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ステイホーム演劇論

読む前のご注意
・以下記事は書くのに三週間ほどかかりました。読むのにどれぐらいかかるかご想像にお任せします。
・以下記事は京都市の「新型コロナウイルス感染症の影響に伴う京都市文化芸術活動緊急奨励金」申請を念頭に考えた企画(「演劇」を巡るフィールドワーク)の企画書のために書き始めたところうっかり風呂敷をドーム級にまで広げ過ぎて泣きながら畳んだ顛末です。これをどうして企画書に落とし込むやら、企画書にできたところでそれをまたどうやって申請書に落とし込むのやら途方に暮れています。


現状分析
1 今般の新型コロナウイルス感染拡大の影響により舞台表現活動は中止・延期を余儀なくされています。
2 表現の場を失った舞台芸術人たちによって「現状況下でも可能な表現」の模索は始まっており、主にインターネット上で様々な試行がなされています。
3 しかしそれら試行の多くは「舞台芸術の本質」を取りこぼしていると感じます。<応急処置の舞台芸術><舞台芸術の代替品>に感じられるのです。
4  緊急時には「応急処置」や「代替品」も必要です。
5  ただ現状がいつまで続くのか確たることはわかりません。また、今後いつ再び同じような状況が訪れるかもしれません。
6  したがって「現下の状況でも可能」且つ「舞台芸術の本質を損なわない」→「新しい表現形態」の開発が必要だと考えます。(コロナ禍期間はそれを発見するチャンスでもあるでしょう)

目的
7 本企画はその「新しい表現形態」の開発を目的とします。

設問
Q1.<「現下の状況でも可能」且つ「舞台芸術の本質を損なわない」>表現はどうしたら実現できるでしょうか?

8 かなりの難題です。答えを出すためにこの問いを更に三つに分解します。

Q2. なぜ多くのインターネット上の<応急処置の演劇>は「舞台芸術の本質」を取りこぼすのか?
Q3.多くのインタ…(略)が「舞台芸術の本質」を取りこむことは、どのように困難か?
Q4.その困難はどうしたらのりこえられるか?


9 Q4.への答えがQ1.の答えとなるでしょう。

分析
10 Q2を考えます。
11 「舞台芸術の本質」というものがどんなものであれ、おそらくそれは「表現者」と「観客」の間にあるものだと思います。インターネットであれ生の舞台であれ表現者側が片務的に纏っていたりいなかったりする何かではないと感じます。
12 だから多くの<応急処置の演劇>が「舞台芸術の本質」を取りこぼすのだとしてもそれが「発信者側だけのせいだ」とは言えません。(あるいは「観客をも含めたものが舞台芸術表現だ」という言い方もできるでしょう。)
13 「舞台芸術の本質」は「表現者と観客の間」あるいは「表現者と観客両方を含める空間」にある。…とすればそれはどこか?
14 劇場です。「舞台芸術の本質」は劇場にある。とてもとても当然のことです。だからQ2.への答えは

A2.インターネットは劇場じゃないから

15 です。当然すぎますね…。絶望的な気持ちになってきましたが諦めずに続けます。
16 Q3を考えます。
17 インターネットを例にとりましたが、これに限る必要はありません。目的は「今、できる方法(場所)で舞台表現の本質を実現すること」ですから「インターネット」は→「[今、使えない方法]以外の方法」と言い換えられます。

Q3’「[今、使えない方法]以外の方法」が「舞台芸術の本質」を取りこむことは、どのように困難か?

18 [今使えない方法]というが「劇場」などです。集会が制約されています。いわゆる「三密」などが実質不可能になっている。

Q3’’「[三密]以外の方法」が「舞台芸術の本質」を取りこむことは、どのように困難か?

19 それが具体的に把握できれば、その乗り越え方を発見できるかもしれません。しかしそれを具体的にしようと思えば

Q0.「舞台芸術の本質」とは一体何か?

20 この根源的な疑問について考えなければなりません。現下の困難な状況を手掛かりにそこから逆算してそれを浮き彫りにしましょう。
21 (これは考えてみれば当然のことのなのですが…)
22 現下の感染症拡大の抑止行動によって舞台芸術の本質的な部分、魅力が抑圧されている。(インターネットでは取りこぼしてしまう)のだとすれば。舞台芸術の本質は「ウイルスによる感染症の振る舞いに極めて近い」ということになります。
23 つまり「舞台芸術の本質」→「生の迫力」「一体感」等の言葉で説明が試される「舞台の魅力」とは結局「感染」だ。ということです。
24 この「舞台芸術の本質」を、物理的な病原体による感染、伝染と区別するために「舞台性感染」とします。
25 「舞台的感染」はウイルスや細菌などの物理的な病原体によるものではではありません。(将来「演劇菌」「ダンスウイルス」が絶対に発見されないとは断言できませんが…)
26 しかし「舞台性感染」拡大が発生するのは物理的感染(コロナウイルス等の)を促しやすい環境(いわゆる三密状態など)と同じです。
27 逆も然り。物理的感染が抑制される環境(インターネット上など)では「舞台性感染」も発生しづらい。ですから…
28 「舞台性感染」には物理的な密度、距離が大きく関係をしてる。でも「物理的感染」ではない。
29 ということになります。感染以外にも何らか物理的システムがありえますが、ここはあえて少し飛躍をして
30 「演劇的感染」は「物理的な条件に左右される、非物理的システム」だとしてみましょう。
31 Q0.への回答として、ウイルス感染症を比喩的なモデルとして取り込んだ一つの仮説を立ててみます。

仮説

(仮説)A0.舞台芸術の本質(=「舞台性感染」)は『精神的ウイルス』の伝染であり、観客の『精神的発熱』を伴う。

32 『精神的ウイルス』は物理的ウイルスをモデルとして精神に当てはめたものです。
33 ウイルスには自己複製能力はありません。その増殖には(人間など)宿主の細胞の機能に完全に依存しています。
34 逆からいえば宿主は取り込んだウイルスを主体的に増殖させます。
35 ですからその「ウイルスの増殖」「増殖したウイルス」は「宿主=主体の一部」です。
36 そしてもちろんウイルスは宿主にとって「他者」「異物」です。
37 ウイルスは宿主の内部にあり「主体として増殖しながら、同時に他者である」ようなものです。
38 ですので『精神的ウイルス』は「主体として増殖しながらも同時に他者である」思想、感覚、想念などとします。
39 『精神的発熱』は【人体におけるウイルス感染症による発熱と相似する現象が、精神においても起こる】と仮想した時、そこにあるものです。(つまりでっちあげです。本当にそんなものがあるのか私にはわかりません。)
40 「人体の発熱」はウイルスや細菌の増殖を抑えるための身体の防御反応です。体温を上げて免疫を活性化させるのだそうです。従って『精神的発熱』は、<精神的ウイルス>の増殖を抑えるための精神の防御反応です。
41 『精神的発熱』とは(あるいは自分の意識の及ばないところで)精神の任意のレセプターが<未知の思想、感覚、想念>を受容し主体的に増殖を始めるが、それに対して精神がその恒常性を維持する為に発熱すること。とします。
42 <精神的ウイルス>の物理的モデル=ウイルスをさらにデフォルメして例えにすると「飲むと狼人間になってしまう錠剤」のようなものです。私がその錠剤を飲むと、なんと腕にもじゃもじゃと毛が生えてきて狼男に変身してゆくではありませんか。私は狼男にはなりたくないので(自分のままでいたいので)慌てて腕をさすったり、なにしろ慌ててパニックになるでしょう。その時の<錠剤>に当たるのが<精神ウイルス>だと考えてください。
43 自分が今まで感じたことのない思想や感覚想念が(あるいは気がつかない間に)心の中に入ってくる。それが全く自分が受け入れられないような思想、感覚、想念であれば、それは自分の中で増殖することはないでしょう。でもそれは、どこかで理解できる。あるいは今まで気がついていなかったけれど確かにそういう素質を自分が持っていたそんな精神のありようです。だから自分はそれを受容し、またそれを増殖させる。すると世界の見え方、感じ方が今までと変わっていく。これは「別の人になる」つまり変身するのです。
44 精神的な変身に対する、戸惑いやパニック。そして恒常性を保つための防衛。それが『精神的発熱』です。

想定される反論
45 これに対して「いいやそんなことはないぞ」と、想像できる一つ強力な反対意見、主張をあげてみると
46 「舞台芸術の本質は、そんなややこしい話ではなくて、時間と空間を共有する一体感じゃないのか?」というものです。
47 (これは言われてみればごもっともな気もします。劇場やライブハウスに集まれずにパソコンの画面の前に集まっている観客が一番損なっているものは、単純に考えて一体感じゃないか。と。だいたい「舞台芸術の本質」が何か一つである必要も必然もないのです。その人がそう思うならそれでいい。でもせっかくなので敢えてこの「一体感」を<精神的ウイルス>というアイデアを使って説明してみたいと思います。)
48 確かに劇場での一体感やそれに伴う昂揚は確かに劇場に特有のもので舞台芸術の大きな魅力の一つと言えるでしょう。
49 「たしかにそうである。そしてそれは<精神的発熱>による効果ではないか?」と。「より本質的な<精神的発熱>に付随して現象するものが「一体感」ではないか?」と考えます。
50 (どうしてそうなるのか説明しますと…)まず、「一体感」は「自分は全体の一部である」という自己認識です。
51 だから「一体感」を感じることが可能な主体は「(全体の中の)一部」なのです。
52 私は自分の体に一体感を感じる経験をほとんどしません。それは「私=全体」だからです。
53 私の左手は右手や左足と「一体感」を感じているのかもしれません。それが可能なのは「左手≠全体」だからです。左手は「(全体の中の)一部」だからです。
54 (当たり前ですが)「一部」は「全体」ではありません。「全体」は「一部」と「一部以外の部分」からなります。
(全体=一部+一部以外)
55 そういう自己認識のある主体(仮に私とします)によって「一体感」は感じることが可能になります。
(全体=私+私以外)
56 この自己認識は言い換えると「私は全体ではないし、私は私以外とは違うものだ」ということでもあります。
(全体≠私)(私以外≠私)
57 この「私以外私じゃないの」(という歌がありましたね。懐かしい)を更に言い換えると「この今感じている主体である私の外に私の主体はない」ということになります。このような認識の土台の上に、一体感はあることができる。
(全体≠主体)(私以外≠主体)<土台の認識>
58 ところがです。一体感は「自分は全体の一部である」という自己認識です。それはつまり「私と私以外が同調、連動することによって、「私たち全体」が統合された一つの主体として存在するかのように感じられる」ことです。 
(私+私以外=全体=主体)
59 私は全体の一部であって全体ではありません。したがって「全体=主体」なのであれば私は主体ではありません。
(私+私以外=主体)→(私=主体-私以外)→(私≠主体)
60 土台の認識は「私以外私じゃない」です。その上に「一体感」が乗る。一体感はこのようにして到来します。
<一体感>/<土台の認識>
(私≠主体)(全体=主体)/(私=主体)(全体≠主体)

