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3月7日8日「平和を求める朗読会~パレスチナの詩を聴いてみる・読んでみる~」大阪、京都

「平和を求める朗読会~パレスチナの詩を聴いてみる・読んでみる~」
3月7日(木)19:00~ 大阪_ウイングフィールド

最終9名の参加。三月で高校を卒業するという若い参加者が「模倣」を読んだ声が印象に残っている。

ファーディ・ジューダ Fady Joudah
模倣」(訳:山口勲)
参考 原文
蜘蛛に対してのひどい暴力は無自覚に行われる。
「相手も私たちと同じ人間」であるのに自分たちがしていること(あるいはしようとしていること)。
それに対して、自分が感じるおぞましさ、やましさ、恐怖、を麻痺させるために「ヒューマンアニマル」や「高い木」「鬼畜」「猿」「豚」という言葉を使って相手を呼称する…というようなことを私が考えたりしていると、その若い朗読者は<自分の傘を「家」にしていた蛙を、追い出した>という経験をはなし始めた。おそらくその人の家の傘立ては玄関の外にあって、カエルがいそうな前庭もあって、水を切るためにベルトで巻かずにふわっとした状態で置いておくか掛けておいた傘によく蛙が入り込むことがあったんだろうと私は想像した。以下私のうっすらの記憶で彼女が言ったこと
「この詩を読んで、私のしたことは、それは確かに、ひどいことをしたよなぁと思う。そしてそのようなことが実際にパレスチナの人にも起こっているというのは…」
とても瑞々しいと感じた。私とはある意味で逆の順番でこの詩を受け取られている。年齢によるところが多いのだろうけれどそれが全てではないとも思う。
「私たちもあの人たちも同じ人間である」というためには「人間とはなにか?」の定義がいる。
人間性とは。
「人間性とは何か?」と問われてスラスラと即答できる人は滅多にいないと思う。
それぐらいに「同じ人間だ」ということは薄弱なのだとおもう。薄弱だからこそ「ヒューマンアニマル」「テロリスト」という言葉を導入するぐらいで乗り越えられてしまう。
ただ同時に、薄弱であるにもかかわらず「同じ人間ではない」設定を導入したくなる心理が確かにある。

そもそも「同じ人間だから暴力を振るってはダメだ」ということも、またそれが「同じ人間」という枠組みである妥当性(「同じ哺乳類」「同じ<高い知能を持った>哺乳類」「同じ生き物(植物も含む)」などのフレームではなくて「人間」くくりである妥当性)も相当に薄弱だと感じる。

私は問題を希釈したいのではない。
ただ、問題を突き詰めていくためにたくさんの言葉を用いて費やすことが、あるいはより問題を遠ざけるのではないか?と思い始めている。(という文章をわかりにくく多くの言葉を使って書いている)

つまり「ヒューマンアニマル」と言いたくなるのも、日本にいる私がしんどくなって悲しくなって何かをしようとおもうのも、理屈ではない。人間性が「高度に発達した言語」によって特徴付けられるなら(あるいは言語そのものなのだとしたら)、前人間性の部分が拒否反応を起こしている。

「殺すな」「嫌だ」「やめてくれ」
それ以上に言葉を続けることで、ひょっとしたら、むしろ前人間性の部分の拒否反応を希釈することになっていないだろうか。

「とにかく嫌だ」と感じている人は少なくないはずだと思いたい。でも「とにかく嫌だ」とだけ言ったところで書いたところで伝わらない。「それはどういう理屈でなのか?」の説明を添えないと他の人に相手にしてもらえない。しかしその「説明」はとにかく困難だ。なにせそれは「理屈の前に」嫌なのだから、その説明はいつも後付けのアリバイになる。
戦争、虐殺、迫害弾圧、そういったものは極めて人間的な行為だろう。そしてそれら忌諱する感情も「同じ人間なのに」という。
このような捻れている<理屈の回路>に、言葉を費やすことで、いつも巻き込まれてしまう。そして多くの人は言葉を話すことを諦めて黙ってしまう。

若い朗読者の「(この詩を読んで)私のしたことは、それは確かに、ひどいことをしたよなぁと思う。そしてそのようなことが実際にパレスチナの人にも起こっているというのは…」が伝わる、共有、共鳴できる。その距離はとてもとても私にとって貴重だと、振り返って思っている。時間と空間を共有して朗読の声を聞いて、それぐらいの近距離でしか流通できないなにか。でも大切ななにか。言葉をさほど重ねなくても済む機会。
ブログに書くとここまで長くなることが「ありがとうございます」で伝わる空間。
直接会うということは本当に大切。誰かと会って、話せたら話す。ぐらいで。


