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遊劇体のお芝居を拝見しました。

遊劇体のお芝居を拝見してきました。
#62本公演『空のトリカゴ~Birdcage In The Sky~』
@THEATRE E9 KYOTO

文体と演技のギャップ
演技と曲のギャップ
ドラマと演出のギャップ
それら複数多重の「ゴリッ」って感じがクセになる人はいい時間になるだろうし、受け付けなければ引いて遠くから眺めることになるんだろうなと感じた。いずれにせよ「スルゥー」と抵抗なく流れる時間よりは真っ当だとは思う。真っ当でなければこんなに長いこと続けてらんないよなぁ。演劇始めた大学一階生で観てるんだ僕。

鳥かごの中の小鳥を丸呑みにした蛇が、(丸呑みしちゃって体がおっきくなっちゃったからカゴから出らんなくなって)それを消化して(再びスリムになって)カゴから出て行く。というメタファーが体現されていた頃の遊劇体の印象がいつまでたっても僕の中から消えない。つまり今回なら「蛇」役が登場し「小鳥」役も出てくる。美術がむしろ逆転して畳とちゃぶ台と…とか。

長い長い劇団の歴史の中、古典からオリジナルから旅をして、いろんな方向に振り切れてきてキタモトさんのなかで「今はこう」っていう文体と演出、演技方法なんだろうなと想像する。ただ僕にとっては、今回見たのに関してはフォーカスがずれていると感じた。「ゴリッ」のために「逆張り」する結果、「逆と逆」がかけ合わさって中和されて呆けたような印象。特に俳優の役に対するアプローチに「うーん」と思った。前回に劇研で拝見した「ふたりの蜜月」ではそんなこと思わんかったんだけども、なにが違うんかしらなぁ…。

もっと「神話」的に、行間を作って空白を作って、つまりスッカスカにする。「父という型」「母という型」にする方向もあったろうし、もっと「具体」的に、カツオ(父の役名)のカツオ性というか、ユニークさですね。それを出していく方向もあったろうと思う。そのちょうど間の「ステレオタイプ」という一番気持ち悪いというか、「俳優が手を抜いている」ように見えるところでやらせてしまってい様に感じた。 

正直、大熊ねこ、は「上手い」俳優ではないが、けっして不誠実な俳優ではない。むしろ熱くて鬱陶しいタイプなのだけれども、その彼女が「ほとんど役作りをしているように思えない」程度の厚みでしか役を表現できておらなんだ。それが逆に振れて「母性なるもの」とかを表象できてるのかっていうとそんなこともなかった。「俳優の下手さを隠す為の演出法、演技法」に見えてしまうのはとってもまずいと思う。(もちろんこの時の「俳優の下手さ(巧さ)ってなによ?」という根本の議論はあるのだけれど)

そんな中で松本信一さんは戦っていたなぁ。うん。素敵だなぁと思った。ただその戦いは非常にドメスティックな戦いだ。役との戦い、演出との戦い、自分との戦い。外部にいるお客さんに伝わるのは今んとこその「戦っている熱量」だけなんだけれど、それをもう一歩進められたらなぁ…。合わせ台詞やモノローグで説明されていたことが、体からセリフの端からお客さんに伝わったら…というか伝えられる俳優さんなんじゃないかと思った。

偉そうに書いてしまっているので(ってのも変ですけども)週末、人間座頑張ります。見に来てくださいませ。

人間座第65回公演
「靴を失くして」
徘徊していた老人は片方だけ靴を履いていなかった
11月29日(金)~12月1日(日)14:00
詳細>http://ningenza.com

宣伝宣伝。来週末人間座のこととか(久々動画も)


めっきり寒くなってきました。風邪など引いてらっしゃいませんでしょうか?田中遊の活動のお知らせです。
先週11月12日に京都アバンギルドでのショーケースイベント3CASTSに出演してまいりました。「ボソボソ風」というタイトルのルーパーを使ったパフォーマンスでした。自分でもかなり手ごたえがある作品になったと思っています。こちらの方は来年2月の「戯式vol.10」でさらにブラッシュアップしてお届けできると思っております。

