、結果「精神的発熱」を困難にしている。
A3_3.「高開放性」空間においては「(精神的ウイルス含む)複雑な情報」は認知されずらく、またその価値を理解されることも難しい。したがって「精神的発熱」はとても困難。


148 ではようやく最後の問題に取り掛かりましょう。下の二つは同じ問いです。

Q4.その困難はどうしたらのりこえられるか?
Q1.<「現下の状況でも可能」且つ「舞台芸術の本質を損なわない」>表現はどうしたら実現できるでしょうか?

149 「遠距離」という角度からの困難については、将来テクノロジーの進化によって超えられるかもしれません。ただ私にできる工夫の余地はありそうにありません。
150 強いて挙げるならばより「多角的」であることを担保するためにクロスメディアによって表現をするということかと思います。実際劇場という媒体が閉じられている以上、他のメディアを使う以外に手はありません。
151 「低密度」という角度からの困難については、致命的でないこと、また次の開放性からのアプローチの方が適切であれば、同時に乗り越えられる可能性が高いので保留します。
152 「高開放性」という角度から困難については、あるいは何か工夫の余地があるかもしれません。というか残された解決の糸口はここにしかありません。「いつでも逃げられる」「一瞬で離れられる」観客をいかにして引き止めておけるか?
153 しかし「引き止める」ことは不可能です。どうしたって。ですから表現者の方から追いかけてゆかないとならないのです。
154 (なんだかストーカーじみた話になっていますが…)実際よくよく考えてみると観客ひとりひとりは、存在として一つなはずです。
155 Aさんという観客がいたとして、ネット上に[Aさん1]がいて、リアルに[Aさん2]がいて、合計二人いる。」わけではない。どこまでいってもAさんは一人なのです。
156 「引き止めよう」とか「追いかけよう」とか言い出したのでややこしくしましたが、結局のところ「Aさんと一緒の所にいる」ということです。「Aさんが居るところで表現をする(私なら演劇をする)」ということです。
157 以下「舞台芸術」を演劇に言い換えて進めます。
158 Aさんは今どこに居るのか?
159 劇場にはいません。いつか戻ってきてくれると思います。そう願います。
160 インターネットにはいたりいなかったりします。ブラウザを閉じれば部屋にいます(元からいたんですけど)
161 Aさんが居るのは「リアルとバーチャルに片足ずつ乗っけた」空間です。
162 すでにAさんはリアルとしてだけ存在するのでも、バーチャルとしてだけ存在するのでもありません。リアルもバーチャルもAさんの一側面です。
163 りんごは「赤い(視覚)」ものであり同時に「美味しい(味覚)」存在であるように、Aさんは「リアル」であり「バーチャル」な存在なのです。リアルのAさんもバーチャルなAさんもAさんという存在をある切り口から切り取った時に見える現象に過ぎません。
164 Aさんはどこに存在するか?
165 リアルよりもさらに多角的であるような空間です。多次元的と言い換えてもいい。うまく言葉にできません。ひとまず「Aさんはリアルとバーチャルの関係の場に存在する」としておきましょう。
166 ですから私たちは演劇を「その場」に「リアルとバーチャルの関係の場」に再配置しなくてはなりません。そこに劇場を作るのです。
167 単にクロスメディアというだけではたりません。「バーチャル」と「リアル」との関係を使って演劇を作る。または「バーチャル」と「リアル」の関係を演劇的にする。ということが一つの答えになるのではないかと思います。