8日(金)19:00~ 京都_KAIKA
こちらも同じく最終的に9人の参加者
前回の京都での会と同じ会場KAIKAだが、前回の昼とはまた全然空気感が違う。窓の外が暗い。予想通りというかなんというか沈黙がその大部分を占めた2時間となった。とはいえ以前書いたようにこれはけっして残念がることではないと思う。この夜の参加者もそれぞれの沈黙を共有できたように思う。ガザモノローグについても関心を持ってくださって参加した方もいらっしゃる。またガザ・モノローグの一編を参加者の一人が朗読した。
「停戦のためのパレスチナ朗読プロジェクト」(パレスチナの詩人(など)の詩を朗読し、その動画、録音を #停戦のためのパレスチナ朗読 をつけて拡散することを提案しているプロジェクト)に上がっている詩とは、また違う手触りがある。その違いについて意見を交換し合う。

ここのところガザ・モノローグ京都theatreE9kyotoでの上演にむけてのさまざまなことの方に手を取られいる。しばらくはこっち、「平和を求める朗読会~パレスチナの詩を聴いてみる・読んでみる~」はできないかもしれない。

本当に、詩じゃなくてもなんでもいいので、会ってみる。話せたら話す。という会が、いろんなところでいろんな人々によってなされたらいいなぁと思っている。

「平和を求める朗読会~パレスチナの詩を聴いてみる・読んでみる~」大阪 ACT cafe 2024年3月3日 レポート

おそくなりましたが、大阪で3月3日に行われた朗読会のレポートを書きます。一週間前に京都で行われたものとは、また随分と違う空気の会になりました。告知時点でお名前を頂いていた参加者の俳優の皆さんは開場の18:15分よりも早くに開場入りされました。そして開場の前から参加者のなかで「ガザのこと、どうすりゃいいのか?どう考えたらいいのか?何が言えるのか?」というような話が始まりました。
正直な話僕としてはこの会をなるべく「なりゆきに任せたい。」という思いがあります。僕が「こうなったらいいなぁ」というような形に誘導したくない。なので「このまま詩の朗読を一切しないで話し合う」ということでもいいという思いも浮かびました。
18:15分から他の人も来てくださり、開始時点で十四人の参加者でスタートしました。
京都同様、「会の成り立ち」「基本ルール説明」「自己紹介」とすすみ、そのご進行に関して僕から提案して、京都と同じように、いくつかの候補の詩の中から一つを選び、それを朗読してみようという人が朗読し、そのあと感想を交わし合う形になりました。

京都に比べて「この詩は、こういう意味にも解釈できる」「私ならこういう朗読をする」というような意見が比較的多く上がった印象があります。とはいえ京都で共有できたような沈黙、も大阪でも共有することはできたように思います。
途中、僕からの提案で「おなまえ かいて」を複数人で朗読してみました。最初は僕ともう一人の二人で連の担当を決めて交互に朗読する形です。
最後あたりで僕が声をかぶせてみました。これはアドリブというか、そうしたいと感じたのでそうしたのです。打ち合わせをしたわけでなかったので、「自分が読むパート」だと思っていらっしゃった「もう一人」は少し戸惑われたように僕は感じましたが、僕の意図を感じてくださり(その方は演劇、朗読の関係者(という言い方は変ですね、なんていうか、経験値の高い方です)ユニゾンではなく、二人の声が前に出たり引っ込んだりしながら最後まで朗読をしました。僕の唐突な「提案」を受け入れてくださって僕は本当に嬉しく思いました。同時にある程度「読み慣れて」きて、最初あたったときのように「泣いてしまって読めない」ようなところから<聞いている人にテキストを僕の声にして手渡す>ぐらいにはなっていた「おなまえ かいて」が、もうどうしようもなく心を揺さぶりました。
そのあと、今度は五人ぐらい(正確に覚えていません。すいません)で同じように「一応、担当する連をきめるが、随時その人が発声したい時にする」というぐらいの決め事でやってみました。詩の後半「ママ」「足に」「お名前書いて」などの声が幾重にもちりばめられました。「おなまえ かいて」のようなことが、一つの家庭にではなく、そんなことが多くの家庭であるのだ。ということ。そんなことを想像する朗読になりました。
「停戦のためのパレスチナ朗読プロジェクト」
https://docs.google.com/document/d/1k6pxn1_AXyqz149_Z5y-hflVPKsWoC0Xt0IBbIB58jw/mobilebasic
と連帯している企画でもあるので、僕の方から「今のような形で、録音なり録画なりをして、最終確認したのちにSNSにUPするのはどうか?」
と提案しましたが、こちらは実現しませんでした。
その五人での朗読に参加した方の中から「この場で声を重ねて朗読したことにはすごく私にも意味があった。よかった。ただ、それをSNSにUPするということには、ちょっと今まだ乗れない」という意見が出ました。僕はその発言(私はやらない)が出せる空気がその場にあったことがとても良いことだし、それは参加者全員の手柄だと思います。「乗れる人だけでやってみる」手もあったのですが、参加者全体に対して朗読者の人数の割合があまり多くないので、「やりたいのならまた、その人たちが集まってやればいいのだし」会としては、次の詩に移るという流れになりました。