[ ボソボソ風 ] in 3castsの様子(youtube)
https://www.youtube.com/watch?v=2V1C8M3E_lE

そして来年の話はちょっと置いておきまして来週末に京都の老舗劇団、人間座さんに客演をいたします。

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人間座第65回公演
「靴を失くして」

徘徊していた老人は片方だけ靴を履いていなかった
演出:合田団地
出演:菱井喜美子/多賀勝一/佐々井泰子/田中遊/ 沢大洋
 11月29日(金)14:00/18:30
 11月30日(土)14:00/18:30
 12月1日(日)14:00
場所:人間座
詳細>http://ningenza.com
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こちらぜひご予約くださいませ。認知症のお年寄りが出てくるお芝居です。私は実年齢45歳で、お芝居の中では47歳の役。ほぼ同年齢の役を演じさせてもらっています。私の両親は父母ともまだしっかりとしているのですが、この先いつやってくるのかしら?など、やりながらもいろいろ考えさせられるお芝居です。ぜひご覧くださいませ。

年内はそれで打ち止めです。年が明けますと、すぐ再び客演でございます。

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アイホール 現代演劇レトロスペクティヴ
コンブリ団

「 紙 屋 悦 子 の 青 春 」

■作/松田正隆
■演出/はしぐちしん

2020年
 1月17日(金)19:30
 1月18日(土)14:00 / 18:30
 1月19日(日)14:00

詳細>https://conburidan.blogspot.com/
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コンブリ団は2016年9月以来になります。深津篤史さん作の「カラカラ」を劇団ジャブジャブサーキットの、はせひろいちさん演出で上演したものに呼んでいただいた以来になります。今回の演出は、はしぐちさん。そして松田さんの作品…。初期、マレビトの会に参加させていただいておった身としてはグッとくるものがあります。

で、それが終わりまして2月に一人芝居でお目にかかれればと思っております。年末年始も貧乏暇なしで活動しております。どこか一個でもご都合がよければみにきてくださいませ。

劇団速度のこと

先週土曜日、劇団速度の公演を拝見してきました。感想を書きたいなぁと思っていたのですが、ちょっと時間も取れずにタイミング外した形ですが…。

いやとても「芯を食ってた」と感じたのです。何しろ美術がもう超絶かっこいい。あと呼吸の演出もすっげーエッジが立って届くのに奇をてらってる感も、「それだけに頼りすぎ(お腹いっぱい)」感もなく。これは本当にすごいなぁと。思ったんです。

で僕の一番の関心は、
なぜそんなにも芯食ってる(私がやられてる)作品にも関わらず、寝てしまったのか?ということなんです。
はい。正直申しまして途中で結構寝てたんです。それはなんでやろうか?と。

「ちょっと集中して声を(そして言葉を)聴きたいなぁ」とおもって目をつぶったのが悪かったのか。
いや「寝ること=悪いこと」でもないんだろうけれども。

明らかに「芯を食っていた」。が。その芯になんもなかった。
と、私は感じたということだろうと思うんです。アボガドの種がない感じ。コア、核。

開演前に舞台上でご挨拶されてその場でもおっしゃっていたし、また挟み込まれていたいわゆる「当日パンフレット」にも明記されているのだけれども、素材として扱った三好十郎の戯曲を
1)「読めばわかることは本作に一切登場しません」
(この「登場しない」とはいかなることかということも考え所。つまりそれが「登場する」とされている場はどこなのか?舞台上?観客の頭の中?両者は違うものなのか?違がわないけれど違うと仮定するべきものなのか?…)
2)「原作が三好十郎である必要もありません」
(必要というのは誰にとっての?また必要のある無しと別の問題として事実原作者は三好十郎である。その作品を体験したものにとって「三好である必要がない」というテーゼはどういう意味を持つのか?)
3)「目の前で瞬間においている出来事を見ること、それだけがこの作品の前提(中略)…それだけが重要です」

ふむ。上の番号は私が適当に振っただけで意味はない。またその文章に書かれていることがその三点に要約されるという意味でもなくって単に話を進めやすくするために振ったのです。ご容赦を。