61 矛盾です。少なくともある「違和感」としてしか一体感は感知され得ないと考えられます。
62 劇場で例えましょう。一体感を感じることができるのは、客席に座った「私は、前の席の客とも隣の席の客とも違う、私だ」という認識をもった観客一人一人です。「私は隣の客とは違うし、隣の客もその隣の客にとってもそれは同じはずなのに、まるで全員が(あるいは多数の観客が)何か大きな一つの『観客というもの』の一部であるかのように同調して笑ったり泣いたり感動したり(コールアンドレスポンスしたり)している!」そのような形で一体感は感知されるでしょう。そこには何かの昂揚やカタルシスや精神的安定があるかもしれません。が、それらに先立ってまず「違うはずなのに同じ!?」という「違和感」が到来するのです。ありきたりな表現になりますが、一体感と違和感は裏と表の関係にあるのでしょう。「一体感」とは「ある種類の違和感」なのです。
63 話を元に戻します。「一体感」は「ある種の違和感」で「私=主体」←→「私≠主体」の相克によるものです。
64 デフォルトでは「私=主体」であったのが「私≠主体」へと変化する(一体感が出てくる。一体化していく)こと。勿論これは変身です。大変身です。
65 その変身していく自分に対して働く、精神の恒常性維持反応として精神的発熱が生じます。
66 精神的発熱は人体の発熱と同じで「恒常性を維持する」という起点、原因によって生じるのですがそれが高温になるにつれて本人の方も参ってしまう。
67 ウイルスをやっつけようと体温をあげるんだけれど、40度を超えてくると、むしろ本人の方がやられて、頭がぼーっとして何も考えられなくなる。
68 こと「一体感」においては、そのウイルス(一体化ウイルス)の増殖を強く促進する要素があり、そのせいで急速に「熱」が上がるのではないか?と推測します。
69 「一体化ウイルス」を促進するもの。それは「同調圧力」です。またもう一つ根源的に人間という生物に備わっている「同調欲求」「同調性向」とでもいうべきものです。
70 小さなイワシが何百何千と集まって群れをなし、まるで一つの個体のように連動して泳ぐ様子、それをそのまま人間に当てはめるのは乱暴でしょう。
でもそれこそ意識の及ばない底の底の方で、私たち人間も「他のものと同調すること」に快楽を覚え、また「他のものと違うこと」に不安を覚えたりしているように思います。幼稚園、保育園にかよう幼子たちのお遊戯を見ていると(全員ではありませんが)本当に悲壮な表情を浮かべながら周りのお友達の様子を伺う子がいます。彼女たちは端的に怯えています。他人と違うことをするのが恐怖なのです。それは私たちの先祖(お猿さんなんでしょうね)が群れで暮らしていた名残なのでしょう。大人になっても、その生き物としての根っこの部分で私たち人間は他の個体と「同じ行動」をすることに快楽を覚えます。個体によって程度差はあるでしょうけれど。それはいわゆる「同調圧力」より一層、下の、根源的なレベルでどうしようもなくそうなのだと思います。想像してみてください。誰かとジャンケンをします。三回連続でアイコになりました。ちょっとテンションが上がりませんか?では同じ誰かとまたジャンケンをします。今度は「三回連続で勝ち」ました。(負けでもいいです)どうですか?「アイコ」と「勝ち(負け)」どっちが「わーっ」ってなりますか?「変わらない」という人はすいません。例えが悪かったですね。共感してくださる人はありがとうございます。そう。多分私たちの根っこの根っこの方に「とりあえずまわりと同じことをしとけ」という指示書が書き込まれてるんだと僕は思っています。説明が長くなりました。話を戻して…
71 そのような私たち人間の同調性向や、また同調圧力が「一体化ウイルス」の増殖を促進する。
72 急速に増殖する一体化ウイルスに対抗して更に精神は発熱する。
73 ぐんぐんと熱が上がってもう自分で何かを粘り強く考えたり、決定したりすることが難しくなる。
74 そうすると、誰か他の人に「こうだ」と決めてもらったり「こうしろ」と指示してもらいたくなる。(というかそれよりしかたがない)
75 「誰か他の人」は劇場であれば「周りにいる他のお客さん」ということになるかもしれません。「一体化」は、このようなシステムで、つまり違和感に対する精神的発熱の、あくまで結果として現象し促進されるのではないか?
76 精神的怠惰によって「誰か他の人」に思考、決定を委ねる人もいなくはないでしょう。でもむしろそれは精神的怠惰の結果ではなくて、精神的過労による発熱(考えすぎによる知恵熱、でいいのかもしれません)の結果、もう判断思考がおぼつかず「誰か他の人」に泣きついて委託するというケースの方が多いような気がしています。その時の「誰か他の人」は「ロック歌手」なのか「周りにいる大多数」「権力」「カリスマ」「独裁者」なのか…集団心理というものは、そんな風にして形成されるのではないでしょうか?コロナ禍にあたって「行政の権力を強化するべき」という意見がしばしば聞かれる日本の現下の状況もこのようなことで説明できるのではないかと思っています。
77 そもそも脆弱な仮説を基にしているので「本当かよ!?」と凄まれても「さぁ?」としか言えません、すいません。でも案外大きくは外していないのではないかなぁと思っています。すくなくとも「芝居の本質=一体感派」には対抗できるのではないかと…。彼らはこういうかもしれません。
78 「違和感」はないんだ。「自己恒常性向」と「変身性向」の葛藤とか、そんなややこしことじゃないんだ。私たちは別々の主体です。別々の人間です。でも、私たちは「別々でありながら調和をしている」存在なのです。何も不思議ではない。だから違和感も葛藤も熱もない。それぞれ違う役割を持ったものが集まって一つのシステムが出来上がっている。(時計に、短針と長針と秒針と歯車と文字盤がそれぞれあるように)私たちは全く違う一個一個の主体だ。けれど、私たちは結果として連動し同調して全体がハーモニーとなっているのだ。…と。「静かな一体感」というか。摩擦も発熱もない「自然な一体感」「ありのままの一体感」というか。
79 そのような人間観、世界観を私は否定したいと思いません。
80 ただ、もし本当に世界がそのようだと信じている人であれば、わざわざ「一体感がどうだこうだ」と言挙げしないのではないんじゃないか?ましてやそれが「舞台芸術の本質」だ。なんて言わないのではないか?とは思います。(だってそれは舞台芸術に限ったことではなく、もともと世界はそうあるということなわけですから)
81 さて長々と一体化について考えてきましたが、ぐいっと(仮説)A0.まで戻ってみましょう。長くなりますが(仮説)A0.を言い換えると…

(仮説)A0’.舞台芸術の本質は『主体として増殖しながらも同時に他者である思想、感覚、想念など』の伝染であり、観客の『(あるいは観客自身の意識の及ばないところで)精神の任意のセレプターが<未知の思想、感覚、想念>を受容し増殖を始め、それに対して精神がその恒常性を維持する為に発熱すること。』を伴う。

82 ということになります。また少し言い換えると

(仮説)A0’’.そこに舞台芸術の本質があるかどうかは、観客の精神的発熱の有無によって確認できる。

83 ともいえます。では最初に戻って、この仮説をQ3’’.に当てはめてみます。

Q3’’’「[三密]以外の方法」で「精神的発熱」を起こすことは、どのように困難か?

84 [三密]は[密閉・密集・密接]です。「以外の方法」ですからその逆を考えればいい。

Q3’’’’「高開放性、低密度、遠距離]で「精神的発熱」を起こすことは、どのように困難か?

85 「開放性」「密度」「距離」は結局同じ状態を違う切り口から指しているだけに思えますが、何しろそれぞれについてみてゆきたいと思います。

検証1(遠距離について)

Q3_1.「遠距離」で「精神的発熱」を起こすことは、どのように困難か?

86 インターネットは距離を無効化する仕組みですが、今のところそれで伝えられるのは限定的な映像と音声だけです。マイクが撮った音とカメラが写す映像以外は伝えられない。
87 当然、舞台芸術の全部は届けらない。これでは到底<舞台芸術を体験した>とは言えません。
88 それはなぜか?
89 比喩的に答えると舞台芸術は「聞く」ものでも「見る」ものでもなく、それは「触れる」もの「味わうもの」だからです。
90 もちろんこれはレトリックです。楽器や楽譜を触っても「音楽そのものに触れた」とはえませんし、演劇はおおかた食べ物ではありません。俳優、ダンサーなら触れるのですが、そのあと結構高い確率で劇場からつまみ出されてしまいます。それでもこのレトリックには重要な真理が含まれていると思います。なぜならここには

Q5.私たちが舞台芸術をどういうものだとらえているのか?

