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下鴨車窓を拝見しました。

下鴨車窓「散乱マリン」を拝見しました。

今回はキャスティングが本当に本当に良かったと感じました。各役者さんがすごくハマっていたというか、「適材適所」っていう言い方すると(組閣のこととか頭に浮かんで)「ありものの中から、よりいいバランス選んだ」みたいなニュアンスに聞こえるけれどそうじゃなくて、「ラグビー代表」みたいな。「各役をやらすならこの人っ!」って人が(結果そう見えたってことだけれど)集められてたように思う。てなことを言いながら出演者の皆さん全員のこれまでのお芝居を見ているわけじゃないんですが、何しろみんなハマり役に思えました。それぞれの良さがじっくりたっぷり伝わってきて、ま、それだけで僕は大満足でした。

 どうしても下鴨車窓は「点」ではなく「線」でみてしまうので、前回拝見した「微熱ガーデン(再演)」のことなども頭に浮かんだりします。「微熱…」の中村彩乃さんの(僕が感じる所の)ミスキャストと、実に対照的だと感じました。誤解の無いように申し加えますと中村さんは、本当に素敵な俳優さんです。舞台上の彼女を一度でもご覧の方にはいうまでも無いことだと思いますが。《ほんと彼女、素敵ですよね)ただ「微熱…」で彼女が演じた役は、彼女じゃなかったかなあと、私は感じたのでした。それもまた下鴨車窓を何度も拝見している「あや」といいますか、初演の「微熱…」時にその役をやってらっしゃった俳優さんが本当にハマっていたのです。それで「それとの比較で見るから」と言うことは大いにあるのです。だいぶ大雑把に書いてしまうと「論理的と言うよりは感覚的に行動する登場人物=役柄」に俳優としてどう近接して行くか?という実に難しい問題に、僕が拝見した時の中村さんは「当たって砕けてた」ように感じたのですね。「感覚的」というのは「本人にも、容易には言語化できないなんかのメカニズムでそうしてしまう。そんなことを言ってしまう」ような人物のことです。他人から見たら「なんか感覚だけで動いてるなぁ」と感じるけれど、当たり前の話人間ですから、その行動、発話を選択する何かのメカニズムはあるんはずなんです。「無意識」という言葉は便利すぎて使うのが嫌ですが例えばそういうこととか。で、そんな役がふられた時に、俳優がなすべきことは、どういう作業か?これほんまにめんどくさいんです。もちろん俳優が「感覚的に」やってしまうことも一つの手だとは思います。ただそうなるともう本当にギャンブルというか、やっぱり俳優は「その役がなぜそこでそういうのか?そうするのか?」を探って、自分の体にインストールしようと思うはずなんです。僕はそれは至極真っ当だと思っていて、中村さんは真っ当な、もっというと「珍しく真っ当な俳優さんだ」と認識して、だいすきなんです。またいつか共演できたら幸せだと思ってるんですが…。ただその真っ当さが、届かなかったというか、「理屈で動いてない対象を理屈で捉えようとして捕まえられなかった」ように感じたのです。簡単なことじゃないですが、そういう役を捉えようとすると俳優はもう一つ次数を上げて取り組まないといけなくって(まあ口で言うのは簡単ですが)そこまでには至らなかったのかなあ、と。
で、それと比べて(比べることに意味はないのでしょうが)今回は本当に各俳優さんが伸び伸びと輝いてたなあ。と感じたのです。
西村さんは、本当に「隙がない」なぁと。惚れ惚れするんですよね。もう嫉妬しかないのです。この人おらんかったらもうちょっと俺の仕事増えてるんちゃうやろか?とか(笑)なんせ良い。大別するとタイプとしては藤原大介さんと同じで、何かを内に秘めて、ググッとその密度を高めて、観客に目を切らさないというか、そういうタイプだと思います。これってすごいことなんです。僕とかはかまってちゃんのわかってちゃんですから、表に出来るだけ(というか全部)出そうとするタイプ。だからね。やっぱり敵わないなあと、悔しいけど思うんですね。「思わせぶり」なだけじゃなくそこにきちんと質量があるから見ちゃうんですよね…。Fさんは、若干「納品した」感がありましたが、まぁまずもって僕が付き合い長いから「一味違うFさん見たい」という欲望が強いのと、ああいう役を振られたらFさんとしてはそうするしかないよね。という部分もあり。ただ、オナニーにならない範囲でもう少し「戦えた」かもとは感じました。おもちゃのナイフが出てきて、それで刺したら斃れてしまったあとの(正確ではないが)「刺したらダメだよ」というあたりのセリフとか。の、説得力とかかな。普通に聴くと意味わからんのですけども、客が「ああ。そらあかんな」と納得してしまうような、なんか発話、体がそこにあったら、もう一つこの世界が重層化したんじゃないかとか。澤村さんも、とってもよかったですね。あのいやらしいセコい感じが。一度だけ共演させてもらってて、ほんとナイスガイなんです。ただ、なんかもう一枚、皮、脱げるんちゃうんか?とは思うんです。筋トレとかせんでもええんです彼は。そのまんまでうわーっていけば素敵なやつなんですけどね…あ、もちろん個人の感想です。僕の喜一郎さんのベストアクトは枚方ノート(ピラカタだったかも)の、知的障害を持つ子供の役。あれはもうほんまにか美しかった。なんか客からどう見られるかとかじゃなく、役と俳優ががっぷり四つに組んでる感じだったからだと思う。全員に言及してると朝になってしまうのでここらでやめますが何しろ俳優さんがとても素敵でした。
それが全て。で終わっものいいのですがあ、一点不満があるとすれば、ラスト前の小暗転。これは僕は田辺剛の息継ぎだ。と、もちろん後からかんがえてなんですが、そうおもったのです。
これも「点」でなく「線」で見てるからなのでしょうが、田辺作品に「寓話」が戻ってきたと思ったのです。正確には戻ってきたわけじゃなくて、たまたま僕が拝見したタイミングがそうなのですが。