3)に関しては腑に落ちるというか、私本当にその「目の前で起こってること」には打ちのめされたんです。かっこよかった。ちょっと話それますが美術館で映像インスタレーションで見てたらなんか何回もループしてみてたかもって想像します。うん。多分そこに僕とこの作品の問題(とあえて呼ぶならば)があるんだな。でも寝たんですね。結構キップ良くというか、潔くというか「うん。これは寝てもいい奴」と思った記憶がある。

…四日ほど寝かしたのにうまくまとまる気がしないのでもう「まとめる」気なく乱暴に進めますね。
乱暴に、すごく乱暴にいいますと

「俳優があと100回ずつ台本読んでもう一回やったら、バケモンみたいな作品になる」と僕は確信しているんです。
前提としてまず「バケモン」ってのは「田中遊にとって」ってことですねもちろん。私がムッチャクチャ見てみたい、感動するだろう作品ってことです。つまり今回の演出意図とは違ってるだろうと。また「確信」と言ったってこれは原作も読んでなければ俳優さんひとりひとりも知らないわけですから、あてにはなりません。それでもなんかそう確信してるんですね。なぜと言われてもうまく答えられませんが。

演出家が1)2)のようなことを言っている以上、俳優さんたちの作品への関わり方に難癖をつけようってことじゃないんです。「俳優かくあるべし」というのは僕なりにもちろんありますが、見ず知らずの他の俳優さんにそれを押し付けようとするほど面の皮厚くない。実際俳優さんも美しかったしね。声に色気と説得力がある人が多かったかなぁ。「声として商品になるセリフの言い方」ができる人が少なくなかった。

今時あるのかわからないけれど僕の年代の「脅迫状」の定番といえば新聞や雑誌の切り抜きをコラージュしてメッセージを作るって奴だったんです。(若い人はもう分かんないのか?今でもそういう犯罪サスペンスドラマでは使われてんのかしら?)その三好十郎さんの台本にハサミをジョキジョキと入れて、「さ」という文字と「よ」「う」「な」「ら」という文字を別の紙に貼り付けて「さようなら」という意味に読めるペーパーを作るという作業(これじゃ脅迫文じゃないけれど)まぁそういう作業をしたいのだよ。するのだよ。元の新聞が何日の新聞で、それぞれどんな記事から切り抜いてきたかってのは問題じゃないよ。というのが1)2)の言いたいことだと思うんですけれども。(多分ここまでは間違ってないと思う)そうして記号として抜き出された「セリフ」に対して俳優がどう向き合うのか?

俳優が「記号」を記号として出力することを引き受けることは、すなわち俳優の否定だと僕は感じて、そしてコンセントを引き抜くように寝たんだろう。
ああ、だからやっぱり「俳優かくあるべし」なんだな。はずかしい…。でもそれはまぁいいじゃないですか。僕が思って僕が客席で寝る分には。ね。

記号を記号として出力するのなら、パソコンに音声喋らせてもいいし、字幕で出してもいい。音響出しでもいいよ。
俳優の作業は(牧歌的に単純化していうと)「記号」として台本に書かれている文字列(僕らの場合大概日本語、ひらがな、漢字、カタカナの列)から「声」を生み出すこと。「生み出す」というのが大層すぎると思われるなら、きっとその人は俳優の仕事について舐めてる。と僕は思う。

言葉には「それが生み出される過程、運動」がある。その言葉がどれほどみすぼらしくても、話者の真意を全く表現できていなくても「言葉を語った(あるいは沈黙した)」という運動がそこにはある。俳優の仕事は「記号」からその運動を復元することだ。それは端的にでっち上げかもしれないし、それでいい。ただの曲がった白い棒キレにしか見えない「恐竜の爪の化石」からフルカラーの恐竜をでっち上げること。例えば。