91 が反映しているはずだからです。「舞台芸術の体験」を、「聞く、見る」ではなくて「触れる、味わう」という言葉で表現した方がしっくりする気がしませんか?「音楽を聞く」「演劇を見る」よりも、「音楽に触れる」「演劇を味わう」の方がよりその体験を正確に表しているように感じられませんでしょうか?
92 (「感じないよ」という人はごめんなさい。ここまで付き合っていただきましたがここで読むのをやめてもらった方がいいかと思います。「その人にとっての舞台芸術」と「私にとっての舞台芸術」は、かなり違ったものだったということだと思います。またそれはそれでいいじゃないかと思います。そしてそれはごくありふれたよくあることだと思います。なんせすいません。「感じるよ」という立場から進めさせてください。)
93 ではそれはそれはなぜでしょう?なぜ「見る」よりも「味わう」の方がしっくりくるのか?
94 「見る」は単独だとそうも思いませんが「味わう」と並べて比べるとちょっと「あっさり」な気がします。
95 「味わう」のほうはより「じっくり」という印象を受けます。
96 「見る」がただ見ておしまいというか、純粋に「情報を受け取る、感知する」だけに感じられるのに対して「味わう」は、感知して、更にその情報を吟味したり、分析、判断したり、それについて考えたりすることも含まれるように思えます。受け取った情報に対して「私」の方からもなにかしら(分析や、考えたりだとか)主体的に働きかけている様子が感じられます。ということは…

A5.私たちは舞台芸術について<情報を受け取るにとどまらず、受け取った何かに対して主体的に働きかけることがふさわしい何か>だと捉えている

97 ということです。更に詳しく考えてみましょう。
98 「見る、聞く、触れる、味わう」それぞれの対象はどんなものでしょうか?「見る対象」は例えば信号機としましょう。味わう対象をりんごとしてみましょう。するとどうなるでしょう?

A5’.私たちは舞台芸術について「信号機」というよりは、「りんご」のように捉えている。

99 これはちょっと例が悪いですね。なぜかというと机の上に置いたリンゴを見ることは当然できますし信号もかなり頑張れば食べられるかもしれないからです。ですので対象物を固定して比較しましょう。例えばりんごを「見る」「聞く」「触れる」「味わう」ではどんな違いがあるでしょう?
100 「見る」が感知把握するのはりんごが反射した「光」です。「聞く」は「音」です。りんごから音がすることはまずないですが「音がしていない」ということを感知できます。
101 「触る」はリンゴの「形」「硬さ」「粘り気」「温度」「湿り気」…(他にもあるかもしれません)。「味わう」は(下や口の中で触っているといえますから)それプラス「匂い」「味」などです。
102 「見る」は光。「聞く」は音。という一種類の情報を感知します。対して「味わう」「触れる」は一度に数種類の情報を感知するようです。
103 つまり「見る」「聞く」ことよりも「味わう」「触れる」ことの方がより多角的に情報を感知している。ということが言えるでしょう。

A5’’.私たちは舞台芸術について「多角的に情報を感知する(のが妥当な)ものだ」と捉えている。

104 それはなぜか?そこに舞台芸術の本質があるからです。「観客が多角的に表現者からの情報を感知する」ことが舞台演劇の本質だからです。
105 精神的発熱の原因は「精神的ウイルス」と仮定しました。精神ウイルスは「主体として増殖しながらも同時に他者である」思想、感覚、想念などです。
106 それは「私」であり「私でない」ものです。「ある側面で私自身のようである。しかし別の角度から見ると全く受け入れがたい」そのようなもの。
107 ある舞台芸術表現が「精神的ウイルス」であるためには、それが多角的でなければならないのです。(多角的に感知されないとならないのです)
108 しかし残念ながら多角的な情報は遠距離では伝えることができない。なぜかというとそれが「重たい」からです。情報についてその多寡を「軽い/重い」と表現しますが、まさにそのとおりです。軽いものは遠くまで運べ、重いものは近くまでしか届きません。
109 私たちは川向こうの家を「見る」ことができ、近所の小学校のチャイムを「聞く」ことができる。情報が軽ければ対象との距離が遠くても受け取ることができる。
110 一方、りんごの味は食べてみないとわかりません。(想像することはできますが)情報が重ければそこから運べない。りんごに「触れる」時、りんごと私の距離はゼロですし「味わう」に至ってはリンゴはもう私の内部にまで入り込んでいる。私がそこまでいって直接感知するしかありません。
111 「情報が重い」というのは「単に量が多い」ということではありません。それらが多角的で相互に関係しており「複雑だ」ということです。
112 単に量が多いだけなら、比較的簡単にクリアーできそうなものですが、実際そうではない。
113 視覚情報、聴覚情報はシンプルなので「0と1の羅列=デジタル」に変換できました。それは「更に軽くできた」ということです。映像情報の解像度は「8k」などと、もはや人間の肉眼では捉えきれないほどの量の情報を扱えるようになっています。たとえ人間が捉えきれないほどの膨大な量のであってもその情報がシンプルであればデジタル化でき、距離を超えることが(いつかは)できるに違いない。ただ情報が多角的で複雑になると一気にハードルが高くなる。(それでもいつかは出来るようになるのかもしれませんが。)
114 したがってQ3_1.に対する答えは

A3_1.遠距離を「多角的な情報(その中に精神的ウイルスも含まれます)」運ぶ技術が少なくとも今はない。したがって精神的発熱を起こすことができない。

115 といえるのではないでしょうか。以下少し余談ですが、
116 技術的にインターネット上の情報は断片的一面的にならざるをえません。「こういう面では頷けるけれど、こっちから見るとちょっとな…」というような多角的な形で対象を捉えることが難しい。ディテールが消去され中間色は塗りつぶされてコントラストが強調される。<「私」であり「私でない」>ものなんて存在できません。まるで四捨五入するかのように<「私」か「私でない」か>(「好き/嫌い」「肯定/否定」)に選別される。してしまう。好きなものは飲み込んで消化するし、嫌いなものは吐き出す。そこにウイルスの居場所はありません。ちなみに「消化」とは文字通り「消す」行為です。パンは口に入れた時点では異物(自分と違う遺伝子を持つもの)です。消化器官でアミノ酸レベルまでバラバラに分解してとりこみ、そのバラバラの部品をもう一度自分と同じ遺伝子に組み立て直す。消化吸収というのはそういうことです。飲み込んだ「異物」は消化分解されて結局「自分と同じもの」として再び組み立てられるのです。そこになんの変身もない。自分を変身させてしまうような危険性のあるものは、即座に吐き出されてしまう。偏見でしょうけれどインターネットにはそういう印象を持っています。もちろんいいところもたくさんあるのですが…

検証2(低密度について)

Q3_2.「低密度」で「精神的発熱」を起こすことは、どのように困難か?

117 空調機能が良くないスペースでは夏には暑過ぎたり冬に寒過ぎたりということがしばしばあります。でも「精神的発熱」は物理的な熱ではありません。熱伝導、対流、放射などによって移動するものではありません。だからその意味では密度とは関係がありません。
118 また「観客の熱気」だとか「役者の熱量」だとかというように「熱」に言い換えられたり、実際の熱エネルギーに変換されうる「興奮、激しい感動、エロスなど」のことだけではありません。
119 熱エネルギーやエロスが「舞台、ライブの魅力の一つ」であることはいうまでもありませんし、それをなんら私は否定しようと思いません。ただ「熱狂の渦と化したライブハウス」でももちろん、しかし「観客全員が固唾を飲んで舞台を注視し、水を打ったように静まりかえった小劇場」でも伝染しうる(ように見える)「熱」を想定する、ということです。
120 物理的に密度が高い場所であっても、精神的ウイルスがテレパシーを介してお客さんからお客さんへ伝染する、ということは考えにくい。
121 ですからこれは端的に(一体感の説明のところでも触れました)同調圧力、同調性向が関係していると思います。
122 インターネット上のSNS。たとえばツイッターなどで昨今「バトン」というものが回っていることを目にすることがあります。何かしらお題が繋がりのあるユーザーから私の元に「バトン」が回ってくる。例えば「お気に入りの自撮り写真を上げろ」だとか。私は何かしらお気に入りの自撮り写真をupし、そのバトンをまた他のユーザーに回す。まぁ「不幸の手紙」と似たシステムです。
123 実際の空間にも同じようなシステムのイベントはあります。例えば「初会合での自己紹介」とかマイクが回ってきて一言ずつ喋る、ようなこと。
<「SNSで回ってくるバトン」か「会合で回ってくるマイク」かどっちが、無視しずらいか?>と想像すると「物理的密度」と同調圧力(性向)の関係がイメージしやすいかもしれません。
124 もう少し舞台芸術に引き寄せると<お葬式でのお焼香>や<ネイティブアメリカンたちがテントの中で回し吸いするタバコ>やということになるでしょうか。
125 まずもって私たちには生物的レベルで同調性向があり、社会的レベルで同調圧力があります。
126 多人数で食卓を囲み同じ料理を食べること。同じ屋根の下で眠ることは、それだけである種快楽なのです。多人数で同じ空間内にいて同じ演劇を見ること、同じ音楽を聞くことはその意味で快楽なのです。(同調性向)
127 また多人数で同じ空間内にいるのに「同じ演劇を見ないこと」「同じ音楽を聞かないこと」には抵抗が生じます(同調圧力)それが自分にとって価値がないと思ったら演目の途中でも席を立つことは個人の自由です。しかしその時に一切心理的抵抗を感じない、という人は少ないでしょう。
128 「同調圧力」「同調性向」は「異物を飲み込むハードル」を下げます。
129 「ちょっとこれは私には合わないかも…?」と直感していても周りがそれを食べていると食べてみたくなる。あるいは回ってくると箸をつけずに無下にパスするわけにもいかない心境になる。あるいは一人でいるときなら飲み込まなかった、すぐに吐き出した情報で、一旦は食べてみる、体内にとどめてみる。このことによってウイルスの侵入する機会が増えます。
130 「同調性向」「同調圧力」は心理的な作用です。(ひょっとしたら同調性向の一部はそうではないかもしれませんが)ですから、それを直接左右するのは「心理的密度」です。「物理的密度」は間接的にそれを左右しているに過ぎないでしょう。
131 しかしながら「物理的密度」の高い場所で「心理的密度を低く」保つことというのは、なかなか骨の折れる作業です。
132 逆はそうでもないかもしれません。(もちろん個人の感じ方ですからわかりませんが)「物理的密度の低い」…例えばひとりぼっちの部屋のパソコンの画面の前でも「心理的密度を高く感じる」ことは、逆に比べると容易であるようにも思います。
133 いずれにせよ「遠距離」という切り口と比べると、それほど致命的に「精神的発熱」の障害となっているとは言えないように思います。Q3_2.に答えると、

A3_2.「低密度」であることはそれほど致命的な障害ではない。しかし「同調圧力」「同調性向」が減退する傾向にあり、<精神的ウイルス>の侵入機会を減らし、結果「精神的発熱」を困難にしている。


検証3(高開放性について)
Q3_3.「高開放性」で「精神的発熱」を起こすことは、どのように困難か?