で、感覚的な言葉になりますが、やっぱり、描き切って欲しい。すごくワクワクして見てたから。どうするねんと。どうなるねんと。寓話の世界に潜って潜って、最後、息が切れて息継ぎに水面に上がってしまった。そんな印象です。一言で言うと「描き切ってくれ、最後まで」と願うのです。その寓話、双方が地となり図となって出現している寓話に、田辺さんの筆でとどめを刺して欲しかった。ワクワクしながら読み進めた絵本の最後の2、3ページが抜け落ちていた。そんな感じです。ではどうすればいいかはわかりません。二人が湿地に足を踏み入れ「バシャーン」のあと、格闘シーンがあってお互いに差し合って倒れたらいいかって、そうじゃないとは思います。僕にはわかんないです。でもそこ落とし前つけてよ。と。描き切ってよ。と。

最後、二つの身体が斃れている。僕の記憶も確かじゃないですし、僕の見た会だけかもしれないですが、二つの体とも、頭が中央を向いていて、うつ伏せで、1メートル強の距離が離れてるんですね。例えば互いにあのナイフで差し合って果てたならもっと距離は近いだろうしあるいは重なるように、または抱き合うように斃れていたかもしれない。または片方が中央に倒れていてもう片方は段差に体をかける形で、つまり、やっつけたけど、そこから立ち去ろうとする時に息絶えたとか。になるかもしれない。
あのラストだと「二つの斃れた体がある」という記号に感じるのです。もちろんそういう終わり方はあっていい。この芝居全部が、深海に流れ着いた自転車の残骸や死体が、なんかの潮の流れで偶然にそういう配置になった結果(誰の脳裏になのかはわかんないけど)ふと立ち上った物語であった。というような。
でも、そうじゃないものを田辺剛には求めたい。僕は。
「お客の想像力を信じる。委ねる」というと反論できないけれど、大袈裟にいうとネグレクトじゃないかと。それこそ田辺剛の仕事じゃないかと。そして田辺さんにしかできない仕事じゃないかと。

なんか偉そうですね。でもまあ、見に行ける人は見に行ってください。

素敵な舞台ですから。

地点のこと2

まず私の立場をくっきり。
僕は俳優です。京都で活動しています。地点は好きです。作品によって好き嫌いが大きく分かれるところを含めて。「ヘッズですっ」ってことでもないとは思っています。構成員に友達がいます。あと京都舞台芸術協会ってところの理事長をしてます。後ほど京都舞台芸術協会に関わることも言及しますが、このブログは僕の個人のもので、「ブログにこんなこと書くよ」と他の協会理事たちに相談したこともなく、また理事長つってもなんかたいそうな権限があるわけでもないので、京都舞台芸術協会とはあんまり関係がありません。とはいえ「私人として」とかよくわからんことを言うつもりはなく、このブログで以下書くような意見を持っている理事(私)が京都舞台芸術協会にいることは事実です。ただそれをもって京都舞台芸術協会の総意ではないこというまでもありません。

この前地点のことについてブログに書いたのが去年の10月。
その後、地点は沈黙をし続け、11月のいつなのか正確な日はわからないけれども映演労連フリーユニオンのホームページ上で「9月より団体交渉の開始」が報告されともなって、それ以前のエントリー(被害者の主張するパワハラ、不当解雇のざっくりとした内容などが書かれたもの)が削除された。
なので「まずは話し合いのテーブルに双方がついた」ということで間違いはなさそうだと考えていました。その去年10月にも書いたけれど、揉めてしまうとどうあれ、そのどちらかが出すステートメントは「一方的」にならざるを得ない。最後、調印して(できれば握手して)共同声明を出すまでは。原理的にそうだ。から地点がコメントを出さないということに関してはある程度理解はできた。理解はできるが気持ちは悪かった。(ここらは前回書いた)
この映演労連フリーユニオンが「団体交渉開始しました」と発表した時点で、同じように地点も「団体交渉中です。詳細なコメントは差し控えます」とコメントを出してればまた状況は違ってたかもしれない。「誠意を持って対応していきます」とか書いちゃうと、またややこしいけども、なるべくユニオンサイドと同じ言葉を使って最小限シンプルな言葉でそのコメントを出していれば「無視ですか?!」「なかったことにするつもり!?」というようなリアクションは(それでも言う人は言うんだけれど)少なかったかもしれない。
 なんでここで出さなかったんだろう?全くの憶測だけれども
・「ヘイターは、こちらが何をしたって笑っちゃくれないし、何かをするたびに噛みつかれるんだよな」という経験からくる実感と、
・「向こうがそう言うアクションに出たのだから、交渉中であることは言わずもがなで、だからコメントを出せないことも、いちいちいうまでもないことだろう」
・多忙
等かなぁと。本当に憶測だけれど。たしかに「交渉中につき…」というコメントを出しても
「うわー、なんか『捜査中の案件ですのでコメントできません』つってる政治家みたいっすね!」ぐらい言うてくるヘイターはいると思う。しかしそのコメントが出ない期間にちゃくちゃくと、僕ぐらいの距離感で見ている人の「気持ち悪さ」も増幅していったのではないか。そこは見誤ったかもしれない。「ヘイターの嫌悪感」と「フラットな人が持っている気持ち悪さ」とをごっちゃにしたってことかも。