結局2時間半ほどの朗読会ののち、有志でその場での二次会をしました。僕は京都に戻らなければならないので早めに二次会からぬけてきましたが、それぞれが非常に濃く「政治的な」話を交わしておられたように思います。きっと僕たちの中の少ない人が「政治の話をするのに飢えている」のではないかと思っています。政治の話をしても「ふん!不勉強な奴が何いってるんだ」と一蹴されたり、「みんなが気楽に楽しく過ごしているところに、シリアスな問題を放り込む空気の読めない奴め」と白眼視されることを、とても恐れている。僕も恐れています。そういう人たちが
<「平和を求める朗読会~パレスチナの詩を聴いてみる・読んでみる~」というタイトルの会に集まるような人たちになら、話せるんじゃないか?また他の人は、どんなふうに喋るのだろう、聞いてみたい>という動機であつまってくださっているように思います。

重ねて、そういう<安心して政治の話
喋れるし、聞ける機会>がもっともっと増えることを願います。

今週木曜日大阪で金曜日に京都で同じ朗読会をします。朗読会_大阪2
朗読会_京都2





沈黙を共有する ~「平和を求める朗読会~パレスチナの詩を聴いてみる・読んでみる~」京都 レポート~

会場:KAIKA
日時:2024年2月25日(16:00〜18:00ぐらい)

先日、この会の参加者の有志で朗読した様子の動画をSNSにUPしました。



これは、この会の一つの意義であったと思う。多人数で<「ガザで生き ガザで死ぬ」を朗読する>ことを提案してみようと、当日よりかなり前から僕は考えていた。一人で稽古していて、うまく声が見つからない。きっとこれは多人数で読んだ方が良いに違いないと思っていた。結果僕の提案は受け入れてもらえて実現した。
でも、この会の一番の手柄は、「多人数で朗読すること」の前提となったこと、つまり「沈黙を共有できたこと」ではないかと今は思っている。

沈黙はsnsなどのweb上では共有できない。
実際に同じ場所にいた人でしか共有できない。
発言やアクションや、いいニュースも悪いニュースも、怒鳴り声や泣き声も、web上で共有できる。
でも沈黙をweb上で共有することはできない。(できるのかもしれないが、僕には想像がつかない)

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会の雰囲気を率直に伝えると「お通夜みたい」というのが一番ピッタリくるだろう。

田中「誰かこの詩を読んでみたい人?」
手は上がらない。
田中「じゃ、僕が読みます」
読み終わる。
沈黙。
田中「誰か読む人いませんか?」
誰か「じゃ、はい。読んでみます。」
田中「お願いします。」
誰か読み終わる。
沈黙。
沈黙。


田中「じゃ、次はこの詩はどうでしょうか?この詩を読んでみたい人?」
手は上がらない。
田中「じゃ、僕が読みます」
読み終わる。
沈黙。
田中「誰か読む人いませんか?」
誰か「じゃ、はい。読みます」
田中「お願いします。」
誰か読み終わる。
沈黙。
沈黙。

拍手を、僕はしたかった。それは僕と純子さんが呼びかけた会に来てくれて(僕はその言葉を自分の声で発することで気づくことがあると思っているから、押し付けは絶対したくないけど朗読してくれたら本当に嬉しい。当たり前の話)朗読してくれたので、「ありがとう、僕嬉しい」という意思表明として拍手した。でも「拍手じゃ、ないよね…」とも思っている。

それぞれの詩について、僕ともう一人ぐらい。だから二人ぐらいが朗読する。
少しの感想は出るし、僕の方は稽古してるもんだから「僕はこの詩をこう思ってこう読んでます」てな、どうでもいいことをしゃべるけど、でもほとんどは沈黙。

ある参加者が「この沈黙を共有できるのがいいです」
他の数人の参加者も頷く。

そうなのか。と僕は思った。けれど今(上に書いたように)それが大切だし必要なのだと思っている。
そしてそれはSNSでは共有できないのだ。直接、会って場を共有しないと。