134 「低密度」での同調圧力と重複する部分も多くなりますが「低密度」に比べるとこちらの方がクリティカルな要素だと思う。(「要素」といってもそれは同じものの切り口の違いであって、だからこそ重複する部分が多くなるのですが)
135 開放性が高い。ということは、つまり「出入りしやすい」ということです。
136 「心理的な出入りのしにくさ(敷居の高さ)」というものが劇場にはあり、それと比例して一度入ってしまうと同調圧力が高い。
137 同調圧力は密度のケースと同じく直接的には「心理的な開放性」に関係するものですが「物理的な開放性」は「心理的な開放性」を左右しますから間接的にであれ「物理的な開放性」が同調圧力を左右するとは言えると思います。
138 インターネットで考えると事態はあからさまです。観客はいつどんなタイミングでも回線を切って[劇場]から「逃げ出せる」。
139 この「いつでも逃げられる」「一瞬にして逃げられる」開放性は<精神ウイルス>の侵入の機会を劇的に減損していると思います。
140 舞台芸術に照明効果が持ち込まれて以来、多くの「劇場」は物理的にも心理的にもより閉鎖的な空間になりました。そのことの功罪は一旦さておき、なにしろ「観客が物理的に囲い込まれた。」ということは事実でしょう。
141 観客を暗闇に囲い込み、着席と静粛を強制し、ただ一帯明々と照らし出された舞台上への、注目傾聴を持って成り立つのが現代の舞台芸術表現です。
それは逃れようがなくセレモニーであり、その場の観客に生じる同調圧力を計算に作られるものです。
142 かつての野外劇場や、路上パフォーマンスが持つある種の訴求力を失くしてしまった。か、もしくはその必要がなくなったのか。そこは判断が分かれるところだと思います。
143 現代において舞台芸術が失ったものはいくつかあるでしょう。またその代わりに得たものもあるはずです。照明効果はその代表かもしれませんが、私が想定する「舞台芸術の本質」もその「得たもの」の一部なのではないかと思います。
144 解放的な場所で耳目を集めるためには「明快さ」「シンプルさ」「極端」が必要です。遠くから見てもわかるような旗印。一瞬で理解できるテーマ。共感を呼ぶテーゼ。そんなものが。
145 <精神ウイルス>などという、なんだか複雑なものなんてお呼びじゃない。そんなものが広い野っ原にあったとしてもまず気づかれませんし、気づいてもらえたところで「これはいったいなんだろう」と足を止めてくれる人は極々僅かでしょう。
146 広い野っ原に落ちている「私なのだか、私を変身させてしまう何かなのか」判別がつかないものを拾い食いする人はまずいません。「いやこのお品はですね、こうこう、こういう由緒いわれのあるもので…」と説明をし始めた途端に、ブラウザのウインドウを閉じてしまうでしょう。

A3_3.「高開放性」空間においては「(精神的ウイルス含む)複雑な情報」は認知されずらく、またその価値を理解されることも難しい。したがって「精神的発熱」はとても困難。

結論
147 「逆三密」がどのように「精神的発熱」を困難にしているかの分析が出揃いました。

A3_1.遠距離を「多角的な情報(その中に精神的ウイルスも含まれます)」運ぶ技術が少なくとも今はない。したがって精神的発熱を起こすことができない。
A3_2.「低密度」であることはそれほど致命的な障害ではない。しかし「同調圧力」「同調性向」が減退する傾向にあり、<精神的ウイルス>の侵入機会を減らし、結果「精神的発熱」を困難にしている。
A3_3.「高開放性」空間においては「(精神的ウイルス含む)複雑な情報」は認知されずらく、またその価値を理解されることも難しい。したがって「精神的発熱」はとても困難。


148 ではようやく最後の問題に取り掛かりましょう。下の二つは同じ問いです。

Q4.その困難はどうしたらのりこえられるか?
Q1.<「現下の状況でも可能」且つ「舞台芸術の本質を損なわない」>表現はどうしたら実現できるでしょうか?

149 「遠距離」という角度からの困難については、将来テクノロジーの進化によって超えられるかもしれません。ただ私にできる工夫の余地はありそうにありません。
150 強いて挙げるならばより「多角的」であることを担保するためにクロスメディアによって表現をするということかと思います。実際劇場という媒体が閉じられている以上、他のメディアを使う以外に手はありません。
151 「低密度」という角度からの困難については、致命的でないこと、また次の開放性からのアプローチの方が適切であれば、同時に乗り越えられる可能性が高いので保留します。
152 「高開放性」という角度から困難については、あるいは何か工夫の余地があるかもしれません。というか残された解決の糸口はここにしかありません。「いつでも逃げられる」「一瞬で離れられる」観客をいかにして引き止めておけるか?
153 しかし「引き止める」ことは不可能です。どうしたって。ですから表現者の方から追いかけてゆかないとならないのです。
154 (なんだかストーカーじみた話になっていますが…)実際よくよく考えてみると観客ひとりひとりは、存在として一つなはずです。
155 Aさんという観客がいたとして、ネット上に[Aさん1]がいて、リアルに[Aさん2]がいて、合計二人いる。」わけではない。どこまでいってもAさんは一人なのです。
156 「引き止めよう」とか「追いかけよう」とか言い出したのでややこしくしましたが、結局のところ「Aさんと一緒の所にいる」ということです。「Aさんが居るところで表現をする(私なら演劇をする)」ということです。
157 以下「舞台芸術」を演劇に言い換えて進めます。
158 Aさんは今どこに居るのか?
159 劇場にはいません。いつか戻ってきてくれると思います。そう願います。
160 インターネットにはいたりいなかったりします。ブラウザを閉じれば部屋にいます(元からいたんですけど)
161 Aさんが居るのは「リアルとバーチャルに片足ずつ乗っけた」空間です。
162 すでにAさんはリアルとしてだけ存在するのでも、バーチャルとしてだけ存在するのでもありません。リアルもバーチャルもAさんの一側面です。
163 りんごは「赤い(視覚)」ものであり同時に「美味しい(味覚)」存在であるように、Aさんは「リアル」であり「バーチャル」な存在なのです。リアルのAさんもバーチャルなAさんもAさんという存在をある切り口から切り取った時に見える現象に過ぎません。
164 Aさんはどこに存在するか?
165 リアルよりもさらに多角的であるような空間です。多次元的と言い換えてもいい。うまく言葉にできません。ひとまず「Aさんはリアルとバーチャルの関係の場に存在する」としておきましょう。
166 ですから私たちは演劇を「その場」に「リアルとバーチャルの関係の場」に再配置しなくてはなりません。そこに劇場を作るのです。
167 単にクロスメディアというだけではたりません。「バーチャル」と「リアル」との関係を使って演劇を作る。または「バーチャル」と「リアル」の関係を演劇的にする。ということが一つの答えになるのではないかと思います。

A1.A4.演劇を複数のメディアで出力されうる形に整形することではなく。複数のメディアがあるその場(次元)に演劇を展開することによって。

168 出たり入ったり神出鬼没の、私たちが見失ってしまった観客を再び捕捉する為に私が考えたことが以上です。

下鴨車窓を拝見しました。

下鴨車窓「散乱マリン」を拝見しました。

今回はキャスティングが本当に本当に良かったと感じました。各役者さんがすごくハマっていたというか、「適材適所」っていう言い方すると(組閣のこととか頭に浮かんで)「ありものの中から、よりいいバランス選んだ」みたいなニュアンスに聞こえるけれどそうじゃなくて、「ラグビー代表」みたいな。「各役をやらすならこの人っ!」って人が(結果そう見えたってことだけれど)集められてたように思う。てなことを言いながら出演者の皆さん全員のこれまでのお芝居を見ているわけじゃないんですが、何しろみんなハマり役に思えました。それぞれの良さがじっくりたっぷり伝わってきて、ま、それだけで僕は大満足でした。