そこにきてロームの館長就任発表。
京都市とロームシアターの短慮に関しては批判されてしかるべきだと思う。僕はまずいとおもう。なんでそんな「あぶない人選」をしたのかわからない。余人に替えがたい才能だとは思うけれど、不当解雇、パワハラの疑惑があるのなら一周パスできなかったのかしら…。

団体交渉というぐらいだから
1)双方に意見の食い違いがある
2)双方が歩み寄って妥結点を探っている。
ということなんでしょう。
つまり裁判しないための方策なんですよね。くだくと、「喧嘩を回避して握手するためのしぐさ」なんです、原則。もちろん国際政治の場でも、企業同士の場合でも、「テーブルの上で握手しながら、テーブルの下で足を蹴り合う」ようなことはあるんでしょうね。またいろんな情報を「飛ばす」ことでその交渉を有利に進めるなんてこともあるんでしょう。(知らんけど)。ただ基本的なマナーとして、「俺が100パーセント正しい」ということを広く外野に言いふらすのはNG。そういうことすると話し合いにならんから。「win winの関係」の逆ですよね。「lose loseの関係」なんです。どっちも言い分はあるけれど、どっちも不本意ながらおれられるとこまでおれて、手打ちにしましょうってことだから。「黒や」って側と「白じゃボケ」って言うてる側があって、どれぐらいの灰色でおさめますか?と言う話し合いがなされようとしていたわけでしょ?多分。その双方の見解の相違の程度が「白」と「黒」ぐらい離れてたのかどうかはわかりようがないですが。

地点からすれば、出会い頭に鼻っ面殴られて「おう、話し合いしようぜ!」って言われたようなもんですよね。もちろん社会的弱者にとってはそれしか手がなかったと言う可能性は高いです。何度も交渉を申し出ていたが地点側が相手にしてくれず、しかたなく、センセーショナルに世論を味方につける形で訴えたということもあるかもしれません。被害者の方には実際それしか手がなかったかもしれない。「マスコミや新聞を使って被害を訴える」のと同種の方法。地点に身に覚えがあるのかないのかわかりませんが、それを受けて(なのかどうかすらわかんないけど)それでも「じゃあ話し合おう」といってテーブルに着いたと。両者テーブルに着いた時点でユニオン側が一旦、剣呑な記事を削除した。そこで「お互いここまでなら譲れる」という話し合いが進めばそれが一番良かったんだろうと思う。それは何も「喧嘩両成敗」的なことじゃなくて、正義がある方により近く、正義のない方がより譲った地点で妥結されればよかったろうと。で、そこが設定できないならば、裁判するしかない。

いずれにせよ、静かな環境で話し合うのがいいよ。外野がやかましい中では落ち着いて話もできんし、ユニオンさんが噛んでくれているなら「密室」と言うことにはならんだろうし。そのためにも「コメントは差し控える」んでしょう。ところが就任の発表がされちゃう。

これはもう明確に「地点としては不当解雇もパワハラもやってません」という、相当明確な態度表明じゃないですか。だって「不当解雇、パワハラをやって、謝ってもいない人」が、館長になったらまずいです。そんなことはわかってる誰もが。
つまり地点はステートメントは出してないんだけれども、「うちらはやってません。」という明確な表明をしたのと実質同じで、かつそれに京都市とロームシアターがお墨付きを出してしまったってことなんです。 
これをやった時点で「話し合いのために、こちらの一方的(にならざるを得ない)ステートメントを出すことを控える」というのが全く、ちぐはぐというか、本当にそう思ってやってたとしても、筋の通らん話になってしまったと感じている。これは相手からすると「なんじゃそら」だとおもう。右手で握手してたら左フック来たってなもんでしょう。

結局、地点と被害者の方の見解の相違は、ものすごく大きかったんでしょうね。少なくとも地点は「ロームシアターの館長引き受けても大丈夫」という認識であることは間違いない。

で。だとして。京都市とロームシアターは、今回の「騒動の被害者」から独自にヒアリングなどをして、その結果「こりゃシロだ」という判断にいたった上で三浦さんに依頼?任命?してるのか?ということ。これをしてるってのならほんとごめんなさい。僕の想像だけですがしてないんじゃないのかなぁ…?そうだとしたらこれが一番の問題だと思う。「無能さが邪悪」な人も「邪悪で有能」な人もいるけれど、地点、三浦さん付近にそういう問題があるということを知らない、知ろうとしないまま任命するほど、市もロームも無能ではないと思うの。「徹底的に身体検査しろ」とは言わないけれど、「不当解雇、パワハラ問題、疑惑?がいまありますよ」ということぐらいは承知の上でやってるでしょ。その上で依頼だから