脅迫状に貼られた一文字一文字は、記号的に機能するように文脈から切断されている。「みのしろきんをよういしろ」そのメッセージに観客は震撼するかもしれない。でもそれは切り取る人=演出家構成の仕事だ。じゃ、俳優の仕事は?「み」の字が政治面から切り抜いた「み」なのか?ラテ欄から切り抜いたのか?「景気は足踏み」から切り取った「み」なのか、「みんなでゴミ拾い」の「み」なのか?そこに強度があってこそ「コラージュ」たり得る。そこに強度がなければ「コラージュに見せかけて、実は上から書いてます」ってことだ。と感じる。

俳優が原作をそれこそそれだけで成立するような精度密度で練習し(いや、すごい理想論ですけどね)、それが完成した上で、その中からセリフを抜粋して、構成し直したならコラージュでしょうよ。でもそうじゃないのが伝わったので僕には。
いやこれもただ僕の感じ方です。大概、良い作品は鏡に感じるものですから、当日の僕がスカスカだったからスカスカに見えた、というのが真相である可能性は大いにあります。

「コラージュする手つき」だけが眼前に提示された。その「手つき」は実に実に実に!(三回書いたった)センスがいい?違うな。「芯食ってる」僕にとって。だった。んだけど。その手つきだけがあって実際にはコラージュじゃない。そういう時間だったんだと思います僕にとっては。

京都の人にだけわかる例えをしますと新京極の四条通りから入ってすぐにロンドン焼きの店舗があるじゃないですか?ガチャンガチャン言いながら回ってる奴。あそこのシステムはすごい格好良くて見入っちゃったんですけど、良く見ると、何も焼いてない。空回りしてる感じ。そんなことだったように思うのです。
繰り返しですが、俳優さんたちのアプローチが間違ってる!と文句言いたいわけではなく。というのも多分そういう風に演出されたんだろうと思うからですが…。私自身が三好十郎をまったく知らないのにいうのもどうかと思いますが

2)「原作が三好十郎である必要もありません」

が成立するためには三好さんがその言葉を戯曲に記したという「運動」について、またその戯曲の中の登場人物たちの「声」について、相当突き詰めないといけない。「三好十郎とはなんであるか?」ということが未確定ではそのテーゼは成り立たない。
「スポーツマンである必要はない」という言明は「スポーツマンの定義」が必要です。「こういう人がスポーツマンなのだ」ということですね。それがないと底が抜けちゃうでしょ。何言ってるかわからない。
もちろん演出家の野村さんは相当読み込まれているでしょう。まさか山勘でテキスト抜いてきてるとも思えない(いやそうかもしれないけれど、やってできないことないかもしれないけれど、ちょっと心細すぎて、想像できない)ただ、舞台上に彼はいなかった。

最後にもう一度書くけれど、俳優それぞれがあと100回台本読んでやったらバケモンみたいな作品になると思う。


地点のこと

昨夜、地点の「ハムレットマシーン」を観てきた。予想以上に楽しめた。
「予想」というのはつまり「今回は楽しめないんじゃなかろうか…」と敗戦濃厚な戦場へ向かうような気分。(行ったことはもちろんないが)しかしながら「この劣勢がひっくり返ったら痛快だろうなぁ」という期待もあり、その両極から引っ張られて、妙なテンションのかかった、フラフラした精神状態で私は開演を客席で待っていたのだなと、今書いていて気がついた。「楽しめた」要因は案外そこらへんにあるのかもしれない。思えばアトリエ劇研でみた「三人姉妹」以降(2004年だそうな)「地点体験」を重ねた結果、私はある程度「今度の地点は楽しめそうか否か」の予測が立つようになった。予測の根拠はまず第一に「扱われるテキストを予習できるか」。また「そのテキストにストーリーがあるか」も大きな要素だ。今回はその二つともがダメだったので難しいかなあと予想していた。実際彼らのパフォーマンスは毎度僕には情報量が多すぎて私の教養と知性と反射神経で十全に味わえているとは到底思えない。(だから「おもしろい」じゃなくて「楽しめる」という表現をつかっているのだろうけれど。しかしもちろんその「私の知的コンプレックス」だけじゃなくて、舞台上に強度、美しさを認めるから「この作品を『すばらしい!面白い!』という人がいてもちっともおかしくないなぁと想像するわけ)ただでさえ敗戦が色濃く予想される状況に加えて今般の「一方的解雇/パワハラ問題」のことが僕にはひっかかっていた。それは昨日客席にいた観客のおおくもそうだったろう。狭い世界だから。
結果は冒頭に書いたが楽しめた。ネガティブな予測を燃やしつくすような、なんだろう相変わらずの熱量なんだけど、美術の赤色との連想だけど「炎」「火」というイメージ、でそこになんども「消化器」(スモークマシーン、あるいは毒ガス、催涙弾)が噴射され、死ぬけど、また生まれてくる。ゴキブリみたいに。繰り返し(パターン)により生地(ある一定の時期、ジェネレーション、社会通念)が生成される。が、またそこに穴が開く。地図の上の島のように、ホルスタインの体の模様のように、所々が炎で焼かれて穴が空いて、違うレイヤー(過去、未来)が見えてくる…