 どうしても下鴨車窓は「点」ではなく「線」でみてしまうので、前回拝見した「微熱ガーデン(再演)」のことなども頭に浮かんだりします。「微熱…」の中村彩乃さんの(僕が感じる所の)ミスキャストと、実に対照的だと感じました。誤解の無いように申し加えますと中村さんは、本当に素敵な俳優さんです。舞台上の彼女を一度でもご覧の方にはいうまでも無いことだと思いますが。《ほんと彼女、素敵ですよね)ただ「微熱…」で彼女が演じた役は、彼女じゃなかったかなあと、私は感じたのでした。それもまた下鴨車窓を何度も拝見している「あや」といいますか、初演の「微熱…」時にその役をやってらっしゃった俳優さんが本当にハマっていたのです。それで「それとの比較で見るから」と言うことは大いにあるのです。だいぶ大雑把に書いてしまうと「論理的と言うよりは感覚的に行動する登場人物=役柄」に俳優としてどう近接して行くか?という実に難しい問題に、僕が拝見した時の中村さんは「当たって砕けてた」ように感じたのですね。「感覚的」というのは「本人にも、容易には言語化できないなんかのメカニズムでそうしてしまう。そんなことを言ってしまう」ような人物のことです。他人から見たら「なんか感覚だけで動いてるなぁ」と感じるけれど、当たり前の話人間ですから、その行動、発話を選択する何かのメカニズムはあるんはずなんです。「無意識」という言葉は便利すぎて使うのが嫌ですが例えばそういうこととか。で、そんな役がふられた時に、俳優がなすべきことは、どういう作業か?これほんまにめんどくさいんです。もちろん俳優が「感覚的に」やってしまうことも一つの手だとは思います。ただそうなるともう本当にギャンブルというか、やっぱり俳優は「その役がなぜそこでそういうのか?そうするのか?」を探って、自分の体にインストールしようと思うはずなんです。僕はそれは至極真っ当だと思っていて、中村さんは真っ当な、もっというと「珍しく真っ当な俳優さんだ」と認識して、だいすきなんです。またいつか共演できたら幸せだと思ってるんですが…。ただその真っ当さが、届かなかったというか、「理屈で動いてない対象を理屈で捉えようとして捕まえられなかった」ように感じたのです。簡単なことじゃないですが、そういう役を捉えようとすると俳優はもう一つ次数を上げて取り組まないといけなくって(まあ口で言うのは簡単ですが)そこまでには至らなかったのかなあ、と。
で、それと比べて(比べることに意味はないのでしょうが)今回は本当に各俳優さんが伸び伸びと輝いてたなあ。と感じたのです。
西村さんは、本当に「隙がない」なぁと。惚れ惚れするんですよね。もう嫉妬しかないのです。この人おらんかったらもうちょっと俺の仕事増えてるんちゃうやろか?とか(笑)なんせ良い。大別するとタイプとしては藤原大介さんと同じで、何かを内に秘めて、ググッとその密度を高めて、観客に目を切らさないというか、そういうタイプだと思います。これってすごいことなんです。僕とかはかまってちゃんのわかってちゃんですから、表に出来るだけ(というか全部)出そうとするタイプ。だからね。やっぱり敵わないなあと、悔しいけど思うんですね。「思わせぶり」なだけじゃなくそこにきちんと質量があるから見ちゃうんですよね…。Fさんは、若干「納品した」感がありましたが、まぁまずもって僕が付き合い長いから「一味違うFさん見たい」という欲望が強いのと、ああいう役を振られたらFさんとしてはそうするしかないよね。という部分もあり。ただ、オナニーにならない範囲でもう少し「戦えた」かもとは感じました。おもちゃのナイフが出てきて、それで刺したら斃れてしまったあとの(正確ではないが)「刺したらダメだよ」というあたりのセリフとか。の、説得力とかかな。普通に聴くと意味わからんのですけども、客が「ああ。そらあかんな」と納得してしまうような、なんか発話、体がそこにあったら、もう一つこの世界が重層化したんじゃないかとか。澤村さんも、とってもよかったですね。あのいやらしいセコい感じが。一度だけ共演させてもらってて、ほんとナイスガイなんです。ただ、なんかもう一枚、皮、脱げるんちゃうんか?とは思うんです。筋トレとかせんでもええんです彼は。そのまんまでうわーっていけば素敵なやつなんですけどね…あ、もちろん個人の感想です。僕の喜一郎さんのベストアクトは枚方ノート(ピラカタだったかも)の、知的障害を持つ子供の役。あれはもうほんまにか美しかった。なんか客からどう見られるかとかじゃなく、役と俳優ががっぷり四つに組んでる感じだったからだと思う。全員に言及してると朝になってしまうのでここらでやめますが何しろ俳優さんがとても素敵でした。
それが全て。で終わっものいいのですがあ、一点不満があるとすれば、ラスト前の小暗転。これは僕は田辺剛の息継ぎだ。と、もちろん後からかんがえてなんですが、そうおもったのです。
これも「点」でなく「線」で見てるからなのでしょうが、田辺作品に「寓話」が戻ってきたと思ったのです。正確には戻ってきたわけじゃなくて、たまたま僕が拝見したタイミングがそうなのですが。

で、感覚的な言葉になりますが、やっぱり、描き切って欲しい。すごくワクワクして見てたから。どうするねんと。どうなるねんと。寓話の世界に潜って潜って、最後、息が切れて息継ぎに水面に上がってしまった。そんな印象です。一言で言うと「描き切ってくれ、最後まで」と願うのです。その寓話、双方が地となり図となって出現している寓話に、田辺さんの筆でとどめを刺して欲しかった。ワクワクしながら読み進めた絵本の最後の2、3ページが抜け落ちていた。そんな感じです。ではどうすればいいかはわかりません。二人が湿地に足を踏み入れ「バシャーン」のあと、格闘シーンがあってお互いに差し合って倒れたらいいかって、そうじゃないとは思います。僕にはわかんないです。でもそこ落とし前つけてよ。と。描き切ってよ。と。

最後、二つの身体が斃れている。僕の記憶も確かじゃないですし、僕の見た会だけかもしれないですが、二つの体とも、頭が中央を向いていて、うつ伏せで、1メートル強の距離が離れてるんですね。例えば互いにあのナイフで差し合って果てたならもっと距離は近いだろうしあるいは重なるように、または抱き合うように斃れていたかもしれない。または片方が中央に倒れていてもう片方は段差に体をかける形で、つまり、やっつけたけど、そこから立ち去ろうとする時に息絶えたとか。になるかもしれない。
あのラストだと「二つの斃れた体がある」という記号に感じるのです。もちろんそういう終わり方はあっていい。この芝居全部が、深海に流れ着いた自転車の残骸や死体が、なんかの潮の流れで偶然にそういう配置になった結果(誰の脳裏になのかはわかんないけど)ふと立ち上った物語であった。というような。
でも、そうじゃないものを田辺剛には求めたい。僕は。
「お客の想像力を信じる。委ねる」というと反論できないけれど、大袈裟にいうとネグレクトじゃないかと。それこそ田辺剛の仕事じゃないかと。そして田辺さんにしかできない仕事じゃないかと。

なんか偉そうですね。でもまあ、見に行ける人は見に行ってください。

素敵な舞台ですから。

地点のこと2

まず私の立場をくっきり。
僕は俳優です。京都で活動しています。地点は好きです。作品によって好き嫌いが大きく分かれるところを含めて。「ヘッズですっ」ってことでもないとは思っています。構成員に友達がいます。あと京都舞台芸術協会ってところの理事長をしてます。後ほど京都舞台芸術協会に関わることも言及しますが、このブログは僕の個人のもので、「ブログにこんなこと書くよ」と他の協会理事たちに相談したこともなく、また理事長つってもなんかたいそうな権限があるわけでもないので、京都舞台芸術協会とはあんまり関係がありません。とはいえ「私人として」とかよくわからんことを言うつもりはなく、このブログで以下書くような意見を持っている理事(私)が京都舞台芸術協会にいることは事実です。ただそれをもって京都舞台芸術協会の総意ではないこというまでもありません。

この前地点のことについてブログに書いたのが去年の10月。
その後、地点は沈黙をし続け、11月のいつなのか正確な日はわからないけれども映演労連フリーユニオンのホームページ上で「9月より団体交渉の開始」が報告されともなって、それ以前のエントリー(被害者の主張するパワハラ、不当解雇のざっくりとした内容などが書かれたもの)が削除された。
なので「まずは話し合いのテーブルに双方がついた」ということで間違いはなさそうだと考えていました。その去年10月にも書いたけれど、揉めてしまうとどうあれ、そのどちらかが出すステートメントは「一方的」にならざるを得ない。最後、調印して(できれば握手して)共同声明を出すまでは。原理的にそうだ。から地点がコメントを出さないということに関してはある程度理解はできた。理解はできるが気持ちは悪かった。(ここらは前回書いた)
この映演労連フリーユニオンが「団体交渉開始しました」と発表した時点で、同じように地点も「団体交渉中です。詳細なコメントは差し控えます」とコメントを出してればまた状況は違ってたかもしれない。「誠意を持って対応していきます」とか書いちゃうと、またややこしいけども、なるべくユニオンサイドと同じ言葉を使って最小限シンプルな言葉でそのコメントを出していれば「無視ですか?!」「なかったことにするつもり!?」というようなリアクションは(それでも言う人は言うんだけれど)少なかったかもしれない。
 なんでここで出さなかったんだろう?全くの憶測だけれども
・「ヘイターは、こちらが何をしたって笑っちゃくれないし、何かをするたびに噛みつかれるんだよな」という経験からくる実感と、
・「向こうがそう言うアクションに出たのだから、交渉中であることは言わずもがなで、だからコメントを出せないことも、いちいちいうまでもないことだろう」
・多忙
等かなぁと。本当に憶測だけれど。たしかに「交渉中につき…」というコメントを出しても
「うわー、なんか『捜査中の案件ですのでコメントできません』つってる政治家みたいっすね!」ぐらい言うてくるヘイターはいると思う。しかしそのコメントが出ない期間にちゃくちゃくと、僕ぐらいの距離感で見ている人の「気持ち悪さ」も増幅していったのではないか。そこは見誤ったかもしれない。「ヘイターの嫌悪感」と「フラットな人が持っている気持ち悪さ」とをごっちゃにしたってことかも。

そこにきてロームの館長就任発表。
京都市とロームシアターの短慮に関しては批判されてしかるべきだと思う。僕はまずいとおもう。なんでそんな「あぶない人選」をしたのかわからない。余人に替えがたい才能だとは思うけれど、不当解雇、パワハラの疑惑があるのなら一周パスできなかったのかしら…。