A1.A4.演劇を複数のメディアで出力されうる形に整形することではなく。複数のメディアがあるその場(次元)に演劇を展開することによって。

168 出たり入ったり神出鬼没の、私たちが見失ってしまった観客を再び捕捉する為に私が考えたことが以上です。

下鴨車窓を拝見しました。

下鴨車窓「散乱マリン」を拝見しました。

今回はキャスティングが本当に本当に良かったと感じました。各役者さんがすごくハマっていたというか、「適材適所」っていう言い方すると(組閣のこととか頭に浮かんで)「ありものの中から、よりいいバランス選んだ」みたいなニュアンスに聞こえるけれどそうじゃなくて、「ラグビー代表」みたいな。「各役をやらすならこの人っ!」って人が(結果そう見えたってことだけれど)集められてたように思う。てなことを言いながら出演者の皆さん全員のこれまでのお芝居を見ているわけじゃないんですが、何しろみんなハマり役に思えました。それぞれの良さがじっくりたっぷり伝わってきて、ま、それだけで僕は大満足でした。

 どうしても下鴨車窓は「点」ではなく「線」でみてしまうので、前回拝見した「微熱ガーデン(再演)」のことなども頭に浮かんだりします。「微熱…」の中村彩乃さんの(僕が感じる所の)ミスキャストと、実に対照的だと感じました。誤解の無いように申し加えますと中村さんは、本当に素敵な俳優さんです。舞台上の彼女を一度でもご覧の方にはいうまでも無いことだと思いますが。《ほんと彼女、素敵ですよね)ただ「微熱…」で彼女が演じた役は、彼女じゃなかったかなあと、私は感じたのでした。それもまた下鴨車窓を何度も拝見している「あや」といいますか、初演の「微熱…」時にその役をやってらっしゃった俳優さんが本当にハマっていたのです。それで「それとの比較で見るから」と言うことは大いにあるのです。だいぶ大雑把に書いてしまうと「論理的と言うよりは感覚的に行動する登場人物=役柄」に俳優としてどう近接して行くか?という実に難しい問題に、僕が拝見した時の中村さんは「当たって砕けてた」ように感じたのですね。「感覚的」というのは「本人にも、容易には言語化できないなんかのメカニズムでそうしてしまう。そんなことを言ってしまう」ような人物のことです。他人から見たら「なんか感覚だけで動いてるなぁ」と感じるけれど、当たり前の話人間ですから、その行動、発話を選択する何かのメカニズムはあるんはずなんです。「無意識」という言葉は便利すぎて使うのが嫌ですが例えばそういうこととか。で、そんな役がふられた時に、俳優がなすべきことは、どういう作業か?これほんまにめんどくさいんです。もちろん俳優が「感覚的に」やってしまうことも一つの手だとは思います。ただそうなるともう本当にギャンブルというか、やっぱり俳優は「その役がなぜそこでそういうのか?そうするのか?」を探って、自分の体にインストールしようと思うはずなんです。僕はそれは至極真っ当だと思っていて、中村さんは真っ当な、もっというと「珍しく真っ当な俳優さんだ」と認識して、だいすきなんです。またいつか共演できたら幸せだと思ってるんですが…。ただその真っ当さが、届かなかったというか、「理屈で動いてない対象を理屈で捉えようとして捕まえられなかった」ように感じたのです。簡単なことじゃないですが、そういう役を捉えようとすると俳優はもう一つ次数を上げて取り組まないといけなくって(まあ口で言うのは簡単ですが)そこまでには至らなかったのかなあ、と。
で、それと比べて(比べることに意味はないのでしょうが)今回は本当に各俳優さんが伸び伸びと輝いてたなあ。と感じたのです。
西村さんは、本当に「隙がない」なぁと。惚れ惚れするんですよね。もう嫉妬しかないのです。この人おらんかったらもうちょっと俺の仕事増えてるんちゃうやろか?とか(笑)なんせ良い。大別するとタイプとしては藤原大介さんと同じで、何かを内に秘めて、ググッとその密度を高めて、観客に目を切らさないというか、そういうタイプだと思います。これってすごいことなんです。僕とかはかまってちゃんのわかってちゃんですから、表に出来るだけ(というか全部)出そうとするタイプ。だからね。やっぱり敵わないなあと、悔しいけど思うんですね。「思わせぶり」なだけじゃなくそこにきちんと質量があるから見ちゃうんですよね…。Fさんは、若干「納品した」感がありましたが、まぁまずもって僕が付き合い長いから「一味違うFさん見たい」という欲望が強いのと、ああいう役を振られたらFさんとしてはそうするしかないよね。という部分もあり。ただ、オナニーにならない範囲でもう少し「戦えた」かもとは感じました。おもちゃのナイフが出てきて、それで刺したら斃れてしまったあとの(正確ではないが)「刺したらダメだよ」というあたりのセリフとか。の、説得力とかかな。普通に聴くと意味わからんのですけども、客が「ああ。そらあかんな」と納得してしまうような、なんか発話、体がそこにあったら、もう一つこの世界が重層化したんじゃないかとか。澤村さんも、とってもよかったですね。あのいやらしいセコい感じが。一度だけ共演させてもらってて、ほんとナイスガイなんです。ただ、なんかもう一枚、皮、脱げるんちゃうんか?とは思うんです。筋トレとかせんでもええんです彼は。そのまんまでうわーっていけば素敵なやつなんですけどね…あ、もちろん個人の感想です。僕の喜一郎さんのベストアクトは枚方ノート(ピラカタだったかも)の、知的障害を持つ子供の役。あれはもうほんまにか美しかった。なんか客からどう見られるかとかじゃなく、役と俳優ががっぷり四つに組んでる感じだったからだと思う。全員に言及してると朝になってしまうのでここらでやめますが何しろ俳優さんがとても素敵でした。
それが全て。で終わっものいいのですがあ、一点不満があるとすれば、ラスト前の小暗転。これは僕は田辺剛の息継ぎだ。と、もちろん後からかんがえてなんですが、そうおもったのです。
これも「点」でなく「線」で見てるからなのでしょうが、田辺作品に「寓話」が戻ってきたと思ったのです。正確には戻ってきたわけじゃなくて、たまたま僕が拝見したタイミングがそうなのですが。