誰かが、パレスチナで書かれた詩を読む声を聞いた後の
自分が声に出して読んだ後の
沈黙

言いたいことや、言葉にするべきだと自分が思ってること。それはひょっとしたら自分の中で何回も何回も反復されてあるいは腐臭をはなっていたり、もしかしたらそれに飽きてしまっているような言葉。
と、
でも言葉が「自分の外に出ていくのを引き止めている力」
と、

その双方のありようをいやというほど自分だけで受け止め(実際これは実にいやな体験だ)
そして
沈黙している。

その一人一人の沈黙をその場にいた人たちで共有できたこと。
その沈黙は、その場に集まった人々にしか共有できない。

その意味で「平和を求める朗読会~パレスチナの詩を聴いてみる・読んでみる~」京都は確かに意義があったと思う。
その時間KAIKAに集まった人々が、それぞれの沈黙を共有できたことが。

沈黙は基本的に個人的なものだろう。でも自分の隣に「(内実は違うかもしれないけれど)同じように沈黙している人が居る(実際にリアルな場所で隣にいる!)」ことが、どれほど僕たちを安心させることか。
意見を交わし合う。その土台、その前提、その手前=「沈黙」が共有されて、それからようやく僕たちは、ボソボソと小声で話し合えるのかもしれない…

子供たちがいてくれて本当によかった。助かった。ありがとう三人の天使(笑)余談だが、そういう(お通夜みたいになる)予想は僕はしていて、用意するものリストに「お花(アレンジメント)」と書いていた。お花は象徴的な意味合いをもたせて、ということでは全くない。むしろそれは避けたいと思っていた。なんか全体がズドーンと沈み込んでしまっても、車座の真ん中にでもお花があれば、それで救われる、ヌケてくれるものがあるんじゃないかと思って。ただ前日プリンターのインクが切れて、当日の午前中に届いたもののそこから印刷やその他のことにも終われてしまい、結構ギリギリの時刻に家を出発する羽目になった。「まぁ会場の近くの花屋で買えばいいや」と思っていたのだけど、会場付近は比較的繁華街なので気取った花屋さんが多く二軒ぐらい入ってみたものの、ご飯茶碗ぐらいの小さいアレンジメントで4000円(!)ぐらいの相場だったので、諦めたのだった。
子供がいてくれて本当に助かった。あとKAIKAは防音設備がほぼなく、外から車の音などが入ってくる。それもよかった。

沈黙を共有することはとても有意義だ。が、ヌケがない閉鎖空間だと、「次」にいけない。

私たちは何度かのそういう沈黙の共有を経て、経たからこそ、UPした動画の表現を作れた。
付け加えると「沈黙を共有できてるのがいいです」と言った発言者は、上の動画に写っていない。朗読に参加していない。カメラのレックボタンを押してくれている。
それもすごくいいと思う。

繰り返す。web上では沈黙は共有できない。
しかし、僕たちが連帯できるとしたら、まずはその沈黙からではないだろうか?

事実、2時間強の短い時間であったけれど、僕たちは「沈黙」を共有し、次に「詩の朗読」を(全員ではなく)共有した。
半分ぐらいのメンバーで二次会にゆき、そこには多分にお酒の力があっただろうけれど、みんなそれこそ堰を切ったように「吐露」するように話し出した。「戦争のこと政治のこと」について話すことはおっかない。でも話さないこと、それを自分の身の内に抱えて、それがどんどんと大きくなって激しくなっていくこと。それはしんどいし、恐怖だ。
喋ることも恐怖。喋らずに抱え込でる恐怖。

八方塞がりの僕たちは、「沈黙を共有する」ことで、一つの安心を得て、そしてようやく詩を朗読したり、抱えていた赤裸々な問題意識、悩みを吐き出しあった。

ガザの現状を、この朗読会の隣に置いてみた時。
いかにも微温的だ。
「詩の朗読」どころか、その手前の「沈黙」から共有などと。どこまでのんきなんだ!と

反論しない。できない。

でも僕はこれまで家族と、年に3、4回飲み会をする親友の二人の友人の他には、平和について話をする人はいなかった。
僕は「平和について語り合える人」を、その人々が増えることを心の底から希求している。

その為には、まず「沈黙を共有すること」が必要なのだと思っている。
それでは間に合わないのかもしれない。
すくなくとも僕が声かけしてるだけでは間に合わない。と僕は思っている。