てな想像をしながら「かしこやったらもっと面白いんやろうなぁ…」といつも通りの感想で締めくくって帰ってきました。

ちょうどその朝にツイッターで見た、(知り合いではない)ある人のつぶやきがとても心にひっかかっていて、ついでにそのことも書こうかと思います。

https://twitter.com/azumaya8/status/1187368237027209219

知人がいいねを押していて私の目にも入ってきたつぶやきなのです。(「いいね」は同意でなくてもメモとしてつけることはあるのでその知人がどう感じているかはわからないのですが)
中段の
被害者の声があがったことに対してなにもコメントがないことが気持ち悪すぎる。
には同意します。「すぎる」かどうか程度は比較しようがないからわかりませんが気持ち悪いですよね。
その「気持ち悪さ」をもう一段具体的に書くと、これはあくまで僕の場合ですが
「まさかとは思うが、この騒ぎになってんのを完全無視する。のか?(まさかな)」
というものです。早く「地点がこの件に関してどういう態度をとりどういう対応をするのか?」を知りたいと思っている。ただずっとコメントがないからこっちはいろんな可能性を考えるしとてもおちつかず気持ち悪い。

ただ最後の
誠実さがない。
に関してはちょっと私は乗れない。その誠実さは「誰に対しての」か?がここには書かれていないからです。普通に(の「普通」ほど怪しいものはありませんが)読めばそれは「被害者およびユニオンへの誠実さ」だろうとおもいます。なぜなら「部外者の知る権利への誠実さ」を、「被害者側への誠実さ」よりも優先させることは具合がわるいし、そのことは多くの人もそう思っているだろうと私が考えているからです(日本語!)
一般論として加害者が持つべき誠実さの対象は

被害者>社会

だろうと。「知る権利」(も「広く知らせる責務」も)ある。
社会の中で(また演劇界隈の中で)「被害者への誠意」と「(被害者以外の人も)知る権利」と、どっちが重要なのか?は議論の余地があると思います。ただ
加害者にとってこの順位はまず変わらない。加害者は何をもってしてもまず被害者に対して誠意を傾けるべきで、そのことで仮に社会から「気持ち悪すぎる」と思われても甘んじてそれは享受するべきだろう。むしろ被害者の頭を超えて社会に向かって「誠意をもって話し合いを進めてまいります」なんていい顔して見せることは被害者に対してより悪い感情、不信感を与えることだってあるだろう。(実際そういう事例はよくありますね。)

「日本国内においてある程度の地位(?)や実力、影響力、知名度がある劇団が起こした騒動に対して、劇団はなんらかのコメントを一般に向けてする責務がある」という言い方もできるでしょう。でもこのつぶやきで書かれているのは少なくとも「日本の映画演劇界への誠実さ」だけということは考えにくい。多分に「被害者側に対しての誠実さ」がない、とされているように私は受け取りました。「被害者側への誠実さ」があるかないかは今の所、当事者以外には判断ができません。上のツイートに続けてリンクを張っていらっしゃいますがこちらにもリンクを貼ります。映演労連フリーユニオンのweb記事「劇団“地 点”解雇事件 試用採用を経て社員として入団した舞台俳優Aさんに対する
一方的な解雇事件!」
http://www.ei-en.net/freeuni/archive/chiten_news190923.html