で、感覚的な言葉になりますが、やっぱり、描き切って欲しい。すごくワクワクして見てたから。どうするねんと。どうなるねんと。寓話の世界に潜って潜って、最後、息が切れて息継ぎに水面に上がってしまった。そんな印象です。一言で言うと「描き切ってくれ、最後まで」と願うのです。その寓話、双方が地となり図となって出現している寓話に、田辺さんの筆でとどめを刺して欲しかった。ワクワクしながら読み進めた絵本の最後の2、3ページが抜け落ちていた。そんな感じです。ではどうすればいいかはわかりません。二人が湿地に足を踏み入れ「バシャーン」のあと、格闘シーンがあってお互いに差し合って倒れたらいいかって、そうじゃないとは思います。僕にはわかんないです。でもそこ落とし前つけてよ。と。描き切ってよ。と。

最後、二つの身体が斃れている。僕の記憶も確かじゃないですし、僕の見た会だけかもしれないですが、二つの体とも、頭が中央を向いていて、うつ伏せで、1メートル強の距離が離れてるんですね。例えば互いにあのナイフで差し合って果てたならもっと距離は近いだろうしあるいは重なるように、または抱き合うように斃れていたかもしれない。または片方が中央に倒れていてもう片方は段差に体をかける形で、つまり、やっつけたけど、そこから立ち去ろうとする時に息絶えたとか。になるかもしれない。
あのラストだと「二つの斃れた体がある」という記号に感じるのです。もちろんそういう終わり方はあっていい。この芝居全部が、深海に流れ着いた自転車の残骸や死体が、なんかの潮の流れで偶然にそういう配置になった結果(誰の脳裏になのかはわかんないけど)ふと立ち上った物語であった。というような。
でも、そうじゃないものを田辺剛には求めたい。僕は。
「お客の想像力を信じる。委ねる」というと反論できないけれど、大袈裟にいうとネグレクトじゃないかと。それこそ田辺剛の仕事じゃないかと。そして田辺さんにしかできない仕事じゃないかと。

なんか偉そうですね。でもまあ、見に行ける人は見に行ってください。

素敵な舞台ですから。
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