団体交渉というぐらいだから
1)双方に意見の食い違いがある
2)双方が歩み寄って妥結点を探っている。
ということなんでしょう。
つまり裁判しないための方策なんですよね。くだくと、「喧嘩を回避して握手するためのしぐさ」なんです、原則。もちろん国際政治の場でも、企業同士の場合でも、「テーブルの上で握手しながら、テーブルの下で足を蹴り合う」ようなことはあるんでしょうね。またいろんな情報を「飛ばす」ことでその交渉を有利に進めるなんてこともあるんでしょう。(知らんけど)。ただ基本的なマナーとして、「俺が100パーセント正しい」ということを広く外野に言いふらすのはNG。そういうことすると話し合いにならんから。「win winの関係」の逆ですよね。「lose loseの関係」なんです。どっちも言い分はあるけれど、どっちも不本意ながらおれられるとこまでおれて、手打ちにしましょうってことだから。「黒や」って側と「白じゃボケ」って言うてる側があって、どれぐらいの灰色でおさめますか?と言う話し合いがなされようとしていたわけでしょ?多分。その双方の見解の相違の程度が「白」と「黒」ぐらい離れてたのかどうかはわかりようがないですが。

地点からすれば、出会い頭に鼻っ面殴られて「おう、話し合いしようぜ!」って言われたようなもんですよね。もちろん社会的弱者にとってはそれしか手がなかったと言う可能性は高いです。何度も交渉を申し出ていたが地点側が相手にしてくれず、しかたなく、センセーショナルに世論を味方につける形で訴えたということもあるかもしれません。被害者の方には実際それしか手がなかったかもしれない。「マスコミや新聞を使って被害を訴える」のと同種の方法。地点に身に覚えがあるのかないのかわかりませんが、それを受けて(なのかどうかすらわかんないけど)それでも「じゃあ話し合おう」といってテーブルに着いたと。両者テーブルに着いた時点でユニオン側が一旦、剣呑な記事を削除した。そこで「お互いここまでなら譲れる」という話し合いが進めばそれが一番良かったんだろうと思う。それは何も「喧嘩両成敗」的なことじゃなくて、正義がある方により近く、正義のない方がより譲った地点で妥結されればよかったろうと。で、そこが設定できないならば、裁判するしかない。

いずれにせよ、静かな環境で話し合うのがいいよ。外野がやかましい中では落ち着いて話もできんし、ユニオンさんが噛んでくれているなら「密室」と言うことにはならんだろうし。そのためにも「コメントは差し控える」んでしょう。ところが就任の発表がされちゃう。

これはもう明確に「地点としては不当解雇もパワハラもやってません」という、相当明確な態度表明じゃないですか。だって「不当解雇、パワハラをやって、謝ってもいない人」が、館長になったらまずいです。そんなことはわかってる誰もが。
つまり地点はステートメントは出してないんだけれども、「うちらはやってません。」という明確な表明をしたのと実質同じで、かつそれに京都市とロームシアターがお墨付きを出してしまったってことなんです。 
これをやった時点で「話し合いのために、こちらの一方的(にならざるを得ない)ステートメントを出すことを控える」というのが全く、ちぐはぐというか、本当にそう思ってやってたとしても、筋の通らん話になってしまったと感じている。これは相手からすると「なんじゃそら」だとおもう。右手で握手してたら左フック来たってなもんでしょう。

結局、地点と被害者の方の見解の相違は、ものすごく大きかったんでしょうね。少なくとも地点は「ロームシアターの館長引き受けても大丈夫」という認識であることは間違いない。

で。だとして。京都市とロームシアターは、今回の「騒動の被害者」から独自にヒアリングなどをして、その結果「こりゃシロだ」という判断にいたった上で三浦さんに依頼?任命?してるのか?ということ。これをしてるってのならほんとごめんなさい。僕の想像だけですがしてないんじゃないのかなぁ…?そうだとしたらこれが一番の問題だと思う。「無能さが邪悪」な人も「邪悪で有能」な人もいるけれど、地点、三浦さん付近にそういう問題があるということを知らない、知ろうとしないまま任命するほど、市もロームも無能ではないと思うの。「徹底的に身体検査しろ」とは言わないけれど、「不当解雇、パワハラ問題、疑惑?がいまありますよ」ということぐらいは承知の上でやってるでしょ。その上で依頼だから

「京都市、ロームシアターは、地点、三浦サイドに非はない、と思う」って言った、つまりお墨付きを与えたってこと。

繰り返しだが「それ被害者の人にも話、聞いたか?」と。聞いた上での結論ならすんません。また「疑惑があること」すら知らない知ろうとしない無能ならば残念。


なんせここからはケンカだなぁと憂鬱になるわけです。「喧嘩しないで話し合いするためにステートメント出さなかった」という地点の主張は途中までは実際にそうだったんだと思いたいけれども、館長就任ニュースが出てしまうと、「おえ!喧嘩する気まんまんやんかいさ…」とならざるを得ない。ステートメント以上に強固だよ、だって市とロームシアターの後ろ盾があるんだし。でも「それでもかまわない」というぐらいに地点の彼らは彼らの正義を信じているんだろう。なら裁判するしかないと思うんだが…。

北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ

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もう一点。
僕がテレビを見ていた頃だから12、3年以上は少なくとも前なんだけれど、おそらくアサヒスーパードライのCMで蜷川幸雄が出てるやつがあって、蜷川さんが稽古中に女優に怒鳴るの。
「そこで泣くんだよ!泣けぇっ!!」って。
僕はゲロ吐くぐらいそれが嫌いで。
CMの最後には「お疲れー」つってムッチャいい笑顔で座組みの人らと乾杯するんですけどね。全部がCMの演出なのか、ドキュメントも入ってるのかわかんないですけども、とにかく「なんじゃそら?」と思ったし「おい、こんなもんCMにして大丈夫なんか?」と思った。
で、そういう話がしたいの?ってこと。僕自身のことを言えば思い当たることは山ほどある。一昨年に京都舞台芸術協会でやった「舞台芸術家のための法律セミナー」に関連してツイッターで自分の黒歴史をどんどん流したけれども本当にもうど真ん中パワハラなんです。バカでした。すいません…。そんな私が言うのもどうかと思うのですが…

今回の地点のことは、ど真ん中真っ向「労働問題」でしょう。それこそ「労働問題に詳しい弁護士の〇〇さん」マターなんだと思うんです。フリーユニオンさんが入ってますけれども。(多分フリーユニオンさんは僕みたいなフリーランスも相手にしてくれる、つまり法律である程度保護されている「労働者」に限らず、むしろ「個人事業主」であるがゆえに保険も入れてもらってないような人の権利について明るい団体なのでは…?)だから、どっちかっていうと労働局に訴え出る案件じゃないのでしょうか?)
「パワハラの挙句、不当解雇」って、演劇に限った問題じゃないんですよ。それは地点が会社で被害者の方を雇用していたから。労働者なんです。

僕が舞台芸術協会の理事長になったのは、今から2年弱前、2018年4月で(あ、5月かも)、ちょうど「とある劇団のパワハラ」問題がふっと界隈で立ち上がった時期なんです。それを受ける形で「なんでも相談窓口」というものを開設したり、弁護士の中村先生にご協力をいただいて「舞台芸術家のための法律セミナー」「契約書作りワークショップ」などを京都舞台芸術協会が主催で開催しました。(僕が一人でやったんじゃないですよ。協会のメンバーでみんなで協力してやったんです)これはね、本当に厄介なんです。中村弁護士とお話しさせていただく中でクリアーになっていったのは、「私たちは労働者じゃない」ってことでした。つまり雇用契約を結ばずに、フリーランスが「業務委託」を請ける形で進んでいく事柄について(また、そのうちの多くは契約書を作らない形で!)どう言う約束事をするべきだろうかとか、「劇団」とかなるともっとようわからんもちゃもちゃした感じのなかで起こったトラブルはどう解決できるんだろうかとか。これはほんまに鬱陶しい、だるい話なんです。で僕たちはつい「演劇の世界のパワハラ」ということに、つまり自分の身近なことに引きつけて、それを今回の地点の件に重ねて、言いがちなのかと思うのだけれども、それは得策じゃないと思うのです。せっかくクリアになる条件下にあるものを、わざわざ、ふんわりした答えの出にくい平面に還元せんでもいいやんかと。「法人化」の流れはあるんでしょうけれども未だ多くの劇団はそこに至っておらず、まして俳優が労働者として雇用されている(民間で)というのはまだまだ珍しい事例でしょう。

「劇団内でパワハラがあったのか?」
よりも
「その会社の中でパワハラがあったのか?」の方が認定しやすいはずなんです。法律があるから。
劇場法はあるけど劇団法ってないんでしょ?「パワハラ防止法」とかどうなったのかしら?大企業と中小企業で違うんでしょうが…。
まして「不法(不当)解雇があったのか?」ということは「劇団を追い出された」とかいうことよりも、格段に認定しやすい。
会社には様々な責任義務があり、雇用される労働者には様々な権利がある。(僕ら稽古場で怪我しても、共演者からカンパもらえるかも?ぐらいですからね)
その枠組みで、はっきりするかもしれない事案に関して、自分に引きつけて「演劇とパワハラ」というレイヤーを重ね合わせることは、問題を「矮小化」といっては言い過ぎかもしれませんが、「ただめんどくさくするだけ」と言う側面はあるように思うのです。

「演出家が『この俳優を使ってもいい演劇ができない』と判断した時に、その俳優を降板させることができるのかどうか?お金どうするの?」
「俳優が『こんな演出家のしたでやってられるか」と思った時に降りられるのかどうか?お金どうするの?」
というレベルのこととは切り離して、幸いにも(?)この案件は労働問題として白黒はつくはずのものなのです(裁判になるんだろうが。嗚呼…)