「京都市、ロームシアターは、地点、三浦サイドに非はない、と思う」って言った、つまりお墨付きを与えたってこと。

繰り返しだが「それ被害者の人にも話、聞いたか?」と。聞いた上での結論ならすんません。また「疑惑があること」すら知らない知ろうとしない無能ならば残念。


なんせここからはケンカだなぁと憂鬱になるわけです。「喧嘩しないで話し合いするためにステートメント出さなかった」という地点の主張は途中までは実際にそうだったんだと思いたいけれども、館長就任ニュースが出てしまうと、「おえ!喧嘩する気まんまんやんかいさ…」とならざるを得ない。ステートメント以上に強固だよ、だって市とロームシアターの後ろ盾があるんだし。でも「それでもかまわない」というぐらいに地点の彼らは彼らの正義を信じているんだろう。なら裁判するしかないと思うんだが…。

北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ

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もう一点。
僕がテレビを見ていた頃だから12、3年以上は少なくとも前なんだけれど、おそらくアサヒスーパードライのCMで蜷川幸雄が出てるやつがあって、蜷川さんが稽古中に女優に怒鳴るの。
「そこで泣くんだよ!泣けぇっ!!」って。
僕はゲロ吐くぐらいそれが嫌いで。
CMの最後には「お疲れー」つってムッチャいい笑顔で座組みの人らと乾杯するんですけどね。全部がCMの演出なのか、ドキュメントも入ってるのかわかんないですけども、とにかく「なんじゃそら?」と思ったし「おい、こんなもんCMにして大丈夫なんか?」と思った。
で、そういう話がしたいの?ってこと。僕自身のことを言えば思い当たることは山ほどある。一昨年に京都舞台芸術協会でやった「舞台芸術家のための法律セミナー」に関連してツイッターで自分の黒歴史をどんどん流したけれども本当にもうど真ん中パワハラなんです。バカでした。すいません…。そんな私が言うのもどうかと思うのですが…

今回の地点のことは、ど真ん中真っ向「労働問題」でしょう。それこそ「労働問題に詳しい弁護士の〇〇さん」マターなんだと思うんです。フリーユニオンさんが入ってますけれども。(多分フリーユニオンさんは僕みたいなフリーランスも相手にしてくれる、つまり法律である程度保護されている「労働者」に限らず、むしろ「個人事業主」であるがゆえに保険も入れてもらってないような人の権利について明るい団体なのでは…?)だから、どっちかっていうと労働局に訴え出る案件じゃないのでしょうか?)
「パワハラの挙句、不当解雇」って、演劇に限った問題じゃないんですよ。それは地点が会社で被害者の方を雇用していたから。労働者なんです。

僕が舞台芸術協会の理事長になったのは、今から2年弱前、2018年4月で(あ、5月かも)、ちょうど「とある劇団のパワハラ」問題がふっと界隈で立ち上がった時期なんです。それを受ける形で「なんでも相談窓口」というものを開設したり、弁護士の中村先生にご協力をいただいて「舞台芸術家のための法律セミナー」「契約書作りワークショップ」などを京都舞台芸術協会が主催で開催しました。(僕が一人でやったんじゃないですよ。協会のメンバーでみんなで協力してやったんです)これはね、本当に厄介なんです。中村弁護士とお話しさせていただく中でクリアーになっていったのは、「私たちは労働者じゃない」ってことでした。つまり雇用契約を結ばずに、フリーランスが「業務委託」を請ける形で進んでいく事柄について(また、そのうちの多くは契約書を作らない形で!)どう言う約束事をするべきだろうかとか、「劇団」とかなるともっとようわからんもちゃもちゃした感じのなかで起こったトラブルはどう解決できるんだろうかとか。これはほんまに鬱陶しい、だるい話なんです。で僕たちはつい「演劇の世界のパワハラ」ということに、つまり自分の身近なことに引きつけて、それを今回の地点の件に重ねて、言いがちなのかと思うのだけれども、それは得策じゃないと思うのです。せっかくクリアになる条件下にあるものを、わざわざ、ふんわりした答えの出にくい平面に還元せんでもいいやんかと。「法人化」の流れはあるんでしょうけれども未だ多くの劇団はそこに至っておらず、まして俳優が労働者として雇用されている(民間で)というのはまだまだ珍しい事例でしょう。

「劇団内でパワハラがあったのか?」
よりも
「その会社の中でパワハラがあったのか?」の方が認定しやすいはずなんです。法律があるから。
劇場法はあるけど劇団法ってないんでしょ?「パワハラ防止法」とかどうなったのかしら?大企業と中小企業で違うんでしょうが…。
まして「不法(不当)解雇があったのか?」ということは「劇団を追い出された」とかいうことよりも、格段に認定しやすい。
会社には様々な責任義務があり、雇用される労働者には様々な権利がある。(僕ら稽古場で怪我しても、共演者からカンパもらえるかも?ぐらいですからね)
その枠組みで、はっきりするかもしれない事案に関して、自分に引きつけて「演劇とパワハラ」というレイヤーを重ね合わせることは、問題を「矮小化」といっては言い過ぎかもしれませんが、「ただめんどくさくするだけ」と言う側面はあるように思うのです。