だからどうか、今回の「平和を求める朗読会~パレスチナの詩を聴いてみる・読んでみる~」京都のような会が、いろんなところで、いろんな人によって、いろんな場所で行われることを、願う。
それは朗読会でなくって全然いい。歌でも、ダンスでも、絵でも、当然いわゆる「芸術」じゃなくても(むしろない方がいい。平場で「平和について語りましょう」の会が、一番いい。一番広がるし。けど、戦略的にフックとして何かあった方がいいとは思う。人は「誰でもいいけど参加してみない?」と言われるよりも「ちょっとそこのあなた」と呼びかけられた方が、行ってみようと思うから。僕は「俳優によるパレスチナの声代読プロジェクト」というスレッド名に『呼ばれて』コミットし始めたから)

例えば朗読会として、もしどこかで誰かが企画してくれる参考になればと思い、以下、この会の流れをざっくり記します。
※もし本当にこういう会をやってみたけれど、この点について気になる?というようなことがあれば、「今回はこうしました」ということであればいくらでもお伝えしますので、田中にお問い合わせください)

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15:30
田中、植村集合。資料はあらかた田中がプリントアウトして持参。
資料は参加者各自が一枚ずつ持っていけるように机の上に並べる。
参加人数が読めないので、大体で椅子を並べる。(結局、地べたに座るのもOK,椅子に座りたい人は座ってね、形式にした)

16:00
開始(参加者子供3名含む10名)

1)会の成り立ちの説明(田中)
2)会の目的説明(田中)タイトルの「読んでみよう、聞いてみよう」以上の目的はなく、むしろ「どうしたい」というような提案を参加者からもらえたら…
3)基本的なルール(プライバシーとか著作権とか)の共有
4)記録のための動画を撮っていいか確認。
5)参加者が現時点で「朗読しよう」と思っているか?「聞くだけにしとこう」と思っているか?自分でテキストを持ってきたか?などの確認
6)どういう形で朗読会進めていくかの提案(今回は「停戦のためのパレスチナ朗読プロジェクト」
https://docs.google.com/document/d/1k6pxn1_AXyqz149_Z5y-hflVPKsWoC0Xt0IBbIB58jw/mobilebasic
で紹介されている詩を一つ田中が選び、それ読みたい人が読んでみる。短い詩なので、二人希望者がいれば、二人が続けて読んで、その後、全員で感想(その詩について、その朗読について、その他なんでも)や、しゃべりたいことをしゃべる。→次の詩をまた一つ決めて…)
7)自己紹介
偽名(ニックネーム)でもOK。自己紹介そのものをキャンセルもOK。名前+一言ぐらい。(この一言が、結構みんな重い切実。「なんでこの会に参加したのか?」ということを喋らんといかんかなぁと思うから。でも、ここで、「あぁ、きっといい会になる」と僕は確信できた)
※最初に自己紹介がいいのかもしれないけれど、ややこしい説明が流れを阻害するので、それをまとめて先にやってしまってから自己紹介にして、みんな安心してその流れから朗読に入りたいと思った。
8)希望者が朗読、その後、感想(など)を言い合う時間。どういういみなんだろうか?どういう情景なんだろうか?など。

9)全体的な振り返り。フリートーク
10)有志で二次会

壁の花団のこと

今回はまとまる気がしないので、まとめる気を起こさずつらつらとダラダラと書こうと思う。

水沼さんに「『島の話は卒業…』って言ってたのにまた島に戻ってきたんすか?」って言うたら「お前こそ、いつだってラジカセだろ?」と返されたのが多分三、四年前か。

「壁の花団での俳優の演技は、どう言う演出つけて、ああなってるんすか?」って聞いたら「いや演技のカラーというか手法として演出から何か注文をつけていることはなくって、公演を重ねていくなかでなんか自然とこういう形になってきた」と答えてもらったのは、五、六年前か。

去年はリーディング形式の公演で、満を侍したのか機が熟したのか「ランナウェイ」@theatreE9kyoto

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いきなり核心から入る。
例えば今回のお芝居の登場人物の役名が「サンマルチノ」ではなくて「三田浩三」であればどうだったろう?ハラペーニョスは「原田さん」「コンスタンサ」は「紺野さん」、トルティーヤスが「富田さん」だったらどうだったろう。

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去年のリーディング公演では(「元ネタ」というと語弊があるんだろう)創作にあたって強くインスパイとされた小説を紹介していらっしゃった。南米だったか、アフリカだったか、なにしろ、海外の小説であって、それが起点になってこのランナウェイにも繋がっているからして、役名もそのような、つまり日本人ではない名前になっているのだろう。書いている本人(水沼さん)からすれば、それが特にどうということはないのだろうと想像する。普段から(これまで描かれてきたものの)役名についてことさら「日本人である」ことを印象付けよう、と思ってつけられていることはないだろうから。手元に水沼さんの台本を持ってはいないので詳しく調べることはできないけれど、「男」「女」とかが多いのではないかしら?わからない。「◯男」「○子」とかもありそう。なんせ、水沼さんにすれば「一郎」と「サンマルチノ」との違いはさほどないんじゃないかしらと想像する。「ハラペーニョスでもいいけど、まぁ、周りとのバランス考えれば、和夫でいいか」というぐらいのことなのかもしれない。