「演劇の世界のパワハラ」については、ややこしかろうがめんどくさかろうが地に足つけて、ちょっとずつでも取り組んで改善してゆくべきだと思います。
また「労働者」としての被害者への連帯はあってしかるべきだとおもう。実際私は演劇の仕事もしてますが、それだけでは収入が足りませんのでWワークをしていて、弁当の配達をしているわけですが、そこでは全き「労働者」です(正社員じゃないけど)。ですから、その地平での連帯はできると思う。僕個人としては。

ただ「演劇に携わる人間として」今回の問題にコミットしていくってのは、クリアになるかもしれない問題を、よりわかりにくくするんじゃなかろうか?とも思っている。

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この二日、このことばっかり考えていてどうにも前に進めなかったので、吐き出して先に進む。
目は切らないけれど、脳みそと時間は来月の一人芝居のことに使う。

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「紙屋悦子の青春」とそれにまつわる「批評性」について(アホほど長文)

アイホール 現代演劇レトロスペクティヴ
コンブリ団「 紙 屋 悦 子 の 青 春 」

の稽古中です。私はタイトルロール=悦子の兄(安忠)という役どころです。役作りを進めていくなかで、にわかに「批評性」というキーワードが私の目の前に立ち現れてきました。そのことについて書こうと思います。

まず大前提としてこの公演は「アイホール 現代演劇レトロスペクティヴ」と冠されているようにいわゆる再演です。もうその時点で既に批評的であらずにはいられません。過去のある時点で一定評価を得た作品、戯曲を、今現在時点に置き直す。作り手が<いやおうなく新たな>視点から作った作品を<いやおうなく新たな>視点を持った観客が体験する。ここには(『再演』という営みには)全き批評性があります。そこで私が考えたいのは
「黙ってたって批評的にならざるを得ない今回の公演に当たって作り手(その一員である私も含めて)はどのような批評性をもつべきか?」
ということです。
「どのような批評性」というのは、何に対して、どういう角度で、どのような力加減で、…?ということです。
「持つべき」というのは「義務、正しさ」というよりは「かっこいい」「理にかなっている」「芸術的価値が高い」「やりがいがある」というあたりのことです。
そのことについて考え始めると、この「紙屋悦子…」の再演におけるその問いは実はすごく複雑な問題だということがわかり始めてきました。

 何が「すごく複雑」なのか?と言いますと、それは「批評(性)の問題」がいくつかの層(レイヤー)に同時にあること。そしてそれらが互いに相関関係にあるということだろうと思います。いくつかの層。演劇にもいくつかの層があります。
・劇世界
・戯曲と演出家との関係の層(演出家とスタッフ、俳優の関係世界)
・作品と観客との関係の層(上演と社会との関係世界)
上記のいずれの層(レイヤー)においても「どのように批評(性)をもつべきか?あるべきか?」という問題がある。実はこれはどんな演劇作品においても至極当然のことだろうとも思うのです。たとえ再演でなくても同じ問題はあるだろうと。ただし、こと今回の「紙屋悦子の青春」の再演に関しては、その濃度が随分と高いのではないか?と感じていまして、それについて以下もう少し細かく書いていこうと思います。(細かく書いていくなかで作品の内容に触れています。そもそもが再演作品で有名な作品です。また映画化もされておりますのでご存知の方も多いとは思いますが、「今回、事前に情報を何も入れずにまっさらな状態で観劇したい」という方は、以下の文章は観劇後にお読みいただければ幸いです。)


<><><><><><><><><>

⑴戯曲に対して、初演に対しての批評性
先に書いたように今回は再演なのでそこには否応なく批評性が立ち上がるだろう。「名作だなあ」「美しいなあ」という単純な感想だけでもって我々が取り組んだのだとしても、そのとき出来する演劇には自ずと何某か批評性を纏うはずだ。なにせ初演から四半世紀が経っているのだから。とはいえそのことと、
〈「紙屋悦子の青春」に対して私たちがより自覚的に批評的であろうとすること。〉
とは少し違う問題だ。私たちは「この戯曲はなんだったのか?」「何故に名作なのか?」と問うて分析することもできるし、しないこともできる。「初演と今とで何が変わって、何が変わらないのか?」と問うことも問わないこともできる。
時間経過によって自ずと発生する批評性とは別に、そこからより進んで、違う角度から細かく光を当てることもできる。が、そうしない(でおこうと努める)という選択、つまり「時の経過に伴った素朴な批評性に委ねる」こともできる。果たしてどのような塩梅がよろしいのだろうか?ということがまず一つ目の「批評性をめぐる問題」だ。
演出のはしぐちさんが時空劇場に対してどんな批評性を持って再演に挑むのか?ということでもある。
また、時空劇場の「反動」とも取れる松田正隆さんのその後の活動、マレビトの会の初期に数度俳優として使ってもらった私にとっても、直接出会わなかった当時の松田正隆さんの戯曲にどんな批評性を持つべきか?というのは少々複雑な問題だ。しかし純粋に俳優の作業として台本をセリフを綿密に吟味する行為は、すなわち批評性を高めることだ。肯定的にであれ批判的にであれ。そうして少しずつ「紙屋悦子の青春」という戯曲が私の中で手触りを変え始めていった。
 次にその作業で感じはじめた「戯曲の中の批評性に関する問題」について書く。


⑵劇世界内部の批評性
・ふさの批評性
私の演じる「安忠」は紙屋悦子の兄である。ふさは安忠の妻であり、また悦子とは学生時代からの友達である。徴用されて、熊本の工場で働く安忠が一週間ぶりに米ノ津の家に戻ってくる。ふさは赤飯を炊いて夫の帰りを待っている。なぜ赤飯か?ただ「ごちそう」ということではない。近所の奥さんが「赤飯とらっきょうを食べたら爆弾に当たらない」と言っていたのだ。そのゲンを担いで、食卓に用意したのだった。しかしなかなか安忠は帰ってこない。帰りが遅いことを心配するふさと、やっと帰ってきた、妻と妹のことを心配していた安忠は、そのお互いの心配のささいな行き違いがエスカレートし過激な口論となる。

安忠「…おまえは日本が負けてもよかとか」
悦子「義姉さんは何もそげんことは言うとらんじゃなかね。」
ふさ「…よかよ…負けても…」

その後ふさは、悦子に促され「すいません」と一度は謝るものの「間。」の後「ばってん…」と続ける。

ふさ「ばってん…赤飯は赤飯らしゅう食べたかとです。らっきょうもらっきょうらしく食べたかとです。爆弾に当たらんごとておもうて赤飯やららっきょうば食べとうはなかじゃなかですか。」

一見、このふさのセリフには鮮烈な批評性があるように思える。戦争の末期である。前線の兵士は言わずもがな本土でも空襲で死んだ人々。家族を失った人々がいる。家を焼かれ帰る場所を亡くした人がいる。銃後を守ろうとその命を投げ打って敵艦に突っ込んでいく飛行機乗りがいる。安忠、悦子の両親も、東京大空襲で米軍によって命を奪われた。食べたくても食べられない人々がいる。粗末な食事でもかろうじて食べて命をつなぐ、その銃後の些細な営みを守るために自らの命を投げ打つ人がいる。そのシチュエーション、時空の中で、ふさは言い放つ放つのである。赤飯を食べながらである。「赤飯は赤飯らしく食べたい」と。これは本当に鮮烈だ。「コメを食べたい」「お腹いっぱいになりたい」と言うだけでも「おまえ、兵隊さんに向かってそれが言えるか?」「空襲で死んだ人、家族を失った人の前でそれが言えるか?」という状況。の中で「赤飯を食べながら」その食べている時の心持ちについて主張しているのである。無論それは「起きている間、常に『家族や知人が無事であるか?』と心配をしながら生活をすることにはもう耐えられない」ということなのだけれど、もうすでに家族を失った人々がたくさんいて、その人たちは心配することもできないのだから、「無事だろうか?」と不安に思うことすらもいうなれば一つの「贅沢」なのだ。しかしふさはそれを言ってのける。その強さを持っている。

ただ。ここでのふさの批評性は、芝居の中で(字面ほどの)鮮烈さを持たない。なぜか?それが家の中、ドメスティックな空間でなされた主張であるから。さらに重要なのは(台本を一読する限りにおいて)その場にいる悦子、安忠ともに、ふさと同じような視座で戦争というものを見つめているから。ふさの「赤飯…」のセリフは実に批評的であるが、その批評の的が舞台上にはないのだ。(繰り返しで申し訳ないが)一読するかぎり、ストレートに素朴に戯曲を読む限り、悦子も安忠も、ふさと同じ視座で戦争を見つめている。つまり「負けてもよか」という視座である。ふさが鮮烈に批評する「戦争。それを支持する空気」明石を特攻隊に志願せしめたもの。は舞台の外にある。登場人物たちはその舞台の外の空気に包まれて「被害者」として居て、言葉の発露の仕方は若干違えど、同じ方向を見ている。であるから、本来「鮮烈」であるふさの批評は、その対象が具体的でないことにより、ふやける。「サークル内の愚痴」にまで堕ちてしまわざるおえない。こうして一見鮮烈に見えるふさの戦争への批評性は、ふやけて、「悦子の悲恋」という鮮やかさに照らされ蒸発してしまう。

・老夫婦の批評性
これこそ「紙屋悦子の青春」の最大の特色だろうと私は思うのだけれど、「老夫婦」と「彼らの回想」の二重構造を持ちながら、老夫婦に 批評性がまったくないのだ。「老夫婦に」というよりも「老夫婦のシーンに」というべきだろう。普通に考えると回想シーンというのは、「今現在の視座から過去を振り返る」ことであり、そこに自ずと批評性が存在する。また過去のシーンによって、現在が見つめ返され、そこに又、批評が存在する。
 