「演出家が『この俳優を使ってもいい演劇ができない』と判断した時に、その俳優を降板させることができるのかどうか?お金どうするの?」
「俳優が『こんな演出家のしたでやってられるか」と思った時に降りられるのかどうか?お金どうするの?」
というレベルのこととは切り離して、幸いにも(?)この案件は労働問題として白黒はつくはずのものなのです(裁判になるんだろうが。嗚呼…)

「演劇の世界のパワハラ」については、ややこしかろうがめんどくさかろうが地に足つけて、ちょっとずつでも取り組んで改善してゆくべきだと思います。
また「労働者」としての被害者への連帯はあってしかるべきだとおもう。実際私は演劇の仕事もしてますが、それだけでは収入が足りませんのでWワークをしていて、弁当の配達をしているわけですが、そこでは全き「労働者」です(正社員じゃないけど)。ですから、その地平での連帯はできると思う。僕個人としては。

ただ「演劇に携わる人間として」今回の問題にコミットしていくってのは、クリアになるかもしれない問題を、よりわかりにくくするんじゃなかろうか?とも思っている。

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この二日、このことばっかり考えていてどうにも前に進めなかったので、吐き出して先に進む。
目は切らないけれど、脳みそと時間は来月の一人芝居のことに使う。

「紙屋悦子の青春」とそれにまつわる「批評性」について(アホほど長文)

アイホール 現代演劇レトロスペクティヴ
コンブリ団「 紙 屋 悦 子 の 青 春 」

の稽古中です。私はタイトルロール=悦子の兄(安忠)という役どころです。役作りを進めていくなかで、にわかに「批評性」というキーワードが私の目の前に立ち現れてきました。そのことについて書こうと思います。

まず大前提としてこの公演は「アイホール 現代演劇レトロスペクティヴ」と冠されているようにいわゆる再演です。もうその時点で既に批評的であらずにはいられません。過去のある時点で一定評価を得た作品、戯曲を、今現在時点に置き直す。作り手が<いやおうなく新たな>視点から作った作品を<いやおうなく新たな>視点を持った観客が体験する。ここには(『再演』という営みには)全き批評性があります。そこで私が考えたいのは
「黙ってたって批評的にならざるを得ない今回の公演に当たって作り手(その一員である私も含めて)はどのような批評性をもつべきか?」
ということです。
「どのような批評性」というのは、何に対して、どういう角度で、どのような力加減で、…?ということです。
「持つべき」というのは「義務、正しさ」というよりは「かっこいい」「理にかなっている」「芸術的価値が高い」「やりがいがある」というあたりのことです。
そのことについて考え始めると、この「紙屋悦子…」の再演におけるその問いは実はすごく複雑な問題だということがわかり始めてきました。

 何が「すごく複雑」なのか?と言いますと、それは「批評(性)の問題」がいくつかの層(レイヤー)に同時にあること。そしてそれらが互いに相関関係にあるということだろうと思います。いくつかの層。演劇にもいくつかの層があります。
・劇世界
・戯曲と演出家との関係の層(演出家とスタッフ、俳優の関係世界)
・作品と観客との関係の層(上演と社会との関係世界)
上記のいずれの層(レイヤー)においても「どのように批評(性)をもつべきか?あるべきか?」という問題がある。実はこれはどんな演劇作品においても至極当然のことだろうとも思うのです。たとえ再演でなくても同じ問題はあるだろうと。ただし、こと今回の「紙屋悦子の青春」の再演に関しては、その濃度が随分と高いのではないか?と感じていまして、それについて以下もう少し細かく書いていこうと思います。(細かく書いていくなかで作品の内容に触れています。そもそもが再演作品で有名な作品です。また映画化もされておりますのでご存知の方も多いとは思いますが、「今回、事前に情報を何も入れずにまっさらな状態で観劇したい」という方は、以下の文章は観劇後にお読みいただければ幸いです。)


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⑴戯曲に対して、初演に対しての批評性
先に書いたように今回は再演なのでそこには否応なく批評性が立ち上がるだろう。「名作だなあ」「美しいなあ」という単純な感想だけでもって我々が取り組んだのだとしても、そのとき出来する演劇には自ずと何某か批評性を纏うはずだ。なにせ初演から四半世紀が経っているのだから。とはいえそのことと、
〈「紙屋悦子の青春」に対して私たちがより自覚的に批評的であろうとすること。〉
とは少し違う問題だ。私たちは「この戯曲はなんだったのか?」「何故に名作なのか?」と問うて分析することもできるし、しないこともできる。「初演と今とで何が変わって、何が変わらないのか?」と問うことも問わないこともできる。
時間経過によって自ずと発生する批評性とは別に、そこからより進んで、違う角度から細かく光を当てることもできる。が、そうしない(でおこうと努める)という選択、つまり「時の経過に伴った素朴な批評性に委ねる」こともできる。果たしてどのような塩梅がよろしいのだろうか?ということがまず一つ目の「批評性をめぐる問題」だ。
演出のはしぐちさんが時空劇場に対してどんな批評性を持って再演に挑むのか?ということでもある。
また、時空劇場の「反動」とも取れる松田正隆さんのその後の活動、マレビトの会の初期に数度俳優として使ってもらった私にとっても、直接出会わなかった当時の松田正隆さんの戯曲にどんな批評性を持つべきか?というのは少々複雑な問題だ。しかし純粋に俳優の作業として台本をセリフを綿密に吟味する行為は、すなわち批評性を高めることだ。肯定的にであれ批判的にであれ。そうして少しずつ「紙屋悦子の青春」という戯曲が私の中で手触りを変え始めていった。
 次にその作業で感じはじめた「戯曲の中の批評性に関する問題」について書く。