でも、これは違う。違った。見た私の印象は随分と違った。

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俳優の演技と関わりがあると思う。

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壁の花団で(多くの)俳優が(多くの時間)やっている演技は「コンテクストを削る」という方法だ。

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余談として、私が学生で芝居を始めた時には、もう楽しくて仕方がなくて無我夢中。の時期を過ぎて「演技ってなんだろう?ちゃんとしたいな」と、少しでも思った人から「コンテクスト」って目の前にバーンと。なんでした。はい。「コンテクストって何?」って聞こうものなら、「可哀想な人」みたいな目で演劇仲間からは見られた、そんな時代です。

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さておき。水沼さんのやや癖のある(この「癖」は純粋にナチュラルなものではなくて、水沼印というか、嫌な言い方をすれば「ノリピー語」みたいな(ああ、おそろしい。わからない人がどれほどいるだろう!杉ちゃんの「〇〇だぜぇ~」みたいなことではあるのだけれど。止むに止まれず滲み出る。「方言」というものではなくて、なんか気持ちの良い音の出かたといった感じではなかろうか。)テキストを<コンテキストを極力抜いて>発話する。
と、どうなるか?
「変な人」になる。「頭ちょっとおかしい人」「子供のまま大人になった人?」という具合。

「奇妙な人たち」がまずいる。奇妙な人たちはシリアスだったり悲惨なことをいなしたり、捌いたりしていく。いるように見える。しかしそれは「見えている」だけで、<そうではないかもしれない>

この<そうではないかもしれない>という保留によって水沼作品の深み重みは担保されている。

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俳優の、多くは間、そして顔の表情や、小道具などの扱い配置、そしてもちろん照明などによって<そうではないかもしれない>は劇中、幾度も提案される。その度に私たち観客は「あぁ、この人は単純で鈍感でバカなふりをしている。が、その実、全部をわかっていて、すごく悲しくて、だからこそ、こんな「バカ」な振る舞いをせざるをえないのではないか?」というような幸せな誤読(?)をするようになる。

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多く時間、俳優の演技のコンテクストを消去するによって、逆に「いや、裏があるよね」と期待させる、想像させる。というと、「能楽者の能面の扱い」に近く思えるけれど、程度の差はあれ原理としてはそのようにして「壁の花団の演出論理」はあると思っている。

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その時に役名が「サンマルチノ」であるか「三田浩三」であるかは随分と違う。距離感の問題だ。私にとって「サンマルチノ」よりも「三田浩三」の方が近い。気がする。

だから俳優が演じているものが「子供じみている」「頭悪そう」「変な人」だった場合の違和感が「三田浩三」の時の方が、「サンマルチノ」に比べて大きい。「サンマルチノ」なら「まぁ、そういうサンマルチのもいるかもね」という、つまり抵抗が減る。

しかしこの「普通そんなことはないよね」という抵抗こそが、俳優がちょっと作る0.2秒の間に対しての観客の想像力を流し込む動機だったりするのだ。

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「サンマルチノやハラペーニョスによる物語は、私(田中遊)の常識、想像をはるかに超えるであろう」という前提は、水沼さんが思っているよりも大きく観客の「想像力を流す原動力」を減退させるのだと、僕は考える。そこに「そんなわけないよね?普通」という違和感があるからこそ、「言葉ではそういっているけれど、その裏は?言葉にしないけど想いはあるだろうね」という想像力を流し込むわけだからして。

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ケの抜けた炭酸のような印象。
壁の花団はこうではなかったように思う。
でも多分その感じもあるからこそ、ラストシーンがある。その意味があるのだと思う。

そこで「アヒージョ!」(じゃないな。内田さんなんつってたっけ?)
と呼ぶハラペーニョスの極めて「ウェットな」セリフが、もろに刺さる。のは、多分それがないと、ちょっと芝居を終われなかったからだろうと邪推する。

ケの抜けた炭酸

役名が日本人に聞こえるものにしていれば、それで万事おさまるというようなことでないのはわかっているが、本質はそこにあるような気がしている。

水沼さんの描きたい戯曲、世界、と俳優の演技方法が、これまでの壁の花団では、うまく一致し高度に機能してきた。(だから好きなんだ)