「団体交渉を地点に申し入れています。」からこちらも更新がなく、その申し入れを地点が受け入れたのか?交渉中なのか?といったあたりがわからずそれが僕たち、<当事者でないもの>にとっては「気持ち悪い」んですが、<被害者側>には「交渉を拒絶した」「受け入れた」というような形ですでにその「誠実さ、不誠実さ」は伝わっているでしょう。あるいは現在交渉中なのであればその姿勢によって地点の誠実さ、不誠実さは<被害者側>に伝わるはずです。私らに情報がまわってこないことが、かならずしも<地点が被害者側に対して誠実さがない>ことにはならない。もちろん被害者側にも誠実でなかったってことはありえますけれど。例えば仮に交渉中なのだとして地点側が「…につきましては現在団体交渉中です。内容がつまりましたらまたご報告をいたします」みたいなアナウンスをwebなどでしたとする。でも被害者側からしたら「いやいや挨拶しただけですけど?交渉も何もうちらの主張を全く認めていないのに、交渉も何もないじゃないですか?何を『双方穏便にまとまりそうです』みたいな『誠意をもって対処してます』みたいな空気出してるんですか?外ヅラじゃなくこちらにちゃんと向いてくださいよ!」ってなことにならんとも限らない。←これはものすごく空想で大盛りにした例ですけれど、だいたいトラブってる同士ってのは双方心がわからないわけで、だとすると、「万が一にも相手がそう思わないようにする」つまりこれぐらい慎重にというか、ならざるをえないのではないか。いったんもめ始めると、交渉して話がまとまるまでに出される当事者のコメント、アナウンスはもれなく「一方的」であるしかなく、交渉が終わってから両者が署名したもの、また同席する場での共同声明で、初めて「一方的でない」説明ができる。

被害を受けたとする方は、一人で戦おうとしたけれど、相手にされなかった。声を大きくするためにユニオンさんに助けてもらう(?どういう表現がいいのだろう?)ことで、すくなくとも「団体交渉の申し入れ」というところまでは進めた。ユニオンはさらに声を大きくしようとwebでニュースを出した。少なくない演劇、映画関係者が注目をしているし、心を痛めている。一人でできることは限られている。連帯することはとても重要だし意味がある。「部外者は口を挟むな」なんていってたらフリーランスみんな奴隷になっちゃう。me too運動もそうだけれど、被害者に憑依しても同情しても、あるいはもうちょっと距離とって客観視しても、その距離感はそれぞれでいいけれど、まずはスイッチを切らずに見て、そのことと繋がっていることはとても重要だと思う。ただこちらがいくら被害者にシンパシーを感じて同化、憑依しても、物理的にその中に(例えばその団体交渉団(?)の一員)入っていない限り、アクセスできない情報もある。<被害者への誠意>というものがその最たるものかもしれない。…と、今回のことで初めてこんなことを考えた。不祥事を起こした企業の謝罪会見とか「遅きに失する」ことがよくあるけれど、(そして私もそういったことに義憤をおぼえるのだけれど)そういった事情もあったりするんだろうな。

ユニオンの記事に書かれていたことが全てではないだろうとおもう。もっと他のこともいろいろあったかもしれない。というかあったに違いない。一人の人間が劇団に入って辞めさせられるまでの経緯や顛末があんだけの分量のペーパーにまとまろうはずがないじゃないか。また記事の表現では正確でないこともあるだろう。すくなくとも地点からすれば「それは違うよ」という箇所はおそらくある。なければとうに謝罪なり地位保全なりしてるだろうから。


僕は地点が多分好きだし、なにより団員の友達がいる。
とはいえ私自身、一人でやってる俳優だ。記事を鵜呑みにするわけじゃないが(というか鵜呑みしにくいぐらいひどい処遇だ)ふざけるなという思いもある。
昨日の舞台を見て、私は、地点の「演劇への誠実さ」を痛いほど再確認した。
それと同じぐらいの誠実さで被害を受けたとされる人(とユニオンの方)と交渉していてほしいと願う。

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