⑵劇世界内部の批評性
・ふさの批評性
私の演じる「安忠」は紙屋悦子の兄である。ふさは安忠の妻であり、また悦子とは学生時代からの友達である。徴用されて、熊本の工場で働く安忠が一週間ぶりに米ノ津の家に戻ってくる。ふさは赤飯を炊いて夫の帰りを待っている。なぜ赤飯か?ただ「ごちそう」ということではない。近所の奥さんが「赤飯とらっきょうを食べたら爆弾に当たらない」と言っていたのだ。そのゲンを担いで、食卓に用意したのだった。しかしなかなか安忠は帰ってこない。帰りが遅いことを心配するふさと、やっと帰ってきた、妻と妹のことを心配していた安忠は、そのお互いの心配のささいな行き違いがエスカレートし過激な口論となる。

安忠「…おまえは日本が負けてもよかとか」
悦子「義姉さんは何もそげんことは言うとらんじゃなかね。」
ふさ「…よかよ…負けても…」

その後ふさは、悦子に促され「すいません」と一度は謝るものの「間。」の後「ばってん…」と続ける。

ふさ「ばってん…赤飯は赤飯らしゅう食べたかとです。らっきょうもらっきょうらしく食べたかとです。爆弾に当たらんごとておもうて赤飯やららっきょうば食べとうはなかじゃなかですか。」

一見、このふさのセリフには鮮烈な批評性があるように思える。戦争の末期である。前線の兵士は言わずもがな本土でも空襲で死んだ人々。家族を失った人々がいる。家を焼かれ帰る場所を亡くした人がいる。銃後を守ろうとその命を投げ打って敵艦に突っ込んでいく飛行機乗りがいる。安忠、悦子の両親も、東京大空襲で米軍によって命を奪われた。食べたくても食べられない人々がいる。粗末な食事でもかろうじて食べて命をつなぐ、その銃後の些細な営みを守るために自らの命を投げ打つ人がいる。そのシチュエーション、時空の中で、ふさは言い放つ放つのである。赤飯を食べながらである。「赤飯は赤飯らしく食べたい」と。これは本当に鮮烈だ。「コメを食べたい」「お腹いっぱいになりたい」と言うだけでも「おまえ、兵隊さんに向かってそれが言えるか?」「空襲で死んだ人、家族を失った人の前でそれが言えるか?」という状況。の中で「赤飯を食べながら」その食べている時の心持ちについて主張しているのである。無論それは「起きている間、常に『家族や知人が無事であるか?』と心配をしながら生活をすることにはもう耐えられない」ということなのだけれど、もうすでに家族を失った人々がたくさんいて、その人たちは心配することもできないのだから、「無事だろうか?」と不安に思うことすらもいうなれば一つの「贅沢」なのだ。しかしふさはそれを言ってのける。その強さを持っている。

ただ。ここでのふさの批評性は、芝居の中で(字面ほどの)鮮烈さを持たない。なぜか?それが家の中、ドメスティックな空間でなされた主張であるから。さらに重要なのは(台本を一読する限りにおいて)その場にいる悦子、安忠ともに、ふさと同じような視座で戦争というものを見つめているから。ふさの「赤飯…」のセリフは実に批評的であるが、その批評の的が舞台上にはないのだ。(繰り返しで申し訳ないが)一読するかぎり、ストレートに素朴に戯曲を読む限り、悦子も安忠も、ふさと同じ視座で戦争を見つめている。つまり「負けてもよか」という視座である。ふさが鮮烈に批評する「戦争。それを支持する空気」明石を特攻隊に志願せしめたもの。は舞台の外にある。登場人物たちはその舞台の外の空気に包まれて「被害者」として居て、言葉の発露の仕方は若干違えど、同じ方向を見ている。であるから、本来「鮮烈」であるふさの批評は、その対象が具体的でないことにより、ふやける。「サークル内の愚痴」にまで堕ちてしまわざるおえない。こうして一見鮮烈に見えるふさの戦争への批評性は、ふやけて、「悦子の悲恋」という鮮やかさに照らされ蒸発してしまう。

・老夫婦の批評性
これこそ「紙屋悦子の青春」の最大の特色だろうと私は思うのだけれど、「老夫婦」と「彼らの回想」の二重構造を持ちながら、老夫婦に 批評性がまったくないのだ。「老夫婦に」というよりも「老夫婦のシーンに」というべきだろう。普通に考えると回想シーンというのは、「今現在の視座から過去を振り返る」ことであり、そこに自ずと批評性が存在する。また過去のシーンによって、現在が見つめ返され、そこに又、批評が存在する。
 