A)「現在と過去が互いに批評し合うことによって、作品を立体的にしてその奥行きを増す。」
普通に考えてこれが「回想シーン」の大きな役割だ。その効果を得る為に「回想」という構造が持ちこまれる。
あるいは
B)シンプルにストーリーを倒置法的に表現する。結果の側から先に示して「その原因」に対しての興味を観客に喚起させてから過去(原因)を提示する。為に回想は持ち込まれる。

なのに「紙屋悦子の…」ではそのどちらでもない。B)の効果はほとんどないし狙われてもいないと感じる。興味深いのはA)の効果について、「それがない」ということだ。現在の病院の屋上にいる老夫婦も、回想の中の登場人物も、同じような角度から戦争を見つめている。これはとっても異質というか奇妙なこと。劇作ということを考えると。繰り返しになるが「回想」という構造を戯曲に持ち込む意味は「過去時点の視座」とは違う視座(現在)から過去を回想する、つまり違う角度から光を当てること=批評にある。素朴に「違う角度」、と考えるなら、老夫婦のシーンは、寂しげな病院の屋上ではなく、例えば「正月に帰ってきた息子、娘、そして孫たちに囲まれて幸せに団欒するひと時」である方が(劇作として)自然だ。実に平和で幸せな風景、一コマ、その時不意に思い出す、遠い過去の記憶。戦争と平和のコントラスト。それが強ければ強いほど、「二つの視座が異なる」訳で、より作品としての立体感、奥行きが増す。それは明白だろう。「紙屋悦子の…」では、先に書いたふさの批評性と同じように「一見」<戦時中の茶の間>と<穏やかな病院の屋上>とが対置されて互いに批評的であるように見える。のだけれど、実際には老夫婦も過去のシーンの悦子と長与も、同じ角度から戦争を見ている。時間の経過によってその「距離」は変われども「角度」に関してはほぼ同じように感じる。老夫婦の回想として展開される物語でありながら、「老夫婦→回想」にも「回想→老夫婦」にも批評性が希薄、というか無いのだ。

<ふさの批評性>、<老夫婦(反対にその回想)の批評性>、それらが「全くない」とは言わない。しかし「紙屋悦子の青春」のただただ鮮やかな「悲しさ」。その目がくらむほどの鮮やかな悲しさの陰で「批評性」はすっかり蒸発する。今回のコンブリ団「紙屋悦子の青春」のチラシは(意図的であるか否か知らないけれど)恐ろしいほど的確にその様子を表現している。

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チラシには戯曲の言葉、その文字がピンク色の桜の花びらとして配されている。その鮮やかな花に目を奪われて、私たちはそれを支える幹が目に入らない。それは実に周到に、徹底的に意図されたものに違いない。

「反戦演劇でないこと」こそが「紙屋悦子の…」の目的ではなかっだろうか?そしてそれこそが「静かな演劇」の「静かさ」ではなかったか。パラノイアックに「悲しい物語」として純化すること、批評性を排除することを目指された戯曲であり、その上演であったのではなかろうか?そしてその純度の高さこそが世間の耳目を引いたのではないだろうか?


⑶全ての階層にまたがる批評性(主に戦争についての)
書いてきたように、私にはこの戯曲内の登場人物からも、構造からも、徹底してその批評性が隠されているように感じられる。いうまでもなくこれは今現在の私の感じようだ。私は今45歳。父は終戦の年の7月に生まれた。母は父よりも一歳年下。つまり私の両親のこれまでの人生の日々、丸々が「戦後」なのだ。その私が今そう感じている。初演時、今から四半世紀前にはどうであったろうか?戦争体験をしっかりと記憶している方も観客の中にいらしゃったのではないか?そのような方にとってはどうであったか?おそらく今私が書いているような「批評性のなさ」と言う指摘はあたらないかもしれない。舞台上に「戦争そのもの」が立ち現れることにより、その記憶が風化してゆきつつある社会に向けて高い批評性を持っていたかもしれない。ただ確かなことは、少なくともこの戯曲の登場人物たちによっては戦争を防ぐことはできないだろうということだ。過去シーンの人々にも、病院の屋上の二人にも。

 私は今回の芝居にあたって資料を読む中で多くの体験者の心境と合致するというこの(無季)俳句を知った。

戦争が 廊下の奥に 立ってゐた(渡辺白泉)

 人々が気が付いた時に、ふっともう戦争はその形を確かにしてそばに在ったというわけだ。そうだろう「おかしいな、なんかへんだな、まずいんじゃないかなぁ」と思いながらも、それを批評することなく、ずるずると皆と同じ方向に歩んでいった結果、気が付いたら戦争をしていて、身内が死に、引っ込みがつかなくなっていった。確かにそれはそうなんだろう。老夫婦は病院の屋上で夕日を見ながら語る。

妻「なして(どうして)戦争のあったとやろか」
夫「なしてやろか」
妻「なしてあげん人の死んでいったとやろか…。」

これはまさしく戦争中にも体験者がそう感じていたものだろう。そしてこの二人はきっとまた気がつかないのだ。もしこの先もう一度、戦争が角を曲がった廊下の奥で徐々に大きく育ち形を成していってても必ずこの老夫婦は気がつかなない。そして「気が付いたら、また戦争が立っていた。なしてやろか…」と遠くを見ながら呟くのだろう。ぼんやりと「なしてやろか」と呟いているだけでは戦争が始まることを防げない。「なしてか…」からまっすぐ踏み込んで原因を分析する。自分の言葉で表現する。新たに意味づけする。つまり批評性が必要なのだ。江戸時代が終わり開国して明治大正~昭和初期という太平洋戦争時代の多くの市井の日本人たち、その頃の僕らの先祖の批評性のなさを非難しても詮無いことだ。しかし、それ(批評性のなさ)こそがまさしく戦争の母胎、苗床であったことは現実だろう。多くの人がなんども論じてきたことだけれど「戦争は一部の邪悪な人たちが善良な市民を洗脳して行った」というのは正しくない。「日本には資源がないから」「アジアの解放の為」「天皇陛下の存在」…どんな言葉で語っても戦争の原因は正しく語れないだろう。ただいずれにせよ、戦争の卵を温め育て孵化させたのは当時の日本人たちだった。私のじいさんも、ばあさんも。悦子もふさも安忠も、「戦争にまきこまれた被害者」であると同時に「戦争の当事者」でありさらに言うなら「戦争の加害者」でもある。明石に特攻隊への志願をさせたものはなんだったか?
最後の別れの挨拶に来た明石に対して、悦子に「(敵の空母ば)沈めなさることば、祈っております。」と言わせたものはなんだったか?
それは悦子自身だ。事実その直後、悦子ふさ安忠は、明石の「武運を祈って」彼を特攻へ、つまり死へと送り出すのだから。明石をころしたのは悦子たちでもある。「しかたがなかった」「やむをえなかった」…。確かにそうだろう。ただそこでそう言ってしまったら最後「戦争は悪いことだ。極力避けるべきだ。でも仕方なかった。やむを得ず戦わざるを得なかった」という言説に反論できなくなってしまう。一度始まってしまった戦争を止めることは、とんでもなく難しいだろうことは誰にだって想像がつく。「仕方なかった」といってしまうのも責められはしない。ただそこにいる限り、次にまた生まれてくる戦争を止めることはできない。所与の状況を、たとえば「世の中」だとかを無批評的にただ受け取り、多くの人が進む方向へなんとなく進んでいけば、当然のことながらまた廊下の奥に戦争がたっているだろう。なんどでも。戦後とは戦前のことだというのは真理だ。今の「世の中」を自分の頭で捉え直して意味づけすること。し続けること。し続ける人が一定数以上いること。それによってかろうじて戦争を押しとどめられる可能性が生まれる。落日をみつめながら「なして…」と呟くことでは戦争が始まるのを止めることはできない。むしろその老夫婦たちに「いや『なして』やあらへんがな!あんたらがしっかり『あかんもんはあかんって』声をあげへんからやんけ!」と若干の憤りを覚える目線、その批評的な視座にこそかろうじて可能性はある。
 しっかりとみて、自分の言葉で語ること、よければ肯定すればいいし、ほめてもいい。悪いと思えば、そして必要であれば時に声をあげて批判をする。そういう態度に。



繰り返しになるが「紙屋悦子の青春」からはこの批評性が全く感じられない。ずいぶん乱暴な言い方をあえてすると、この「紙屋悦子の青春」的なものが。それこそが戦争の温床、苗床、母胎ではないか?あざやかに「ただ悲しい物語」であるために徹底的に「反戦演劇ではない」、また「ない」ことを強く志向して作られたこの戯曲のその「静かさ」に戦争は着床し成長する(している)んじゃないか?

もし仮にそうだとすれば、私たちはこの作品をどのように上演するべきだろうか?特に気構えることなく、なるべくストレートに上演すること、それを四半世紀という時間の流れによって自然発生しているだろう観客の批評性に身をまかせるべきかもしれない。そもそも観客一人一人の持つ批評性は計測不可能だ。(などと言い始めたら何にも始められなくなるのだけれど)
あるいは何かしら、そういった不気味さ、戦争の胎動のようなものを能動的に伝える方策を考えるべきだろうか?だとしてそれはどのレベルでの操作が適正なのか?俳優の演技のレベル、全体の演出、舞台美術、衣装、ケレン…?各所が色々とやり始めると、マイナスとマイナスが掛け合ってプラスになるようなことも当然おこりうる。本当に厄介だと思う…。コンブリ団の答えを確かめにぜひ劇場に足を運んでいただきたいと思っている。

最後にもう一度だけ今回のとてもとても秀逸なチラシについて。
来年一月17~19日、アイホール。松田正隆さんの鮮やかに美しい言葉たち、桜の花は散がちってゆき、「紙屋悦子の青春」の幕が下りる(降りないけど。芝居が終わるってこと)花びらが散るとその枝も幹も消えて無くなる。芝居が終わった後の舞台上に、その幹や枝が幻視されることを、個人的には(今の所)願う。
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