が、仮に水沼さんが今後「世界作家」を目指すのであれば、とか「やっぱり島から出る」のであれば、とか、わからんが、その際に求められる「俳優の演技の質」は変わってくると思う。

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水沼さん自身俳優をされるわけで、壁の花団の俳優がやっている「リズム」というかが、随分気に入っているのだろうとおもう。むしろ、その「リズム、呼吸」が成立する台本を志向しているのかもしれない。
だとすれば今回の「ランナウェイ」は演技の質にはフィットしてなかったと思う。

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例えば姿を見せたサンマルチノとコンスタンサが話すシーン。あそこでコンスタンサの演技がもっと「ノイズ乗っかったリアリスティックなおっさん」であればどうだったろう?
また逆にあれが「今野さん」だったらそんな必要もなかったと思う。

このしたやみ「猫を探す」

このしたやみ「猫を探す」観劇。
なんだかすごく久々にじっくりとしっかりと「作品」を見たように思う。その「世界」を。「語り」地の文がふんだんに使われた戯曲なので小説を読んでいるのに近い(でも違うけれど)印象を受ける。つまりその「擬似小説の世界」をしっかりと見せつけられた。
山口さんの演出はいい意味で諦めているというか割り切っているなぁといつも思う。脚本の一番良いところを一番良い角度から見せること。それ以上の無茶をしない。「食材が良ければ蒸し焼きにして塩かけて食うのが一番うまいよね」っていうような。無論僕の印象と想像です。実際山口演出の作品に出演させてもらったのは多分一度きりですから。「蒸し焼きで塩かけて」って簡単なようでそんなわけはないのですよ。お分かりかと思いますけど。「色々演出で新奇なもの、特殊なことやりたくなるの」や「自分色を出したくなるの」を諦めることは、駆け出しであれば別にして、おちついて真摯に作品に向き合えるようになれば比較的簡単なことです。難しいのは、調理法がシンプルになればなるほどその「蒸し時間」や「塩加減」や「盛り付ける器」なんかが大きく味を=作品の成否を左右する所です。「最小限の加工で、最大限の成果を得る」その匙加減は並大抵じゃない。経験だけでもセンスだけでもできない「技」だろうとおもうのです。山口さんの「技あり」って感じがしました。

 広田さん二口さんは、相変わらずと言ってはなんですが、この二人、台本が古典だろうが新作だろうがあんまり関係ないと思います。お二人ともお役者おバカなので(敬語。お二人とも先輩)真摯だなぁと。嬉しくなります。正座をし向かい合って互いの「聞いて欲しい事」を聞き合うシーン。まずゆうみさんの「拝聴します」の少し顎を上げた姿勢が美しくて可憐で。その後の二口さんの少し顎を引いた姿勢も勁くて大きくて。でも「とっておきの食材(広田二口)」って考えるなら、そろそろ違う料理方法でもいいのかも?…どうだろう。台本は変えられても俳優は変わらんしなぁ。それは別の座組に求めればいいのだろう。

 で、山口クッキングでシンプルにストレートに美味しく届けられた(ように私には感じた)「猫を探す」の世界です。こふく劇場の永山さんの手によるもの。(こふく劇場はアトリエ劇研にきてくれた「水をめぐる」のみ拝見したことがあります。ホームページ確認したら2008年ですって。ほんとかよ…)「寓話」として受け取れるのがもっともコンフォータブルだったでしょう。ただ私にとってはこのお話を寓話だと受け取るには障害がいくつかありました。一つには近年、宮崎含む九州の方で水害が多く起こっていること。もう一つは地の文では「ケンゾーは」と三人称を使ってはいるものの、実質ケンゾー(二口大学演じる大学の事務局員)の「一人称」であるから。それが言い過ぎだとしてもすくなくとも書き手の男性-性が満ち満ちていて観劇しながら「これ女の人はどんな気持ちで見てるんだろう…」と意識が膨らんでいったから。


 本当に奇しくも今日、読む本を家に忘れて職場にロッカーに放置していた桐野夏生の「I'm sorry,mama. 」という文庫本をカバンに突っ込んで劇場に向かいました。開演を待つ客席でそれを読んでいたわけです。でお芝居が始まって、あらそういえば「不倫中に子供が行方不明になった話、桐野夏生あったなぁ」って。タイトル思い出せなくて帰って調べたら「柔らかな頬」でした。「柔らかな頬」の主人公は不倫中に娘が失踪して長い間見つからない女性です。彼女は娘を探します。その「中身、思考、精神」のもうぐちゃぐちゃの超高密度の多種多様な、層の、エリアの、そのゆっくりだったり唐突だったりする移ろいを桐野夏生は(あやふやな記憶)表していたように思う。(本日見てきたばかりのお芝居のセリフなのにこちらもあやふやで本当に失礼な話。すいません)対して本作では「女は体の奥に空洞があって、その空洞はとてつもなく深くて広くて暗くて光を当てることすらできない。そこでは『さびしい風』が始終吹いている。」とケンゾーの友の幽霊→の姿を借りたケンゾーの意識は、そう認識し表明する。
ちょっと、びっくりするぐらい振り切れて男性的です。