A)「現在と過去が互いに批評し合うことによって、作品を立体的にしてその奥行きを増す。」
普通に考えてこれが「回想シーン」の大きな役割だ。その効果を得る為に「回想」という構造が持ちこまれる。
あるいは
B)シンプルにストーリーを倒置法的に表現する。結果の側から先に示して「その原因」に対しての興味を観客に喚起させてから過去(原因)を提示する。為に回想は持ち込まれる。

なのに「紙屋悦子の…」ではそのどちらでもない。B)の効果はほとんどないし狙われてもいないと感じる。興味深いのはA)の効果について、「それがない」ということだ。現在の病院の屋上にいる老夫婦も、回想の中の登場人物も、同じような角度から戦争を見つめている。これはとっても異質というか奇妙なこと。劇作ということを考えると。繰り返しになるが「回想」という構造を戯曲に持ち込む意味は「過去時点の視座」とは違う視座(現在)から過去を回想する、つまり違う角度から光を当てること=批評にある。素朴に「違う角度」、と考えるなら、老夫婦のシーンは、寂しげな病院の屋上ではなく、例えば「正月に帰ってきた息子、娘、そして孫たちに囲まれて幸せに団欒するひと時」である方が(劇作として)自然だ。実に平和で幸せな風景、一コマ、その時不意に思い出す、遠い過去の記憶。戦争と平和のコントラスト。それが強ければ強いほど、「二つの視座が異なる」訳で、より作品としての立体感、奥行きが増す。それは明白だろう。「紙屋悦子の…」では、先に書いたふさの批評性と同じように「一見」<戦時中の茶の間>と<穏やかな病院の屋上>とが対置されて互いに批評的であるように見える。のだけれど、実際には老夫婦も過去のシーンの悦子と長与も、同じ角度から戦争を見ている。時間の経過によってその「距離」は変われども「角度」に関してはほぼ同じように感じる。老夫婦の回想として展開される物語でありながら、「老夫婦→回想」にも「回想→老夫婦」にも批評性が希薄、というか無いのだ。

<ふさの批評性>、<老夫婦(反対にその回想)の批評性>、それらが「全くない」とは言わない。しかし「紙屋悦子の青春」のただただ鮮やかな「悲しさ」。その目がくらむほどの鮮やかな悲しさの陰で「批評性」はすっかり蒸発する。今回のコンブリ団「紙屋悦子の青春」のチラシは(意図的であるか否か知らないけれど)恐ろしいほど的確にその様子を表現している。

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チラシには戯曲の言葉、その文字がピンク色の桜の花びらとして配されている。その鮮やかな花に目を奪われて、私たちはそれを支える幹が目に入らない。それは実に周到に、徹底的に意図されたものに違いない。

「反戦演劇でないこと」こそが「紙屋悦子の…」の目的ではなかっだろうか?そしてそれこそが「静かな演劇」の「静かさ」ではなかったか。パラノイアックに「悲しい物語」として純化すること、批評性を排除することを目指された戯曲であり、その上演であったのではなかろうか?そしてその純度の高さこそが世間の耳目を引いたのではないだろうか?


⑶全ての階層にまたがる批評性(主に戦争についての)
書いてきたように、私にはこの戯曲内の登場人物からも、構造からも、徹底してその批評性が隠されているように感じられる。いうまでもなくこれは今現在の私の感じようだ。私は今45歳。父は終戦の年の7月に生まれた。母は父よりも一歳年下。つまり私の両親のこれまでの人生の日々、丸々が「戦後」なのだ。その私が今そう感じている。初演時、今から四半世紀前にはどうであったろうか?戦争体験をしっかりと記憶している方も観客の中にいらしゃったのではないか?そのような方にとってはどうであったか?おそらく今私が書いているような「批評性のなさ」と言う指摘はあたらないかもしれない。舞台上に「戦争そのもの」が立ち現れることにより、その記憶が風化してゆきつつある社会に向けて高い批評性を持っていたかもしれない。ただ確かなことは、少なくともこの戯曲の登場人物たちによっては戦争を防ぐことはできないだろうということだ。過去シーンの人々にも、病院の屋上の二人にも。

 私は今回の芝居にあたって資料を読む中で多くの体験者の心境と合致するというこの(無季)俳句を知った。

戦争が 廊下の奥に 立ってゐた(渡辺白泉)

 人々が気が付いた時に、ふっともう戦争はその形を確かにしてそばに在ったというわけだ。そうだろう「おかしいな、なんかへんだな、まずいんじゃないかなぁ」と思いながらも、それを批評することなく、ずるずると皆と同じ方向に歩んでいった結果、気が付いたら戦争をしていて、身内が死に、引っ込みがつかなくなっていった。確かにそれはそうなんだろう。老夫婦は病院の屋上で夕日を見ながら語る。

妻「なして(どうして)戦争のあったとやろか」
夫「なしてやろか」
妻「なしてあげん人の死んでいったとやろか…。」

これはまさしく戦争中にも体験者がそう感じていたものだろう。そしてこの二人はきっとまた気がつかないのだ。もしこの先もう一度、戦争が角を曲がった廊下の奥で徐々に大きく育ち形を成していってても必ずこの老夫婦は気がつかなない。そして「気が付いたら、また戦争が立っていた。なしてやろか…」と遠くを見ながら呟くのだろう。ぼんやりと「なしてやろか」と呟いているだけでは戦争が始まることを防げない。「なしてか…」からまっすぐ踏み込んで原因を分析する。自分の言葉で表現する。新たに意味づけする。つまり批評性が必要なのだ。江戸時代が終わり開国して明治大正~昭和初期という太平洋戦争時代の多くの市井の日本人たち、その頃の僕らの先祖の批評性のなさを非難しても詮無いことだ。しかし、それ(批評性のなさ)こそがまさしく戦争の母胎、苗床であったことは現実だろう。多くの人がなんども論じてきたことだけれど「戦争は一部の邪悪な人たちが善良な市民を洗脳して行った」というのは正しくない。「日本には資源がないから」「アジアの解放の為」「天皇陛下の存在」…どんな言葉で語っても戦争の原因は正しく語れないだろう。ただいずれにせよ、戦争の卵を温め育て孵化させたのは当時の日本人たちだった。私のじいさんも、ばあさんも。悦子もふさも安忠も、「戦争にまきこまれた被害者」であると同時に「戦争の当事者」でありさらに言うなら「戦争の加害者」でもある。明石に特攻隊への志願をさせたものはなんだったか?
最後の別れの挨拶に来た明石に対して、悦子に「(敵の空母ば)沈めなさることば、祈っております。」と言わせたものはなんだったか?
それは悦子自身だ。事実その直後、悦子ふさ安忠は、明石の「武運を祈って」彼を特攻へ、つまり死へと送り出すのだから。明石をころしたのは悦子たちでもある。「しかたがなかった」「やむをえなかった」…。確かにそうだろう。ただそこでそう言ってしまったら最後「戦争は悪いことだ。極力避けるべきだ。でも仕方なかった。やむを得ず戦わざるを得なかった」という言説に反論できなくなってしまう。一度始まってしまった戦争を止めることは、とんでもなく難しいだろうことは誰にだって想像がつく。「仕方なかった」といってしまうのも責められはしない。ただそこにいる限り、次にまた生まれてくる戦争を止めることはできない。所与の状況を、たとえば「世の中」だとかを無批評的にただ受け取り、多くの人が進む方向へなんとなく進んでいけば、当然のことながらまた廊下の奥に戦争がたっているだろう。なんどでも。戦後とは戦前のことだというのは真理だ。今の「世の中」を自分の頭で捉え直して意味づけすること。し続けること。し続ける人が一定数以上いること。それによってかろうじて戦争を押しとどめられる可能性が生まれる。落日をみつめながら「なして…」と呟くことでは戦争が始まるのを止めることはできない。むしろその老夫婦たちに「いや『なして』やあらへんがな!あんたらがしっかり『あかんもんはあかんって』声をあげへんからやんけ!」と若干の憤りを覚える目線、その批評的な視座にこそかろうじて可能性はある。
 しっかりとみて、自分の言葉で語ること、よければ肯定すればいいし、ほめてもいい。悪いと思えば、そして必要であれば時に声をあげて批判をする。そういう態度に。



繰り返しになるが「紙屋悦子の青春」からはこの批評性が全く感じられない。ずいぶん乱暴な言い方をあえてすると、この「紙屋悦子の青春」的なものが。それこそが戦争の温床、苗床、母胎ではないか?あざやかに「ただ悲しい物語」であるために徹底的に「反戦演劇ではない」、また「ない」ことを強く志向して作られたこの戯曲のその「静かさ」に戦争は着床し成長する(している)んじゃないか?

もし仮にそうだとすれば、私たちはこの作品をどのように上演するべきだろうか?特に気構えることなく、なるべくストレートに上演すること、それを四半世紀という時間の流れによって自然発生しているだろう観客の批評性に身をまかせるべきかもしれない。そもそも観客一人一人の持つ批評性は計測不可能だ。(などと言い始めたら何にも始められなくなるのだけれど)
あるいは何かしら、そういった不気味さ、戦争の胎動のようなものを能動的に伝える方策を考えるべきだろうか?だとしてそれはどのレベルでの操作が適正なのか?俳優の演技のレベル、全体の演出、舞台美術、衣装、ケレン…?各所が色々とやり始めると、マイナスとマイナスが掛け合ってプラスになるようなことも当然おこりうる。本当に厄介だと思う…。コンブリ団の答えを確かめにぜひ劇場に足を運んでいただきたいと思っている。

最後にもう一度だけ今回のとてもとても秀逸なチラシについて。
来年一月17~19日、アイホール。松田正隆さんの鮮やかに美しい言葉たち、桜の花は散がちってゆき、「紙屋悦子の青春」の幕が下りる(降りないけど。芝居が終わるってこと)花びらが散るとその枝も幹も消えて無くなる。芝居が終わった後の舞台上に、その幹や枝が幻視されることを、個人的には(今の所)願う。
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