山口演出によって作品が極めてストレートにダイレクトに伝わった結果、怒って文句を言ってくる女性客もいるんじゃないだろうか?と少し危惧するぐらいに、それはそれはなんというか…
男性である僕は「なんとなく腑に落ちかけて」、それでゾッとしたんです。「これ女性はどんなふうに見てるんだろうか?」と。

そこで、この台本、女性演出家でやってみたらどうなるんだろう…。と。これはちょっと見ものじゃないかと思います。無言の食事を済ませた後、お風呂にはいる「フサコ(?でしたよね)」の立ち位置や向きは違って当然だろうと。むしろそっちが見たいですよね男性としては(いや、ゆうみさんの裸が見たいってことじゃないよ。まぁ見たいけどさ)
そうなんです。あそこで二口さんの「坂の途中で立ち止まっちゃって、苦し紛れかやけくそかで短歌をガナル」の見せても。って。私は男性だということもありこれでも腑に落ちたんですが、本当にみたいものは逆かもなと。「坂の途中で登るのも降るのもできずに立ち止まった男がみっともなく短歌をがなっている声を、すりガラス越しに聞いている全裸の年嵩の女性」が、その表情が見たい。…


言葉足らずの結論としては「寓話」では足りない。という程度です。多くの寓話には何かの教訓があります。でも「教訓がなければ寓話ではない」わけでありません。今回の「猫を探す」からも何かしら教訓を引き出そう見つけ出そうをすることはナンセンスでしょう。たださらに一歩すすんで「寓話というより神話なのだ」とした方が座りが良いと思うのです。思えば「水をめぐる」も寓話というより神話に近いような印象が(本当にうっすらです。どんな話だった?って聞かないでください。覚えてません)あります。かすかに。神話のあっけらかんとした残酷さ、極端さ。そのようなものとして「猫を探す」も演出されるべき作品だったのかもしれないと。

それがたとえ
<「六年前の不倫行為中に不幸にして起こった水害で家が流され、娘が行方不明になり(死体が見つからない←ここポイント)自らのうちなる「娘がまだ生きているかもしれない」という希望を持て余し、それに内部から焼かれ、あるいは腐食される(内部被曝って感じかも)女性」の中身>
を直接指しているのでなくても。あるいは
<「大学生。激しい雨の夜に、思いを寄せる自分より20歳ほども年上の男性の自宅に押しかけ、ずぶ濡れの衣服をその男の前で脱ぎ去り、男に体を晒す女性」の中身>
を直接指しているのでなくても。
「女ってものは…」という法外な一般化をしたうえで、その内部に「埋めきれぬ、光も当たらぬ空洞があり、そこには寂しい風が吹いている」と言い放つ。

これはやっぱりちょっと無茶苦茶なんです。空洞なわけがないんです。
「空洞としてしか捉えられない。」
むしろ
「多様多動多密すぎてどうにも捉えられないので、逆に『空洞』と表現した方がかろうじて収まりが良い」
というあまりに共感性も協調性もない、言い訳言い逃れをする気もない、清々しいまでに純粋な男性-性。これはもはや「寓話」というよりも「神話」だろうと。「天と大地が結ばれて大洋や農業が生まれた」というようなとてもあっけらかんとした世界。

神話としての「猫を探す」の上演において、ようやくこの作品に横溢する過剰な男性性も、「ゼウスって実際手のつけられないヤリチンやなぁ…」というような所に着地できるのではないだろうか。とするなら話はぐるっと頭に戻って実は今回、演出山口は「素材の特性を見誤ったのでは?」とか「そうか、美術全体が過剰なまでに白色だったのも、長い時間(歴史)を思わすような砂や、神殿の遺跡を思わすような家の床と柱の一部が舞台セットであったのも、神話性を求めてのことだったのか?とか。………


子供の頃アニメ「トムソーヤの冒険」が大好きでした。布団に入り寝る前に自作ストーリを脳内で上演して眠ると本当に夢に見られて、それが私の演劇原体験です。私にとって「良いお芝居」というのは泣いた笑ったでなくてそれを見て、その後どれだけ妄想がOver Driveしたかということなので、間違いなく「猫を探す」は良いお芝居でした。
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